一の②
そこに現れ出てくるのが、事件である。一人の女子が僕の行く手を遮った。紺色のスカートを風になびかせて、少し伏した視点から斜めに見上げてくる。髪の長く伸びた先が、また颯と浮き上がった。
「よう、中村」
「やあ、倉野」
女子は微笑んだ。
「調子はどう?」
「どうってことないよ」
「うん?」
彼女の語尾を上げるのは、必ずしも疑問形だとは限らない。そういう癖があるのだ。
「ねえ、ミステリーマークって知ってる?」
「さっき知った」
「へえ?」
「それが何さ」
「あのさ? 私、それのある場所知ってんだよね?」
「どこにあるの?」
「それがね、」
彼女はちょっともったいぶる。手を後ろに組んで、足元を落ち着かせない。僕は催促してやらなければいけない。
「何さ」
「ほら、ここにあるの。そこの植木に落ちてたんだ」
彼女の指差したのは、門前の植え込みである。
「どうして?」
「どうしてって、それは愚問だわ。たまたま落ちてて、私が見つけたの」
何だか劇の展開が雑になってきた。確かミステリーマークと言うのは誰だか悪い奴が六つ所持していて、僕の預かった残り一つを追い求めているのでは無かったか。それが、どうにも落としようの無いような道の脇の草むらの中にポツンと落ちていたと言う。一体、脚本家は誰だろう。
「へえ、ちょうどいいや。俺、ミステリーマーク集めてたんだ」
どうであろうと僕は役者なのだから、ちゃんと演技をする。女子は満足そうに受け答える。
「譲ってもいいけど……倉野くんが私とゲームをして、勝てたらね」
ほら、人はともすると勝敗をつけたがる。勝負こそがきっと面白くて、見世物にもなるのだと信じている。だから、二流の脚本家は女子にこの台詞を言わせた。それだけでなく、僕は何だか間抜けな形でこの誘いに応じなくてはならない。
「ゲーム?」
「うん?」
「何で?」
「何で、じゃない! ほら、校庭に来て!」
今の台詞は、彼女にしては珍しい、命令形である。
僕は、校庭に行く。きっと脚本に準じた行動である。最初からそこに違おうと言う気概は無い。何故だか分からんが、彼が五限と六限の間を縫って仕掛けてきたのが始まりで、そこから壮大なんだか矮小なんだか分からない劇の、どうやら大役を任されたらしいから——劇、劇と先刻から連呼しているが、うん。これはどうも、やはり作り話らしい。ミステリーマークなど、架空に決まっている。
ここで僕は初めて、この劇には彼らの意図が隠れているのではないかと考えた。今のところ登場人物は、僕の親しい人ばかり。誕生日はとうに過ぎて、特段のこともなかった。彼らが僕に対して、何かしらの成果を期待しているのではないかとも考えた。これを機に、部を引っ張って行く気質を育てる為——次期部長は、既に先の彼に決まっている。
ともかくなぜ彼らがこんな茶番を大がかりにするのか、見当もつかない。当初は全く無考えで、見当つけようとさえしなかったが、一度真面目に考えてみても分からない。
僕は女子と校庭にやってきた。そして、トラックのある地点まで案内された。まさか、徒競走をしようと言い出すわけでもあるまい、と身構えていたら、「さあ、競争だ」と彼女は言う。僕は咄嗟、自分の格好を確認した。無論、帰ろうという間際に誘われたのだから、黒の学ラン姿である。次に、彼女を見る。真っ直ぐ見つめ返される。仕方無く、腕まくりをする。——ここでも僕は優しいから、とやかく言わず、適当に従ってやる。名演技をしてやろうとは思わない。いざこざは面倒だが、今より何メートルか走る面倒に比べれば軽い。
彼女は満足そうに、頷く。
「じゃあ、ようい」と姿勢をとるから、さすがに一旦引き止めなくてはならない。
「ちょっと待って」
「何さ」
「競争してどうするの」
「決まってるじゃん。倉野くんが勝ったら、ミステリーマークをあげる」
あげる? と発音するから、真意がいまいち推し量り難い。
「くれるの?」
「もちろん」
女子は、今にも発進しようと言う構えである。僕も、しぶしぶ態勢をとる。
「よーい、どん!」
彼女は啖呵を切った。みるみるうちに、加速していくのは、彼女。僕は序盤足元おぼつかず、波に乗れない。その間どんどん引き離されていく。——人間、負けると思うと、素直にはならない。途端に、勝たなければならぬという本能が働く。例に漏れず、僕もそういう風に心を動かした。
何とか、土を強く蹴ろうとするのだが、靴の裏が平べったいらしく、滑って蹴る先後方へ力が逃がされてしまう。踏みつける具合を制御して、やっとそれなりの体勢を保った。が、彼女は既に数メートル先である。彼女だって制服のくせに、僕より遥かにうまく走っている。疾走していると言った方がいい。あの格好で駆けるのに慣れていなくちゃ、あり得ないと思う。
そうこう踠いている内に、やっぱり僕は負けた。そりゃあそうだ。僕はやれと言われたことはやるが、勝負事に覚悟を持って徹するほど真剣ではない。何とか勝ってみようとはしたが、これは単に人の性で、それ以上でも以下でもない。あらかじめ準備しておいて、やる気満々の彼女に、かないっこないわけだ。
彼女は怒っている。僕の方を振り向くと、腰に手を当てながらのっしのっしと接近してきた。僕はぼんやりと立っている。
「あのさあ、倉野くん。本気出しなよ。ミステリーマーク、集めたいんでしょ?」
いまいち気迫の無い叱咤である。これも彼女の口調のせいである。一方、しかりつけられた僕の方は、「まあ」と曖昧な返事をする。
「まあ?」
心底呆れたと言わんばかりの様子である。仕様が無い。不本意だが、致し方無い。
「もう、いいさ。じゃね」
「あっ……」
僕はこの時、変に言葉を詰まらせた。これは後から考えて、自分でも訳が分からないのだが——どうしてこんな風に、喉の奥がつっかえたような『あっ』を去り際の彼女に聞かせたのか、一向に分からない。何にしても、このあっ、は不恰好である。だから、あっ、などと跳ねずに、うん、でぴたと止まっておくのが良かった。まあ、あれこれ悔やんでいても、今更仕方が無いのだ。