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馬車内の談論


侯爵と婚姻を結ぶことを約束したのは今年の社交シーズン半ば。今から三月ほど前のこと。



『これで満足かい?』



うんざりとしたような表情で自身の名を婚姻を結ぶために必要な書類に書き込む侯爵に、私はハッキリと是と答えた。


当時侯爵と私が顔を合わせるのは初めて会ってからまだ片手の指で足りるほどの回数で、お互いを知りもしない間柄。一目惚れでもなかったので愛情など湧くはずもなく。



『よくもまあ、大人をこんな形で騙そうなんて考えたね?』



騙すなんて人聞きの悪い、と反論の一つでもすれば良かったかもしれないけれど、あの日の私は自らの望みを目の前の紳士が叶えてくれるという、一種の高揚を感じていたために侯爵の零す言葉を気にしていなかった。侯爵の横で、結婚式にも出席してくれていた側仕えの男性が私を擁護し、苦言を呈していることにも気付いてはいたけれど、心の中で感謝しつつも便乗して侯爵へ追撃するなんてこともなく。



『約束は果たす。だから君もそうしてくれ。』



席を立つ侯爵の背を、私は一礼して見送った。始終側仕えの男性が私の様子を気にしていたけれど、それに目礼だけで返すと彼も同じように返して侯爵の後を追った。


侯爵が名を書いた書類は婚姻について教会へ提出するものと、王国の公的機関へ婚姻を知らせるもの、それと私が予め用意しておいた親族への手紙と、侯爵との約束事を認めた所謂契約書。


あの日の侯爵の、眉を寄せてこちらと一切視線を合わせようとしない姿が、私が最後に見た彼の姿。結局、侯爵と私が顔を合わせた回数が片手を超えることはなかったのだ。



「お嬢様、お疲れですか?」


「…いいえ。これくらい、平気よ。」



キルシエの声がけで、私は体に少し力を入れて身動いだ。無事誰にも出会すことなく馬車に乗り込むことができ、今馬車は雇った馭者の手綱によって目的地へ直走っている。


結婚式と、それに伴い責め立てられる可能性のあった親戚からの逃走という大仕事を終えたばかりの私には、馬車の揺れがどれだけ激しくとも今なら身を委ねて寝てしまいそうだった。


けれどキルシエはそうでは無いようで、私と目を合わせたり馬車の外を流れる景色を眺めたりしながら落ち着かない様子。私へ疲れについて問いかけたのも、話し相手が欲しくなったからだろう。



「侯爵はご多忙とのことですが、先程結婚式の最中に祈りに来られたらしいご令嬢…いえ、御婦人だったような…?まあ、その方が言っておられましたよ。『これからアンキス侯爵にお食事へ連れて行ってもらう』って。」



私が休みたいと思っているとは考えなかったのか、気づいていても自身の欲求を優先したのか、全く使用人らしい振る舞いを心がける様子の無いキルシエからの言葉を、頭の中で反芻した。


キルシエが会ったという人物は、侯爵と私の結婚式の日取りを知っているからこそ教会を訪問している。キルシエも同じ考えらしく「私をお嬢様の使用人と知っているようでしたし、楽しい食事の前の小前菜といったところですかね?」と冗談ぽく言葉を付け足す。



「何か、嫌なことは言われなかった?」



私が決めたこととはいえ、私の後を付いてきてくれているキルシエを害されるようなことかあれば黙ってはいられない。私の問いかけに、キルシエは肩を竦めてから一つ咳払いをして何故か喉の調子を確認した。そんな不思議な行動の後、キルシエは身を乗り出して答える。



「それはもう、大いに。『おままごとに付き合うのも大変ね』だとか『男爵家如きが侯爵の言葉を鵜呑みにするなんて』とか、『夫の居ない結婚式なんて、私なら式を挙げる前に逃げてしまうわ』だとか。」



祈りに来たらしい令嬢の声色を真似てか、普段のキルシエの声よりも数段高い声で紡がれる言葉たちに、私はそれを直接聞かせてしまったことに対して申し訳無さが募る。


教会の控室として用意されていた場所なら、キルシエが他の者と接触する心配はないと考えていた。けれど思い返せば、私が式を終えて出た先には既にキルシエが居たのだから、きっと手配を終えてから暇を持て余していたのだろう。



「ごめんなさいね…あなたの使用人らしくない行動力をもっと考えておくべきだったわ。」


「…慈悲深いお嬢様を主人とすることができて、キルシエは幸せでございます。ええ、次の機会にはぜひ自分も式に参列できればこの上ない誉れに存じます。」



私の言葉を冗談と受け取ったキルシエが、結婚式を先程終えたばかりだというのに“次”を話題に出してくる。更には使用人という身分で主人の式に参列など本来できないことを知っていながら、真面目な顔を作って参列を願うのだから。私はキルシエの声色で一度吹き出してしまいそうだったのをせっかく耐えたといえのに、ついに声を上げて笑ってしまった。



「ふふっ!ふふふふ!…そうね、式はもう今後挙げることはないと思うけれど、侯爵の機嫌によっては披露宴があるかもしれないわ。それにはキルシエも、ドレスを仕立てて参席するべきよ?」



私の言葉にキルシエは目を細めて私を見返す。


不機嫌だと表しているようにも、私のことを探っているようにも見えるその表情を見せてから「…ドレスは、遠慮させていただきます。」と息を多分に含ませて言うと、キルシエは馬車の外へ目を向けた。その横顔は口角が僅かに上がっており、機嫌が良さそうだ。



「…全く後悔は無いといったご様子ですね。」


「後悔するくらいなら初めから結婚なんて考えないわ。本来ならば、他にも方法はあったのだし。」



キルシエの言葉に私はハッキリと述べる。


婚姻でなくとも私の目的を達する方法はいくらでもあった。けれど、それでもこの方法を選んだのは失敗する可能性と成功した際の利、そして自分への負担を考えての結果だ。


行動に移す者が私でなければ、他の方法を選んでいたことだろう。



「お嬢様が犠牲にならずとも、テオルド様なら…」



テオルドとは、私の兄だ。長子で私の唯一の兄は男爵家を継ぐことが既に決まっており、彼は最後まで私の結婚についてしつこく詳細を気にしてきた。


兄の妻であり私の義姉と共に、毎日毎日毎日毎日…それはもう、話してしまおうかとこちらの心が折れそうになるギリギリまで、兄たちは私の部屋や散歩の道中、食事の席ではマナー違反だからと食事を終えてから部屋へ戻るまでの移動など、行く先々で私の両側に陣取っては質問攻め。


『お前のどんなところを見初められたのか』だとか『お前は侯爵を好いているのか』とか、私の精神を削りつつも私の心を最後まで気遣ってくれていた。


兄なら、確実に他の方法を選んでいたことだろう。キルシエが全て言うことなく濁した問いかけに答えるため、私はキルシエを真っ直ぐに見た。



「キルシエ。まず言っておくけれど、これは犠牲ではないわ。」



言葉に答える前に、そこは訂正しておく。私は自分が犠牲になったなど欠片も思っていない。キルシエがそう思っていたことに対して、驚いたくらいだ。



「侯爵…いえ、旦那様は約束を果たすと仰ったの。だから私にも、約束を守るようにと。」



私が侯爵との約束を違えない限り、侯爵も私の望みを叶えてくださる。侯爵の提示した約束事は、今から向かう場所でならば果たすことも難しくはない。そしてその約束事の中に今の私が達せられないものは含まれていない。つまり無理をする必要もないわけで。



「これから向かう、私の嫁ぎ先とも言える侯爵領に居るだけで、私は私の望みを叶えられるのよ。これ以上の好条件、無いと思わない?」



納得の行っていないようなキルシエの表情に私は言葉を付け足そうと口を開く。キルシエの顔に浮かんでいる憂いを取り除くためではあるが、本当に侯爵との結婚に不満はないのだ。



「だって侯爵は王都から移動しないことで有名じゃない!更には今まで大きな災害も起きたことがない上に侯爵の豪遊を支えるだけの潤沢な収益!それを実現している管理の行き届いた領地!そこで暮らすだけで良いのよ!!」



私の勢いに、キルシエは「ああ、さすがお嬢様ですね…」と微妙な表情で褒めているのか怪しい言葉を零すだけだった。



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