三の②
朝の澄んだ空気の内に、一人悶々としている人の後ろ姿を捉え、声かけたのは彼である。
「よお、倉野」
僕は振り向く。
「何だってこんな朝早くに」
「まあな」
彼は僕に並んで景色を見渡した。前方にある高いフェンスを越えて、ビルが頭を突き出している。一度視線を落とすと、やはりグラウンドが広がっている。見上げると曇りがちの空である。
「ミステリーマークはいくつ集まった」
「あっ、」
「あっ?」
「家に忘れてきちゃった」
「馬鹿!」
随分辛辣な注意である。
「馬鹿って……」
「あれは大事な宝物なんだぞ? 誰にもとられちゃいけないんだ。お前が七つ、全部集めて、で、俺たちにちゃんと見せるんだ。七つ集めましたって」
『俺たち』が誰を指すのか、いまいち要領を得ない。ただ、目指すべき終幕は、今はっきりと示された。これは俗に言う『ネタバレ』と言うやつであろう。
「持ってこなきゃ駄目?」
「駄目だ」
彼には、一歩も譲る気が無いらしい。僕は結局観念することになる。
「お前はハートと四角と丸を集めたはずだ。だから、今日はダイヤとクローバーとスペードだ」
「トランプかよ」
「別に、他に適当な形があれば良いんだ。何かあるのか?」
「いんや」
「なら文句言うな」
もう壮大な設定も何もあったもんじゃない。とにかく、描いた幕切れへ誘導しようと躍起だ。
「まず、今日一時間目が始まる前にダイヤを貰わなくっちゃならないから、職員室へ行け」
「職員室だって?」
「ああ。そら、早く」
僕は押し出されるような形で廊下に放られた。彼はぴしゃりと扉を閉め切り、さあさっさと行かんかと言わんばかりである。
既に春だと言うのに、無人の廊下は妙に肌寒い。すれ違う生徒がある。渡り廊下を行く時、中庭に二、三人たむろしているものを見つける。この時間にも、どうやらちらほら気の早い者たちが見受けられる。
職員室さえまばらである。二度ノックして、失礼します、と入室したは良いが、用件がちっとも分からぬ。すると、当用も無いのに、僕は生徒の分際で堂々教員の住処に侵入したことになる。それでは少々まずいから、とりあえず自分の担任の教師を呼ぶ。竹山先生は、赤縁の眼鏡をかけた若い女性である。
「どうしたの、倉野くん」と、積極的に話に耳を傾ける体である。有難いが、今回のように手持ち無沙汰な身には沁みる気づかいである。まさかミステリーマーク云々の話を持ち出す訳にもいかない。
「奴から何か聞いてませんか」と至って曖昧な問いを投げかける。
「奴?」
「はい」
「見当はつくけど、」
「それじゃあ、有難いです」
先生は「ちょっと待って」と言い置いて、一度自分の机に帰る。で、すぐに戻ってくる。
「倉野くんが欲しいの、きっとこれでしょう」
先生が差し出したダイヤ型のマスコットは、本来僕にとって微塵も必要の無いものであるが、「ええそうです」と不思議な心持ちで答えた。
「そう。じゃあ、あげるわ。——何だか妙ね」
「妙、ですか」
「ええ。あの子たち、何か企んでいるんじゃ無いかしら」
「何も企んでいなかったら、逆に怒りますよ」
「あはは、そうね」
先生とのやり取りは、いい加減で打ち切って、彼の所へ次の指示を仰ぎに行く。こうしていると、本当に駒と化した気分だ。四つフェルトを手に入れて、物欲が満たされた感じを覚えるのもおかしい。
教室はもう早朝ではない。ぽつんぽつんと会話が始まって、重なって、喧騒となる。その最高潮に足をかけた辺りの部屋に、僕は立ち入った。彼はとっくに他の仲間に出会って、楽しそうに話をしている。僕はどうやら自席に静かにしている他あるまい。
授業の描写は省略する。当然だ。また、昼飯も割愛させていただく。全く、本筋と関係が無いからだ。要は、次にクローバーをいただく場面へと跳ばなくてはならない。
明日からテストが始まると言うのに、随分呑気に劇は進んでいる。結局早朝にダイヤを手に入れた後、その日は何も起こらなかった。
しかしクローバーが手に入ったのも呆気なかった。僕と彼とが共に家路を辿り、途中立ち食い蕎麦屋に寄った際、彼が「ん」と差し出してきた。僕は「おお」と応えて受け取った。
こうなってくると、スペードも早い。ほらよ、とあまり交流の無いクラスメイトから、勉強を教えた見返りに手渡された。僕は何がどうだかよく分からんが、「ありがとう」と告げていた。
彼は、これで僕が七つとも紋章を集めたと思っている。けれども、実際にはまだ足りていない。——あの、中村の分である。