朝支度の夢現
目を開ければ、そこは薄暗い場所だった。
まだ微睡んでいたくて寝返りを打てば、何時もより断然心地の良い場所へ横たわり滑らかな布地に触れている自分に驚き、思わず動きを止める。
「そうだったわ…」
戸惑ったのは少しの間だけ。独り言と共に身体に掛かるそれを撫でればやはり滑らかな手触りで、仰向けになれば美しい天井画が見える。
昨日婚姻を結び、夫となったアンキス侯爵の治める領地までの道のりを移動したのだ。馭者と少し揉め、侯爵の側仕えが来て、彼が馬車を手配してくれることになって…
「…テイタル、だったわね。」
宿にアンキス侯爵夫人として入り、この宿の責任者に代わって私とキルシエを部屋へ案内した侯爵の側仕え。彼は私達との別れ際に笑顔で言った。
『私は侯爵家に仕える身、夫人に“貴方様”と呼ばれるような身分ではありませんので、これからは是非“テイタル”とお呼びください。』
私が忘れていることを察したのか、それとも名を呼ばないことに距離を感じたのかは定かではない。けれど昨日私が復唱するように彼の名を呼べば、彼は穏やかに笑ってから『おやすみなさいませ。』と言い残して私達の前から去った。
侯爵家に仕える者なだけあり物腰は柔らか。更に私に羞恥や迷いといった感情を抱かせない言葉選びは、思わずキルシエに『あれが貴族に使える者の手本よ!!』と騒ぐくらいには感動してしまった。
「お嬢様、お目覚めですか。」
数度ノックの音が聞こえ、キルシエの声が耳に届いた。
それに「少し待ってね」と返し、慣れない高さのベッドから降りる。ネグリジェを脱ぎ、キルシエが整えてくれた衣類の中からシュミーズを取って着替え、コルセットを身に纏う。背にある紐をそのままに扉の向こうへもう一度声を掛ければ、キルシエが朝の自宅に必要な物をワゴンに載せて入ってきた。
「おはようございます。」
「おはよう。よく眠れた?」
私の問いかけにキルシエはすぐに応えることはなく、僅かに微笑んで部屋の隅にワゴンを止めた。
「あんなにも上等な寝具は初めて使いましたので、少し落ち着きませんでした。」
「悪かったわねえ…我が家ではアレが限界なのよ。コルセットお願い。」
キルシエの軽口に返しながら指示を出せば、キルシエは私の背後へと回りコルセットの紐を慣れた手付きで穴に通して編み上げる気配がする。ただコルセットを着せられるのも暇なので、私は引き続きキルシエへ話しかけようと後方へ声を投げかけた。
「落ち着かなかったって、眠れなかったの?」
「いいえ、そのようなことは。必要な睡眠は十分に取れましたし、私は男爵家の寝具も好んでおりましたっ、よ。」
「うっ…」
寝具についての感想の最後にコルセットの紐が引き絞られ、不意打ちのそれに品のない声が出てしまった。けれどその間にもコルセットはキルシエによって素早く紐が結ばれる。
声くらい掛けてもいいでしょう、という気持ちを込めて後方を睨んだけれど、返ってきたのは「お顔をお拭きします。」という気の利いた言葉と素知らぬ顔だった。
「テイタルを見習ってほしいわ。」
「あの方のことがかなりお気に召したようですね。」
「そうね、領地に着いたら“キルス”を呼ぼうかしら。」
一人の者の名を出すと、キルシエはワゴンから湯や布を用意し笑みを深める。
湯によって温められた布が当てられ、お喋りな私の口は心地良く塞がれる形となった。
「いつお呼びになるかと思っていました。」
「呼ばなくても別にいいかなって、考えていたのよ?」
「えっ…」
布が外される合間に返せば、拭き終えたらしい時には眉を寄せて嫌そうに顔を歪めるキルシエと目があった。
「冗談よ。」
「…支度は既に整えておりますので、何時でもお呼びになってください。いいえ、呼んで頂きます。」
そんなに呼ばないのは嫌か。まあ、そうよね。
これ以上この話をしていたらキルシエを怒らせてしまいそうだ。丁度良く話にも出たので私は話題を変えるために領地について口にすることにした。
「そうそう、キルシエは侯爵領の特産を知っている?」
「確か、革や肉、芋や麦といった農作物だと記憶しております。」
地図で見るとアンキス侯爵領は周囲を森で囲まれた地形のようで、森では狩人たちが活躍しているのだとか。キルシエの言う通り、森で狩られた動物の革や肉は様々な場面での交渉材料になっているらしい。
そして周辺から森によって隔てられた領地は全体的に長閑な平地がひろがっていて、寒さの少ない気候と広大な領地を活かして継続的な農作物の収穫を実現しているらしい。
「本で得た情報だけれど、王都から離れているからこそ独自の発展を遂げて賑やかな領地らしいわ。“自然との共存”って書いてあったの!今から楽しみ!」
「お嬢様は自然豊かな男爵領がお好きでしたもんね。」
「…あはは…自然豊か、ねえ。」
キルシエの言葉に思わず乾いた笑い出る。
産まれてからずっと家族と共に暮らしてきた領地を愛していないわけではない。わけではないけれど、キルシエの言う領地の説明はどう考えても美化されているようにしか思えない。
思い出すのは結婚式のために王都へ移動したのを最後に別れた実家である男爵領。人々は大らかで、自然も確かに多い場所ではあった。けれどあれは、豊かと言えるものではないだろう。
「作物を育てることは難しい、家は苔とカビと闘わなければならない、嫌気が差して離れた若者は数知れず…湿地というだけで、これだけの弱点があったのよ。」
気候の問題を改善するには技術的な発展が必要不可欠だった。
発展するには当然先立つ物が必要になる。けれど領民は少なく年齢も高い者ばかり、周辺の領地を持つ貴族に掛け合おうにも、残念ながら周辺の領地を治める方々の興味や慈悲を向けてもらえるほどの突出した魅力が、我が領には無かった。
「そんな難しい領地を治めるのがお父様なのだから、私はこの結果を選ぶことにしたのよ。」
「…旦那様は…お優しい方ですので。」
「知っているわ。それはもう、痛いほどね!!」
思い出すと心の臓が苦しくなる。
私が侯爵との婚姻を決めたのは自分の考えからであるけれど、きっかけは何かと問われれば間違いなく父だと言うだろう。
男爵である私の父は、優しさで損をする人。
優しい優しいお父様。家族に優しく、領民に優しく、困った者達に優しく、挙句の果てには男爵家の不利益を狙って忍び寄る者達にも優しかった。
多額の借金を背負わされ、領民の生活を支えるために屋敷以外の全ての生活の質を落とし、『ごめんね、こんな当主で…』と私達に泣いて謝る人だった。
「私が居なくなって、少しは変わってくれればいいけれど。」
「そのために、侯爵との婚姻という手段を?」
「違うわよ。昨日も言った通り、私に合った手段だったからというのが一番よ。けれど、私の人生を懸けているようなものだから、利益は多いほうがいいでしょう。」
出来るならば、多くの幸福が訪れることを。
望みの全てが叶い、おまけが少しでもあれば喜びは当然増すだろう。
欲深い私の言葉にキルシエは特に返すことなく支度を進めていった。話している最中に私に質素で動きやすいドレスを着せて、更には私の髪を整えていたキルシエ。最後に、私の僅かばかりの宝飾を納める箱を閉じて私の肩に手を置いた。
「お支度が整いました。」
「ありがとう。」
人前に出るには十分すぎるほど、私にしては丁寧に支度をした気がする。
さて部屋を出ようかと思ったその時、丁度良く部屋の扉が外から叩かれ「夫人、お目覚めになっておられますか。」と昨日も聞いたテイタルの声が響いた。
「馬車の用意が整いました。」
昼までにと聞いていた予定よりも随分と早いけれど、領地へ行くにはまだまだ先がある。早く移動できるに越したことはないだろう。
キルシエに荷物の支度を頼み、テイタルに馬車の手配の礼を言い、今後の予定を話しながら宿の朝食を楽しんだ。
そうして誰もが朝の活動を終えようとした頃に、私はアンキス侯爵領までの道を再び進むため馬車に乗り込むのだった。