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雪転女(ゆきころめ)

作者: お知
掲載日:2026/01/19

僕の住む町には雪転女(ゆきころめ)が現れる。

満月も凍える夜、真っ白な山の斜面を裸の女が転がり落ちてくる。腰まで伸びた黒髪を振り乱して雪を散らせて。その女に魅入られた者は抱きつかれて横倒しにされ、雪転女と共に永遠に雪の上を転がり続けると言われている。

 

深雪みゆきとは中学三年の冬休みに塾の短期講習で知り合った。高校受験まであと少しの時期なので、僕は必死で勉強していた。そんなゆとりのなさを揶揄うように深雪は僕の心の中にすうっと溶けて分け入った。

深雪と廊下ですれ違ったとき、僕は下腹部に熱の塊を押しつけられた。まだ口も聞いたことのない相手なのに、とりたてて美女でもないのに、一瞬で魂が痺れてしまった。

生まれて初めての感覚だった。この感覚が何なのか過去の体験と照らし合わせて熟考してみる必要があった。

これが俗にいう一目惚れなのか。


恋愛の体験ならすでにある。初恋は小五のときで、相手は隣の席の女の子。

その子の表情や友達との会話から趣味や興味を察知して、会話にさりげなく織り交ぜて歓心を買うのに専念した。僕の巧みな話術のおかげで彼女はよく笑い、快活だった。彼女の幸せを担うのは自分なんだと誇らしかった。


中学では周りと競い合うように両想いの女の子たちとデートした。その数が増えれば増えるほど、自分はうまくやっている、一端の大人に近づいていると満足した。

深雪に抱いた感情を恋と定義するのなら、過去の行為はママゴトに過ぎない。互いにまだ面識もなく廊下ですれ違っただけなのに、彼女のオーラに触れた途端、全身が官能で戦慄いた。自分の肉体でありながらもはや制御不能だった。理性を働かせて冷静になろうと努めても、一度タガが外れた情熱を押さえつけるのは困難だった。

それなりに場数を踏んでいて女の子には慣れているはずなのに、深雪の放つ甘苦しい空気を直に吸い込むだけでぞくぞくした。深雪のエネルギーが一日中僕の体内で暴君と化しているので、僕はいつも高揚していた。下半身が常に漲って充実しており、オスとしての本能が否が応にも高められた。

僕の空想の中だけでなく、血肉を持つ本物の深雪と対峙して絶え間ない熱情の源泉を突き止める必要があるのだが、記憶の中の彼女にすら圧倒される現状では深雪と直に口を利くのは腹上死と変わりなかった。少しずつ彼女のエネルギーに慣れながら近い将来面と向かって話せるように、彼女にふさわしい同級生になるために、深雪と同じ高校に合格することを目標に勉強に打ち込む決意をした。


晴れて希望の高校に進学し、心躍る春になるはずだった。

深雪は同じ高校にいなかった。僕より成績が良かったのに。直前に第一志望を変えたのだろうか? それとも急遽家庭の都合で県外に越してしまったのか。

同じ冬期講習に通っていた仲間に尋ねても、誰も彼女を知らなかった。

確かに深雪は目立たなかった。人目を惹く華やかさや明るさはない。けれども、控えめな雰囲気の中に匂い立つような色気があるから、僕以外にも一人ぐらい気に掛ける奴がいても良さそうだが。

彼女の消息を知る人がいないので、予備校の窓口で尋ねることにした。


受付の窓口は几帳面が服を着てかしこまっているような中年女性が応対していた。紺色ベストの胸元には江古田という名札があった。

素性を怪しまれないよう自己紹介から入ろうと思った。

「この塾の冬期講習に通っていた内村です。おかげさまで第一志望の県立二高に合格しました。

同じ高校を第一志望にしていた深雪さんについて伺いたいのですが」

「個人情報についてはお答えできません」

江古田さんは断固とした口調で言った。

僕は持ち前の演技力を発揮した。

「深雪さんから冬期講習で借りていた参考書があり、うっかり返すのを忘れていました。教室で毎日会えると思っているうちに風邪を引いて休んでしまい、LINE交換もしないまま冬期講習が終わってしまって・・・講習中に友達が何人かできたけど、誰も深雪さんの連絡先は知りません。

値段を見るとかなり高価なものなので、ぜひ本人に直接渡してお礼を伝えたいのですが。住所がだめなら、せめて進学先の高校名だけでも教えてもらえませんか? 地元の高校なら、中学時代の同級生が通っていて、橋渡しをしてくれるかもしれないし」

江古田さんは眉を寄せてため息をついた。

「今回だけ特別ですよ。その方の苗字をお願いします 」

「下の名前の漢字しか分かりません。深いに雪と書いて『みゆき』です」

「名前に雪がつくのですか? 」

「はい」

「そんな名前の方はおそらくいないとは思いますが」

江古田さんはPCのキーボードを叩きながらモニターを覗き込んだ。

「学年は中三ですよね。今年の冬期講習にその名前の受講生は見当たりません」

もしかして違う学年なのか? いつも同じ階の廊下ですれ違うからてっきり同学年と思っていたが。

「念のため中二と中一の冬期講習の受講生も調べてもらってもいいですか? 」

「他の学年にもいませんね」

「冬期講習のリストにはなくても普段予備校に通っている受講者リストにいませんか? 冬休みの間に自習室を毎日利用したのかもしれないし」

「そういう可能性もあるかと思い、中一から中三までの登録された受講生を全員調べてみましたが、雪がつく名前は見当たりません」

「おかしいなあ。確かに深雪だったのに。もしかして漢字が違っているのかなぁ」

一体どうやって深雪の名前を知ったのか、今となっては思い出せない。とにかく僕の中で彼女はみゆきであり、深雪という漢字がふさわしかった。


「失礼ですが・・・内村さんはよそからいらした方ですよね? 」

江古田さんが僕の顔を窺った。

「えっ、もしかして訛っていますか? 同級生にも地元出身だと勘違いされるほど馴染んでいるけど」

「よそから来た人はこの町のタブーを平気で口にするから分かります。地元の人間なら雪のつく名前を子供につけないし、雪のつく名前を持つ相手とは関わらないよう注意します」

思いがけない差別意識に僕は言葉を失った。

江古田さんは言い訳するように説明した。

「この町では名前に雪がつく人との交際を避けたがります。昔からそういう習わしがあるんですよ」

「そんなことを言ったって、親からもらった名前だから仕方がないのに」

 僕は深雪の思いを代弁するように抗議した。

 江古田さんは宥めるような表情で、

「仕事の都合で他所から来た人は職場の人間しか付き合わないし、数年もすれば立ち去るからそれほど被害はないですよ。特に最近の若者は名前に関する差別意識がほとんど無くて、伝説事体を知らない場合があるらしいので」

「じゃあ、深雪は・・・」

「そんな名前の受講生がいたら予備校スタッフの間で噂になります。女で、しかも名前に雪がつくなんて『雪転女(ゆきころめ)に違いない』と必ず誰かが言い出すでしょう」

「妖怪は予備校に通ったりしませんよ」

僕が笑うと、江古田さんは真面目な顔で反論した。

「数年前も、内村さんのような男子生徒が雪のつく名前の女子生徒を探し回っていたことがありましたよ。(あやかし)は憑りつく相手を見つけたら手段や場所を選びません」

何と言ったら良いものかと黙っていると、江古田さんは話を続けた。

「私が嫁いで間もない頃、義理の母は『雪の妖は人間に化けるとき、名前に雪をつけるから注意しろ』と顔を合わせるたびに言っていました。

 私も結婚してよそから来た人間なので言い伝えを丸々信じるわけではないけれど、世の中得体の知れないことも起こるから、内村さんも注意してくださいね。この町は真夜中に失踪者の数が圧倒的に多いから」 


江古田さんのおかげで僕は雪転女に興味を持った。

町立図書館で片っ端から雪転女についての書物を読み、朝から晩まで深雪のことを考えた。

思い返せば、深雪の外見は昔の文献が示す雪転女とそっくりだった。腰まで伸びた長い黒髪、雪のように白い肌、血の淵のように湿った唇、斜視がかった切れ長の眼差し。

僕は選ばれた男だった。僕を誘惑したいがために、彼女は予備校まで現れた。一瞬すれ違っただけで鳥肌が立つほど甘く獰猛なエネルギー。人間同士の交わりでは決して体験し得ない凶器の如き恍惚と快感。もう一度彼女に出会えるのなら、命を捧げても悔いはない。


雪転女は、満月の真夜中に白銀の山の斜面を転がり落ちてくると伝えられる。深閑とした夜更けを好み、不特定多数が浮かれ回る賑やかなハレの夜には姿を見せない。

もう一度深雪と逢いたいのなら、誰も足を踏み入れない新雪の原野を目指すべきだ。雪景色を愛でるのにふさわしい穏やかな晩より、誰もが固く戸を閉める吹雪で荒れる夜更けが良い。

 僕は雪が降りしきる真夜中に、雪転女の伝説が眠る山のふもとを目指して歩いた。

死を覚悟した彷徨であっても、深雪と出会う前に行き倒れたり凍死してしまっては意味がない。スキーウェアに身を包み、頭にはニット帽をかぶり、足元はスノボーブーツの重装備で防寒対策は万全だった。

装いが完璧すぎて歩く距離に比例して暑くなり、背中が徐々に汗ばんだ。のぼせそうになりながらもぎりぎりで理性を保てたのは、むき出しの頬に容赦なく打ち付ける粉雪の冷たさのおかげだった。

少しでも深雪に逢う確率を高めるため、裸の女が転がりやすい山の傾斜に沿って雪原を歩くよう配慮した。


誰も立ち入った痕跡のない雪の大地には外灯も町の明かりも届かず、ただ静かに月の光が雪を照らす。降りしきる雪が目隠しのように前方を遮り、白銀を照らす月明りだけを頼りに降り積もった足下の雪を踏みしめる。

体力には自信があるはずだった。が、吹雪の中完全防寒の重い装いで足元の分厚い雪に足を捕られないよう気をつけながらひたすら前進するうちに体が火照って疲労が押し寄せ、このまま雪に埋もれて眠ってしまいたい衝動に駆られた。頬を叩きつける吹雪のみがしきりに覚醒を促した。このまま野垂れ死ねば、深雪にかけた情熱と努力が水の泡になる。雪上で凍死するぐらいなら、柔肌と黒髪に絡みとられて転落したい。


丑三つ時に近づくにつれ外気はますます寒くなり、歩けども体が温まらない。二重に靴下を履いている足先も厚手の手袋をした指先もかじかんで凍えが増すばかりで、身体の芯が氷柱のようで呼吸をするのも辛かった。

徐々に鈍っていく頭の隅でぼんやり思うのは深雪のことだ。初めてすれ違ったときの抑えがたい胸の高鳴り。情愛と優しさの籠った眼差し。俯いた横顔の艶めかしい瑞々しさ。誘うようにさらさらと揺れる艶のある黒髪を何度も何度も思い浮かべた。


疲労と寒さのあまり意識が朦朧とし、女が目の前に現れても果たしてそれが深雪なのか、自分が求めていた女なのか、それとも別の相手なのか見分ける自信がなくなってきた。もはや誰でもいいから彷徨える自分を救ってほしい、あのときと同じような甘美な空気で自分を包んで愛でてほしい。そんなことを思いながら気力を振り絞って雪をかきわけ、重い足取りで前進する。


忽然と吹雪が止んで視界が開けた。

満月に照らされて、前方に聳える雪山の高い斜面から裸の女が転がってきた。腰まで伸びた黒髪は青白い肌を乱れ打って踊り、呼応するように豊かな乳房が激しく揺れて雪飛沫をまき散らした。裸体の回転が速いため顔立ちはよく分からない。上体に黒い髪がまとわりついているので尚更だ。

それでも僕は深雪だと直感した。彼女特有のエネルギーが辺り一面を支配していた。

僕は彼女に気付いてもらうため斜面の下に立って待ち構えた。

深雪は激しく回転しながら僕の方へとやって来た。そのまま素通りしていくので、僕は大声で引き留めた。

「待って! 」

伝説では、雪転女は若い男を求めていた。縋りついて押し倒し絡みついて放さぬままどこまでも転がり続けるのだ。

僕が見えていないのだろうか。ありったけの声を出し自分の存在を主張した。

「ここに僕がいるだろう! 僕を抱きしめて」

 格好の獲物を見逃すのか? 

彼女は一瞬動きを止めて僕を見た。

「だって、あなた、女でしょう」

雪転女はそう言い残して再び転がり、夜の闇へと消えていった。

              


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