日暮前の決心
「嘘をついてどうするの。此処から先はアンキス侯爵家の領地だよ?領主の縁戚であると偽ったところで、すぐにバレるに決まってるじゃないか!」
分かっている。眼の前の青年が身分を偽っていたとすれば、そもそもテイタルと面識は無いだろうし馬車から飛び出すはずもない。私との同乗を求めることだってしないだろう。
けれど彼がクロリアント・アンキスを名乗るのならば、これからの生活に多大な影響が出る。今しがたテイタルや青年から、行先は屋敷までと聞いたばかりなのだから。
「…侯爵とは、どのようなご関係かお伺いしても?」
「関係?そんなの聞いてどうするの?」
どうするも何も、これからの身の振り方と貴方への対応を考えるのよ。
…なんてことは言えず。
「私の記憶が正しければ、侯爵は前侯爵がお亡くなりになられてから間もなくして十代半ばの継承という、若きご当主であられた筈。前侯爵夫人のご事情によりご兄弟もなく、クロリアントの血筋も侯爵のみで屋敷や財産、土地などの全てが侯爵の物と認識しております。」
「そうだね?」
彼の笑顔が、彼自身から語られずとも彼がどのような人物であるかを私に知らしめる。
言葉を多くして相手の反応を伺おうとしたのに、彼からは受け入れたくない肯定しか得られず、私の口が余分に乾いただけで終わった。
世間に知られていない事情であるにも関わらず、平然としたその態度と、テイタルと交わした侯爵についての会話で上がった“不要なものや煩わしいもの”という言葉が重なる。
「…屋敷へ到着してから侯爵へ送る最初の手紙は、長くなりそうですね、テイタル。」
低く出た私の言葉に、テイタルは何も返すことなくただ頭を下げるだけだった。
侯爵の兄弟であったなら、前侯爵の隠し子であったなら、まだ私も平静を保てていたかもしれない。けれど眼の前の青年は私と歳が近そうで、どう考えても約三十年前に亡くなられた前侯爵の血である可能性は無い。
となると残るは一つだけ。
「侯爵のご子息であられるとは信じ難く、無礼を致しました。こちらの使用人共々、お許しください。」
「ああ、別に良いよ。許す許す。だって悪いのは全部あの侯爵だし。」
大きく頷きたい衝動を必死に宥めて、私は笑顔を返すに留めた。
青年、ノクトールは自身が世間に知らされていない存在であることを知っている。そして他人行儀な呼び方には、特別好印象を持っているわけでもなさそうだという印象を受けた。
「ご子息の頼みとあれば断る理由はございません。テイタルの提案の通り、明日は共に屋敷へ参りましょう。」
「やった!ありがとう!じゃあ明日ね!!」
瞬きの間に表情を明るくしたノクトールは、クルリと私達に背を向けて目前にある宿へと走っていった。その無邪気に見える後ろ姿を見送ってから、私は一気に力を抜いて馬車の座席に体を預ける。
「ねえ、テイタル。」
呼びかけに、彼は応えなかった。
それでも先程からずっとこちらへ頭を下げているテイタルに、私は言葉を続ける。
「ノクトール様は、旦那様からご子息と認められているという認識で構わないのかしら。」
言葉は返ってこないが、先程ノクトールと交わしたやり取りを考えればテイタルの沈黙は肯定であることなど分かりきったものだった。
ノクトールはアンキス侯爵家の子で、それを侯爵も認めている。
「…節操無し。」
「キルシエ、言葉が過ぎるし一応私は淑女で夫人なの。思うだけにしておきなさい。」
女性の前で“口にする言葉ではない”と宥めつつも、けして“考えることすらしてはならない”なんて言わない。
侯爵が多くの女性と関係を持っていることは知れていたこと。けれどまさか領地にこんな爆弾を抱えているとは、よくもまあ今まで他の貴族に悟られずに済んでいたものだ。
「ああもう、屋敷に着く前にこんな問題を知ることになるだなんて!!」
「申し訳、御座いません…」
漸く聞くことのできたテイタルの言葉は、謝罪のみだった。
それもそうだろう。どういう思惑があったのか、テイタルはノクトールが名乗るまで彼の身分を口にしようとしなかった。屋敷に着くまで、隠そうとしていたのだ。
「謝るくらいなら詳しく話してください!侯爵との約束で領地の生活は保障されていた筈です。彼がいるのなら、私は屋敷に住まうことなどできないでしょう?」
侯爵領での自由な生活が崩れようとしている今、婚姻を結ぶことで得られる利益も侯爵に傾いてしまっている。
更に腹立たしいのは、きっと侯爵に抗議したところで彼から返ってくるのは“誰も居ないとは言っていない”という素っ気無い言葉だけだろうということが予想できることだ。
「旦那様は、夫人が屋敷に住まわれることを望んでおられます。」
「ああやっぱり!それが約束でしたものね!そういうことよね!!」
つまり侯爵と交わした“領地の屋敷で暮らす”という約束の中に、“ノクトールと”という言葉は初めから隠されていたというわけだ。
騙されたという気持ちは勿論あるが、婚姻を結ぶまでの過程を思えばこちらも似たようなことをしている自覚はある。
私はキツく唇を噛んで、テイタルへぶつけたい言葉の数々を無理矢理飲み込んだ。
「…取り敢えず、宿へ入ります。」
「ご案内します。」
距離も近いということで、キルシエと馬車から降りて数歩先の宿へと向かう。
その間私が気になったのは、侯爵への怒りや領地への不安とはまた違った、目先のことだった。
「ご子息とは別室ですよね?」
ピタリと前を歩いていたテイタルが止まる。
ノクトールはアンキス侯爵家の子。侯爵から教えられていた名前と一致する格式高い宿へと入っていった様子から、きっと彼は侯爵家が買い上げた部屋の存在を知っているだろうということが分かる。
もしも部屋が用意できないのなら、別の安い宿でも事足りる。態々同じ宿に宿泊する必要もないだろう。
そう思って同じ場所へ足を向けていたテイタルに確認のため問いかけたのだが、彼はぎこちない動きでこちらへ振り向いた。
「確認、致します。」
どうやら考えに至らなかったようだ。
慌てて頭を下げてから宿へ走るその姿に私は、これからどうなるやら、と息を吐く。
解釈の幅を広げて約束を交わしたことも、それを受け入れたことも、本人以外に責任を問うつもりはない。責めるべきは侯爵であり、そして好条件で婚姻に持ち込めたと油断した私自身。
そちらへの怒りは鎮めることができるが、侯爵へはまた別の怒りが湧いて仕方がない。
『ご自身にとって不要なものや煩わしいものを領地へ置きがちなのです。』
私の考え過ぎで、あの言葉の中に私の思う“物や者”は含まれていない可能性はある。けれど切っても切り離せはしない、けして小さくもない存在へ向けた言葉ではないとは、どうしても思えない。
「腹をくくるのは、早いほうがいいわね。」
自分への言葉と共に短く息を吐いて、お腹に力を入れる。
家族への相談も碌にせず、心配してくれていた者たちを振り切って、ここまで来たのだ。ニ、三の問題ごとなど受け入れられないようでは、これから新たな土地で生活することもできないだろう。
そう自分に言い聞かせて、私は前を向いた。