03
お茶が――こぼれた。
「うわっ、やば――!」
言葉が口をついて出るよりも早く、俺の手元で急須がグラついた。
傾いた注ぎ口から、薄茶色の液体がスローモーションのようにあふれ出す。
止めようとしたその瞬間――
液体は弧を描くように机を飛び越え、まっすぐ篠宮の方へと。
そして――彼女のスカートに、ぶしゃっとぶちまけられた。
「……っ!」
篠宮は驚いたようにぴくりと身を固め、ゆっくりと視線を下ろす。
ベージュのロングスカートに、ありえないほど目立つ茶色の染み。
しかも、それはじわじわと下へ広がっていく。
布地に染み込みながら、痕跡をどんどん濃くしていく様子は、何とも言えない罪悪感を刺激した。
「……っ、ご、ごめんっ!!」
俺は手に持った急須を抱えたまま、完全にフリーズしていた。
脳が動かない。口もうまく回らない。
今、時間よ、止まってくれ。
「だ、大丈夫……?」
何が大丈夫だよ。全然大丈夫じゃねぇだろ。
訊きながら、自分でも無意味な言葉だとわかっていた。
篠宮はため息をつきながら、スカートを見つめて、ぼそりと。
「それ、私が聞く側でしょ。どうして急にお茶なんてこぼしたの?」
「いや、それ俺のセリフだから!急に手を掴むなよ!」
彼女はもう一度スカートを見下ろし、眉間にしわを寄せた。
「はあ……このままじゃ寮に帰れないな……着替えないと。」
――ごめん。本当にごめん、篠宮。
でも、そうだ。
「その格好で外歩くの、けっこうキツいと思う。
たしかこの部室に、昔使われなかった衣装が残ってたはず。」
そう言いながら、俺は棚やロッカーをひっかき回し始めた。
「言われてみれば……そうね、これじゃさすがに歩けない。」
篠宮はスカートをハンカチで軽く叩きながら、顔をしかめる。
でも、染みはどう見ても目立っていて、無理やり誤魔化せるレベルじゃなかった。
ガタガタと棚を漁って、ようやく数着の衣装を見つけた……が。
「女性用、これ一着だけだな。他は全部男物。サイズ合わないだろうし。」
新品のまま包装されたスカートを手に取って、彼女に差し出す。
「ミニスカート……まあ、今は文句言ってる場合じゃないか。」
彼女はそう言って、更衣スペースに入り、カーテンを閉める。
「ちょっと、見張っててね。」
俺は頷いて、机の上に残っていた書類に目をやった。
幸い、チラシが濡れたのは端の一部だけだった。
被害を免れた勧誘用の資料を丁寧に整え、一番上に印刷された大きな文字をぼんやりと見つめる。
――「映画制作サークル 新入部員募集中」
法学部と経済学部が中心の、ガチガチの名門大学。
ここに映画制作に本気で興味を持ってる学生なんて、本当に存在するのか?
いや、仮にいたとしても、人数の少なさにビビってやめちゃうんじゃないか?
それなら、昔のメンバーを呼び戻す……?
でも、あのとき去っていった彼らが、戻ってきてくれる保証なんて――
脳内でネガティブな想像が、無限ループしていた。
本当に……俺にできるのか?
「……湊くん?」
我に返ると、カーテンの向こうから篠宮が顔を出していた。
既に着替えは終わっていて、ミニスカートの裾がふわりと揺れる。
スカートの丈以外は、いつもの落ち着いた雰囲気のまま。
でも、どこか目元が柔らかくなっている気がした。
「もー、そんなにぼーっとしてたら、誰か入ってきても気づかないよ?」
「わ、悪い……」
彼女は荷物を片づけながら、出口に向かって歩き出す。
「茶器、私が持って帰って洗っておくね。
じゃあ、また後で。」
そう言い残して扉を閉めた瞬間――部室は静寂に包まれた。
聞こえるのは、窓の外から吹く風の音だけ。
やっぱり、あの件……気にしてたのかな。
表情には出さなかったけど、内心ではちょっと嫌だったんじゃ――
ごめん、篠宮澪依。
もう一度、心の中でそっと謝った。
でも、俺もそろそろ動き出さないとな。
*
「……本当に誰か見てくれるのか?このチラシ。」
キャンパス内の掲示板に勧誘チラシを貼りながら、何度もそう思った。
風は少し強く、空は曇りがちで、キャンパスの芝生に人影もまばら。
あちこちで新歓ビラが乱立する中で、自分の作ったチラシが埋もれてしまうような、そんな感覚。
「映画制作サークル?え、ハリウッドみたいなやつっすか?」
通りすがりの男子学生にそう言われたとき、思わずフリーズした。
いや、なんで“ハリウッド”なんだよ。
一流大学の学生が言うことか、それ。
何度かそんなやりとりを繰り返しながら、
俺は最後の一枚のチラシを、図書館近くの掲示板に貼ろうとしていた。
指先で画鋲を押し込む、その瞬間。
――背後から、感情のこもっていない声が聞こえた。