三の①
三
先輩に会った後の話はと言うと、取り立ててここに述べることは無い。つまり、僕はその後、平穏に自宅まで帰り着いたと言うことだ。ただ、夜になると電話がかかってくる。その主は全てを始めさせたあの彼で、曰く「明日は八時までに学校に来てくれ」と言う。この要望は、とうとう僕の生活を左右するもの(いつもより早起きしなくちゃならない!)であるから、「嫌だ」と反逆するが、当然のように聞き入れられない。
「じゃあな」と一方的に切られる。この一連のやりとりを、僕への軽侮ととるか信頼ととるかで前向き後ろ向きが試されるのかも知れないが、僕はどちらにも当てはまらない。信頼されているとは到底思わないし、軽んじられているかどうかはこの際気にしない。僕は彼らから絶大な評価を得たいわけじゃない。そういうしがらみはとっくに棄て去った。このような感情をしがらみと称するのは、これが間違いなく弊害の一種であり、潤滑に生きるのを阻害するに決まっているからである。僕は、彼らからどう思われようと、どんな風に見られようと、できるだけ気に留めないつもりである。だが、最低限の付き合いはしなければならないし、僕だって人間だから、他人と触れ合って適度に感情を動かしていなくてはならない。そのための他人として彼らは僕にとって必要な存在であるし、間柄をぞんざいにするわけにいかないのはこれまたそうなのだが、かと言って繋がる事にばかり気を取られると、自分というものが放ったらかしになってしまう。自分を形作るために自分を失うとすれば、これほど明白な滑稽はあるまい。故に僕は、彼の僕を見つめる視点に、あまり頓着しないことにしている。
僕が翌朝律儀に早起きをして、登校するのは、ほとんど反射的なものである。指が湯に浸かれば、熱いと引っこ抜く。球が目前に現れれば咄嗟に顔をよける。来いと言われれば行く、難解な思考回路など突き詰めるのが徒だと思われるくらい、即時に物事を決定している。とにかく、八時より前に学校へ着かなくてはならない。
いつもより早くの電車に乗り込むと、混雑がいくらかましだ。降りると、登校経路には人が少ない。一年の頃は朝、コート整備をする為にこんな景色の道を良く辿ったものだ。
教室は無人である。自分の席に着くと、黒板の頭上に張り付いている時計を確認する。七時四十五分で、余裕をもってきちんと約束を果たしている。こうして手持ち無沙汰に、一人静かな教室に居ると、何だか侘しい心持ちがする。漠然としているが、とにかく空虚で、むなしい。悲観的になるというより、感慨は微動だにせず、運動不足に陥った感じである。だからいささかでも動かそうと、窓を抜けてベランダに出る。
春の生暖かい風が吹く。ところがそう思うと、次にはちょっぴり冷たい。手すりにもたれて、グラウンドを三階のこの位置から一望する。そう言えば昨日はあのトラックの手前で、女子と競争したっけ——女子というのは、つまり中村のことだ。いい加減、劇に準じた呼称はやめようか。一日経つと、自分が訳の分からぬうちに主役を引き受けた感覚など、喪失してしまった。僕は今日も、知らぬうちに僕という人間を当然のように生きている。僕はずっと前から僕であったはずだし、これからも僕であり続けるだろう。どう言うわけかそんな思いを強く覚えた。何が劇で、どこからどこまでが劇なのか、劇があるとすれば——空疎だった僕の考えは、一転混濁する。