【第2話】書斎に記された世界
「リオル…」
母親らしき人がそう呟く。俺に向けられたその音が、名前であることは、なぜか理解できた。次の瞬間、一瞬の違和感を覚えた。時間が止まったような、音が消えたような、不思議な感覚だった。前世では、孤児だった俺を名前で呼ぶ者はいなかった。だからだろうか。
たぶん名前を呼ばれたことが、嬉しかったのだと思う。
「ノア、その子の名前はもう決めたのかい?」
父親らしき人が扉を開け、部屋に入って来るや否やすぐ、ノアに問いかけた。
「えぇ、決めたわ」
ノアはそう答えると、俺を胸に抱きよせる。
「リオルよ、この子のかわいい顔を見ると、この名前しか出てこなかったの」
父親は一瞬だけ俺を見て、それから小さく微笑んだ。
「いい名前だね」
そう言って近くにあった椅子に腰を下ろす。椅子がわずかに軋む音がした。
それだけのことで、部屋の中に流れていた緊張が、ゆっくりとほどけていく。
ノアは何も言わず、俺を抱いたまま小さく息をついた。
その動きは、長い間張りつめていた糸が、ようやく緩んだようにも見えた。
窓の外は、秋晴れの昼だった。澄んだ光が部屋に差し込み、床に淡い影を落としている。
――安全だ。
そう判断した瞬間、身体から力が抜けた。戦場では、一度も許されなかった感覚だ。傭兵時代には、決して味わえなかった静けさが、そこにはあった。
次の日、父親の姿が見当たらなかった。家の奥から、紙の擦れる音が聞こえる。音のする方へ向かうと、扉が半分ほど開いていた。部屋の中には、本が並んでいた。棚に収まりきらず、机や床にも積まれている。紙の匂いと、少し古いインクの匂い。
戦場とは、まるで違う空間だ。
一冊の本が、床に開かれたまま置かれていた。挿絵には、人間とは明らかに違う容姿の悪魔が描かれている。
その横に、その悪魔について文が添えられていた。
《魔人族は、人とは異なる姿と力を持つ種族である。老いることもなく、その寿命は人の理解を超える。彼らは理知的である一方、感情に乏しく、目的のためなら犠牲を厭わない冷酷さを持つ。
人間社会に溶け込むことはなく、必要とあれば、平然と争いを選ぶ存在だ。ゆえに、魔人族との接触は最小限に留めるべきであり、彼らを信頼することは、大きな危険を伴う。》
『随分と都合のいい書き方だな。少なくとも、この文章を書いた人物は、魔人族と向き合うつもりがなかったのだろう』
俺は、そのページから視線を外し、非力な手でそっと本を閉じた。
「それは魔人族について書かれた本だね」
振り返ると、父親が扉の前に立っていた。いつからそこにいたのかは、わからない。俺は、ただ首をかしげることしかできなかった。
父親は本棚に並ぶ本を何冊か取り出し床に並べた。どれも分厚く、表紙には見慣れない家紋や国のシンボルが描かれていた。いろいろな国や人が、他種族について記した本なのだろう。
「この世界にはね、人間以外にも、いろいろな種族がいるんだよ」
読み聞かせるような口調で、父親はゆっくりとページをめくっていく。
次にその書斎を思い出したとき、俺はもう、自分の足で歩けるようになっていた。あの日以来、父の書斎で本を読むのが日課になっていた。本棚に並ぶ背表紙を、端から順に目で追っていく。気になったものを引き抜き、ページをめくる。分からない文字もあったが、意味だけは不思議と頭に入ってきた。
種族について書かれた本。国や歴史をまとめた記録。力や才能について触れている文献。どれも断片的で、ひとつひとつは繋がっていない。だが、読み進めるうちに、共通して現れる言葉があった。
《力》
《才能》
《継承》
そして、どの本にも当然のように書かれている言葉。
《スキル》
詳しい説明は、どこにも載っていなかった。あるのは前提としての記述だけだ。
人は、生まれながらに力を持つわけではないこと。条件を満たした者だけが、ひとつの力を受け継ぐこと。
それを、この世界の人はスキルと呼ぶ。
第3話も楽しみにしててください。




