01
春の風はどこか冷たくて、まるで「今を大切にしろよ」って言われてる気がした。
一年の始まりを、ぼんやりと過ごすなって。そんな無言のメッセージ。
俺は映画制作サークルの部室の扉を押し開けた。
ヒンヤリとした金属の軸が音を立て、細かな埃がふわりと舞い上がる。
油と古い機材の匂い、そしてカーテンに染みついた陽だまりの匂い。全部、懐かしい。
かつて、ここは賑やかだった。
笑い声、叫び声、喧嘩の声、アイデアの嵐……全部、ここにあった。
でも今は――静寂しか残っていない。
「……やっぱり、もう誰も来てないか。」
俺の声が室内に反響して、静けさがより際立つ。
部室の真ん中に立ち、ゆっくりと見回す。
壁には剥がされずに残った絵コンテがまだ貼ってあって、端がくるんとめくれている。
テーブルには、黄ばんだ脚本の草稿。
カメラと照明機材には布がかけられ、その上に薄く積もった埃。
――去年のあの出来事以来、誰もここには来なくなった。もちろん、俺も含めて。
新学期が始まったタイミングで、もしかしたら誰か戻ってくるかもって思ったけど……
どうやら、そんな都合のいい奇跡は起きなかったらしい。
映画制作サークル……このまま、静かに幕を下ろすのか?
……いや、そもそも大学生に映画なんて、本気で作れると思ってた俺が甘かったのかもしれない。
俺が角に倒れていたライトスタンドを立て直そうとした、そのときだった。
――コツ、コツ、コツ。
軽やかな足音が廊下の向こうから近づいてくる。
ヒールの踵が床を叩くその音は、どこか心地よくて、やけに明るく響いていた。
そして、部室の扉が再び開く。
「やっぱり、湊くんだった。」
ドアの向こうに現れたのは、ベージュのロングスカートを身にまとい、穏やかな笑みを浮かべる篠宮澪依だった。
一方の手には書類の詰まった袋を抱え、もう一方の手には湯気の立つ急須を提げていた。
額の前髪には汗がにじんでいて、小走りで来たのが一目でわかる。
ああ、そういえば今朝、彼女から「今日、部室行かない?」ってメッセージが来てたっけ。
俺もちょうど気になってたし、様子を見に来たんだった。
「久しぶりだな、篠宮。それより、今日は何で俺を呼び出したんだ?」
「新しい学年も始まったし、そろそろ過去のことは乗り越えて、サークルをもう一度立て直したいと思って。」
彼女の視線が、壁の絵コンテに向く。
「湊くんって、映画作りにすごく熱中してたよね?」
「まあ、映画作るのは好きだけど……それとサークルの再始動は別の話だろ。今となっては、俺たち二人しかいないんだぞ?」
「でも考えてみて。もう私たち、三回生だよ?映画を作るなら、これが最後のチャンスじゃないかな。」
……言われてみれば、確かにその通りだ。
この機会を逃したら、たぶんもう一生、「学生映画」を作る機会は訪れない。
「いま、仲間を集めて一本撮れる人って、湊くんしかいないと思うんだ。」
「俺が?」
彼女は何も言わずに微笑んで、急須をテーブルに置いて、ソファに腰を下ろした。
俺も向かいの席に座り、茶を注いで差し出す。
「でもさ、どうやって再スタートすればいいんだ?」
彼女は答えず、そっと俺の肩にもたれかかる。
鼻先にふわりと香る蘭のような上品な香り。――相変わらず、いい匂いだな。
しばらく沈黙が続いて――
「湊くん、大掃除しよう。」
静かにそう言って、彼女は立ち上がった。
一緒に部室を掃除し始める。
教育学部の彼女は、いつも優しくて落ち着いているけど、意外と作業になるとてきぱきしていて頼もしい。
俺は古い監督用の椅子を拭きながら、背もたれの埃をパッパと叩く。
「これ……確か藤沢先輩がどうしてもって言って買ったやつだよな?」
「うん、もう卒業した前の部長さんのことだよね?」
「そう。『監督に専用の椅子がないと、本格的とは言えない!』ってさ。
……まあ、結局一度も自分じゃ座らなかったけど。」
「もしかしたら、まだ“監督”として撮り終えてなかったからじゃない?」
その言葉に、俺は思わず口をつぐむ。
だって、あの時の“未完成”は……俺のせいでもあったから。
監督椅子をじっと見つめながら、静かに呟く。
「今度は……俺が、完成まで導くよ。」
「じゃあ湊くん、今回はどうやって始めるつもり?」
彼女が俺を見上げる。その目は真剣で、でもどこか安心させてくれる温かさがあった。
あのときサークルがギスギスしていた中で、最後まで空気を壊さずに繋いでいたのは、彼女だった。
そして今、再建のきっかけを作ってくれたのも彼女だ。
「まずは、新入部員を集めようと思う。
人を集めてから、今回のテーマを決めたい。」
彼女がぱちぱちと瞬きをして、首をかしげる。
「前の作品を、そのまま続けるつもりじゃなかったの?」
「いや、それはダメだ。
俺がやりたいのは、“あの失敗の続き”じゃなくて、
ちゃんと最後まで完成させる――“俺たちの映画”だよ。」
篠宮はにっこりと微笑んでうなずいた。
「うん。じゃあ、もう一度始めよう。
人集めから、脚本から、第一回のミーティングから。」
「そうだ――これ、前の映画の脚本じゃない?」
彼女の指差した先を見て、俺はハッと息をのんだ。