感謝の言葉
眼の前に聳える屋敷の外壁。
そこに這い、長く屋敷の外壁や窓に照る筈の日の光を遮っている濃い緑の植物。
屋敷を覆い枯れることなく今も成長を続けているであろうそれは、本日の敵だ。私は体を動かしやすい簡素な服の袖を捲り、まずは素手で敵を一本掴む。
「ハルちゃん頑張ってー!」
「キルス、頑張って。」
愛らしい声援を背に受けて、私は敵を引っ張る。
立派な太さのそれは私の手によって一部外壁から剥がされ、ブチブチと音を響かせながら上へ上へ剥がれていく様は生き物が逃げているような、不規則な線を辿っている。
全く切れる様子のない敵に私は力を強め、後退りして外壁から離れつつ思い切り引いた。
音を大きくして、敵が瞬く間に剥がれ、この屋敷を訪れた際に遠目で見た、上階と同じ本来の外壁の色が顕になる。
屋敷の手入れへ希望が持てたことに対して油断することなく、そのまま敵を引いていれば。それは二階の窓辺りまで剥がれると、事切れるように手への抵抗をなくし、そのすぐ後に這っていたぶんの長さが地に落ちてきた。
「太いから、引くだけで取れるのはいいわね。」
「はいはいそうですね。あとは自分が手袋を嵌めて作業をしますので、素手のお嬢様は速やかに安全な場所まで離れてください。」
“一度体験すればもういいだろう”と言わんばかりに、キルスはメーラとペーラの観覧する場所まで私の背を押し外壁から離れさせる。
「別にいいじゃない。一人でやるより二人でするほうが早いでしょう?それにキルスが手袋をくれなかったんじゃない!!」
こうして外壁を前にするより先に手入れをするための道具を準備した私達。剪定のための鋏や高所で作業するよう梯子まで侯爵は私の手紙一枚で届けてくださったので、それらを倉庫から出したまでは良かったのだけれど。しかし怪我をしないよう必須の手袋は道具の括りからは外れていたようで、キルスが男爵家で使っていた手袋を使用することに。
革製の薄いそれは、本来作業のためと言うより使用人が主人の所持品を汚さぬよう身に着けるものらしいけれど、キルスは『革ですので、強度に問題はないでしょう』と今も手に嵌めている。
そして私も作業をするためにその手袋を貸してもらおうと、キルスに手を差し出したのだけれど。
「お嬢様に私の使用済みをお貸しするわけには参りません。」
と、今のように首を横に振って頑として貸してくれない。
唇に力を入れて、どうキルスから作業への参加の許可をもらおうかと思案している間にも、メーラとペーラの楽しそうな歓声と共に緑の敵はキルスの引く手によって地に落ちていく。
「そんな顔をされても、ダメです。メーラ様、ペーラ様、お嬢様を捕まえておいてくださいませんか。」
「はーい!」
「はなさない。」
両側から双子たちに手を握られ、キルスの言うことを聞く二人に「「ハルちゃん、メ!!」」とされてしまえば、年上であり仮にも母となる私が大人しくしないわけには行かない。
言えば遊んでくれるキルスに随分と懐いてしまった彼女たちは、私が何かをしようとするとキルスからの要請を受けて私を捕まえる。あの手この手で、時に一緒に作業をしてみてはと提案するものの、彼女たちは首を縦に振ることはなかった。
「メーラ様とペーラ様は、とても素敵なご令嬢ですね。我儘で自由なお嬢様とは大違いです。」
「手伝おうとしてるだけなのに!!後で覚えていなさい!!」
愛らしい双子たちを無理に振りほどくなんてできず、素手でもいいから一度だけと作業を試させてくれた手前、これ以上強行すればいよいよ我儘でしか無い。
緑の敵がキルスの手によって地に落ちていく様を双子に捕まえられながら眺めていれば、両側から姿勢を低くする合図のように下方向へ腕を引かれた。
彼女たちの視線に合うよう腰を落とせば、二人から囁かれる。
「キルスのいうこときくと、あまいおかしがもらえるんだよ!」
「ハルちゃんもいい子にしてれば、おかしもらえるの。」
高価で贅沢と言える砂糖を買う金銭は、この屋敷に無い。では、彼女たちの言う“お菓子”はどうやって入手したのかというと。
先日、定期的に野菜などを運んでくれる農家のおじ様が、その定期から外れて荷馬車に数種の野菜を積んでやってきたのだ。ゴーランが言うには、荷馬車の中には色の鮮やかな芋や豆など普段と違う野菜たち。
おじ様は『試しに作った野菜だ!』とお裾分けに来てくれたのだそうだ。普通の芋よりもかなり甘みがあり、普通の豆よりも潰しやすくなるそれらを、先日訪れた『夏の木』や『タルカラ』で使用する予定なのだそう。ゴーランはそれらを使用し、子供たちのためにと焼き菓子を作ってくれた。
喜ぶ双子や届けた際に目を輝かせていたヨルテンの表情は記憶に新しい。
「なんてこと!!貴方ゴーランの作ってくれたお菓子を餌付けに使ったの!?」
「お二人とも…内緒にと約束したではありませんか。」
「「あ!」」
敵を排除するために外壁と向かい合っているキルスだが、双子に声を掛ける際にも一切こちらを見ようとしない。
お菓子をあげることが悪いのではない。私を制するために、子供たちを御するためにお菓子を利用したことこそ、腹立たしい。
叱り飛ばすのは簡単だ。
けれど私は一度息を吐いて双子たちへ目を向ける。叫んだ私を見上げて不安そうにする二人の前で“お菓子をあげた”ことを言及すれば、きっと彼女たちはお菓子を口にしたことを気にしてしまう。
誤解を与えないよう、キルスを責めるのは後にしよう。
「メーラ様、ペーラ様。いい子にしていればご褒美があるのはとても嬉しいでしょうが、もう一つ大切なことがあります。」
私の言葉に耳を傾ける二人に、私はキルスを示した。
「キルスは、ご褒美が欲しくて手入れをしているのではありません。私達が過ごしやすいようにと、私達の喜ぶ顔や感謝のために、ああして一人で頑張っているのです。」
ね?ご褒美が無いのに頑張るキルスは、とてもカッコイイですよね?
「お菓子をくれたキルスに“ありがとう”は言えましたか?」
「言った!…よ?」
「たぶん。」
曖昧な二人に、私は笑顔で「“ありがとう”と言われたら、嬉しいですよね?嬉しいのは何回あってもいいのです。何度でも“ありがとう”と言っていいのですよ。」と聞かせる。
とても純粋で素敵なメーラとペーラは、私の言葉を噛み砕くように「“ありがとう”…」「何度でも…?」と呟いたかと思えば、金緑の瞳を煌めかせてからキルスの背へ視線を向けた。
「キルスおかしくれてありがとーー!!」
「おいしかったの、ありがと。」
背に掛けられる無垢な感謝に、キルスは一度こちらを見て「幼気なお二人に何を吹き込んだのですか。」と目を細める。
「キルス、一人で作業をしてくれて、ありがとう。」
すがすがしい気持ちで、私はキルスに感謝の言葉を得意げな笑みとともに口にした。




