休息前の交渉
王都からアンキス侯爵家の領地までは馬車で五日ほどかかる。その間の宿泊は、先代アンキス侯爵が領地との行き来で困らぬようにと買い上げたらしい道中の宿屋の一室、計四室の場所を侯爵から教えてもらっている。因みに、場所の記された手紙の最後に“自分は使わない、だから好きにしたらいい”という言葉が添えられていたのだが、まあその辺りは予想通りだった。
買い上げているのならばお金もかからないし寧ろ使わねば勿体無い、ということで提案を有り難く受け入れることにしたけれど、一日移動することを目安に買い上げられたらしい宿が見え、これでゆっくりできると思った直後、宿に入るかといったところで別の問題が発生してしまった。
「どうしても駄目なの?」
「申し訳ありません…こちらのお嬢さんからアンキス侯爵領までずっと、とは聞いていませんでして…」
人通りは多いが誰も私達のことなど気にしていない道端の一角。馭者に対峙するように立った私は浅く息を吐いた。
それは、単純な言葉の食い違い。
『アンキス侯爵領へ行きたい』とキルシエは依頼して馬車を借り、馭者を雇った。けれど馭者はキルシエの言葉を『目的地の途中まで』と解釈したのだとか。
キルシエは苦虫を噛み潰したような表情で馭者を見ており、その視線から逃げるようにして私に頭を下げている馭者は申し訳無さそうだが譲る様子もない。
「ご領地までの五日、ご案内させていただけるのであれば光栄なのですが…」
「キルシエが払った分は、一日分ということなのね。」
ハッキリと言葉を口にしない馭者の先を継いで私が言うと、馭者は頷いて「どう致しましょう?」と問うてくる。その表情に仄かな笑みが浮かんでいる事を私は敢えて指摘せずに、キルシエから聞いていた馬車の代金を思い浮かべた。
馬車に揺られ始めてから早いうちに聞いた馬車の代金。それが五日の代金としてはかなり安いと感じたのは確かだ。だからこそ、私もキルシエも思ったよりも領地へ向かうまでの費用が安く済みそうだと安堵していたのだ。それが今は、相場の遥か上を行く金額を検討しなければならなくなっている。
「ここからアンキス侯爵領まではまだまだかかりますよ。ここらに辻馬車や貸馬車もありませんし…」
「そうねえ…」
王都からそれなりに距離を移動している。いくらアンキス侯爵家が宿屋の一室を所有しているにしても、このままこの地に私とキルシエだけで取り残されるわけには行かない。では、残りの四日も目の前の馭者の言う通りに代金を払い頼るかと言えば、それも遠慮したいところだ。
確かに馭者の言う通りキルシエがハッキリと“アンキス侯爵領まで五日間馬車と馭者を雇いたい”と口にしていたならば誤解も食い違いも無かったかもしれない。けれどきっと、この馭者や馬車を貸し出す事を生業としている者たちにとって、こういった“食い違い”はよくあることなのだろう。それを私に感じさせるかのように、笑みの深まった馭者がキルシエに「お嬢さんもハッキリと仰ってくだされば…」と追い込むような言葉を吐いている。
私やキルシエの世間知らずが現状を招いているとしても、それを素直に受け入れることはあまりしたくない。
私はふう、と息を吐いて馭者へ視線を向けた。
「困ったわ…貴方に渡したお金、あれがアンキス侯爵領まで私達が払える代金の限界なのよ。」
「そんな!!あれじゃあ足りませんよ!?そこのお嬢さんから受け取ったのは一日分なんだから!」
慌てて声を荒げる馭者に、私は眉を垂らして首を傾げる仕草をする。キルシエが不安そうに私と馭者を見比べているけれど、私はそちらを見ずに馭者へ言葉を向けた。
「けれど貴方も、ウチのキルシエが五日間雇うことをハッキリと伝えていなかったように、キルシエに提示した代金が“一日分だ”とは言わなかったのよね?」
馭者の瞳が、私を真っ直ぐに見て動きを止める。それは、向けられた言葉を理解できないかのような、私が放った言葉であることが受け入れられないかのような、そんな表情で。
瞬きの間に馭者は私から目を逸し、先程までと同じように申し訳無さそうな笑みで「嫌だなあ!」と声量を上げる。
「言いがかりは止してください!まるで自分がお嬢さんを騙したみたいじゃないですか!!」
“似たようなものでしょう?”と言ってやりたいところだけれど、ここで本音を言ってしまえば領地への交通手段を逃してしまう。
「そう聞こえてしまったのなら謝るわ。私はただ、少しでも代金の交渉が出来ないか尋ねたいだけなの。」
「いやいや、無理ですよ?こちらもギリギリで商売をしているんですから!!…払えないのなら、どうにかして御自分等でアンキス侯爵領へ向かうしかないですね。」
先程まで正当な理由を並べて反論していた馭者が、急に突き放すように交渉の場から退こうとした。けれどこれは商売ではよくある手法だと教わった。この手の駆け引きでは、そこらの商売人に勝つことはなくとも、負ける気もしない。
だって王都でも有名な商人が、私に商売について教えてくれたのだもの。
「そう…残念だわ。キルシエ、部屋に行きましょう。」
身を翻し、私はキルシエの腕を軽く叩いて宿に入るよう促す。すると馭者は目を剥いて焦りを顕にした。
「なっ、どうするおつもりで!?ここから四日はかかるんですよ!?」
「数日経てば、可能性は低いけれど旦那様から領地へ宛てた手紙が来ると思うの。それを届けるために、ここを通る方にでも連れて行ってもらうわ。」
「そんな…!!」
本当に可能性は低い。やり取りをしている手紙だって、私から用があってそれに返事が返ってくる場合が殆なのだ。更には最後に私へ宛てられた手紙の内容は約束事の念押し。それに返事を書く気にもなれなかったので、次に手紙のやり取りが始まるのは私か侯爵に用事が出来たときとなる。
そんな信じてもいない手段を最後の切り札のように話せば、馭者は大いに焦りを見せ始めた。私と侯爵の関係は愚か、彼は私がどのような人物であるかすら知らないだろうから。
「あ…あ、危ないですよ?宿屋に女二人だけでいつ来るかわからない配達馬車を待つなんて…」
「でも…手持ちが無いのだもの。今払えるのは、普通の馬車や馭者の代金に少し上乗せ出来るかなって程度なの。」
私の言葉に馭者はパッと表情を明るくした。それによって、私の口角が上がったことにも気が付かないで馭者は「な、ならこれはどうですか!!」と提案する。
「その代金で良いです!!お嬢さんから頂いていた分と、今から頂ける残りでアンキス侯爵領までお送りします!!」
「え?でも…」
「苦しいのは確かですけどね!!お嬢さん達を危険な目に遭わせるのも心配だ!それらを五日分の代金としましょう!それならお二人も助かるでしょう!?」
彼は確かに“五日分の代金とする”と口にした。聞いたか確かめるようにキルシエへ目を向けたけれど、キルシエは訳がわからないといったように馭者を凝視している。
まあ、キルシエには後で説明すればいいかと私は最後に馭者へ畳み掛けるために体を馭者の居る方に戻して、更に前へ身を乗り出す。
「令じょ、じゃなかった!夫人!!」
けれど口にしようとした言葉は、声となる前に大きな他の者の声で遮られた。
そちらを見ると、馬の手綱を握ってこちらへ駆け寄る男性が一人。私はその男性を今朝方見かけたばかりだった。
あの時は、項垂れるように頭を下げて申し訳無さが滲むような雰囲気だったけれど。
「良かった!こちらに居られて…!!」
「まあ!貴方は…!!侯爵…いえ、旦那様のお側に居られなくて宜しいのですか?」
侯爵と会ったとき、婚姻を結んだ朝、夫となる侯爵よりも私を気遣ってくれていた、侯爵の側仕えの男性がそこに居た。