譬話と説教
「危険に…って、少し持ち出しただけだし…」
「…すこし?」
苦笑いを浮かべながら肩を竦めたノクトールの言葉の軽さに、私は思わず彼の言葉の一部を復唱した。
戸惑いから反応が遅れた私に対して、ノクトールは何を思ったのか「アマレナに何も言わずに持ち出したのがいけなかったんでしょ?」と出入り口へ足を向け動き出す。
「残ったお金は返すからさ、そんなに大袈裟に騒がないでよ。」
ね?と笑みを浮かべながら首を傾ける仕草は、聞き分けのない子供を諭すようだった。
私はノクトールに、独断での行動には注意するようにと、金銭については特に気をつけてほしいと言いたくて彼を引っ張ってきた筈なのだ。
「ふ…ふふ…」
こみ上げる笑いを堪えられず漏らせば、ノクトールは怪訝な表情で足を止めた。
王都へ行くために貴方が持ち出したお金は、既に貴方だけのためのものではない。そうでなくとも、金庫にはメーラやペーラ、オーレライのお金に当たる金額も帳簿にきちんと記されていた。
自分のお金だけでなく、妹弟たちの生活のためのお金も持ち出したことになるのだけれど、ノクトールには全く伝わっていないようだ。
それとも、伝わっていてもこの態度なのだろうか。
どちらにせよ彼の“使ったものは仕方がない”といった態度は、丁度真横に立ち止まった彼の腕に私の手を動かさせるには十分だった。
「ふふふふふふふふふ…」
「え、何、怖い…!!ってか、離れない…!?」
私の手から逃れようと腕を振るノクトールは、私の手が離れないことへの驚からか声を荒らげた。
実家である男爵家での生活は、慎ましくしてしても何も得られなかった。出来ることは使用人のすることだったとしても何でもしたし、キルシエからの“令嬢らしくない”と言う言葉が窘めるそれではなく一種の常套句となるくらいには、私は一般の令嬢よりも活動的だった。二つ年下で、恐らく剣術や体を動かす物事を何も嗜んでいないであろう子の腕を掴むくらいの力はある。
何をしても離れない、離そうとしない私にノクトールは「ちょっと!離して!!」と怒りを顕にした。振っていた腕は止まったが、こちらを睨むその姿は人当たりのいい彼の表面が剥がれ落ち、とても幼気な印象を受けた。
「ねえ、ノクトール様。少し考えてみてください。」
私が話し始めても、彼はすぐに腕を振り抜いて逃れようとしている。勿論私も離すまいと力を込め、それでも彼への言葉はキツいものにならないよう努めた。
「貴方様がお乗りになった、私やキルシエも乗ってこの屋敷まで来た馬車がありますでしょう?」
「それが、何…」
「アンキス家の馬車ですが、ノクトール様はこの屋敷に帰るだけのお金が足りず、私達の使用する馬車に同乗する形でここまで来ましたでしょう?」
「そうだね、だから何さ?残ったお金があることが可笑しいって話?」
見当違いなノクトールの言葉は、きっと彼が私を怒らせようとしてわざと選んでいるものだろう。
彼は私がそのようなことを言いたいのではないと、わかっている。彼がわかっていると分かっていても、私はゆっくりと首を横に振って「違いますよ。残っていても、それでこの屋敷に帰るのには足りなかったのでしょうから。」ときちんと彼の言葉を否定してから話を戻した。
「もしも私達が乗ってきたあの馬車が…そうですね…森を抜ける前の休憩の時に、誰かの手によって車輪を抜かれていたら、どう思いますか?」
「…はあ?」
睨んでいた彼は訝しむ表情に変えて私を見た。
これでも、とても真面目に話しているのだけれどいまいち彼に伝わっていないようだ。私はそんな彼になんとか問いかけについて考えてほしくて、言葉を続けた。
「馬車さえあれば、この屋敷に帰ることができます。テイタルが手配した馬車ですので、私達が乗ってきたとしてもノクトール様が乗ることは当然許されている馬車。それが何者かによって車輪が抜かれ、この屋敷へ帰ることができなくなったら、貴方はどう思いますか?」
「どうって…車輪を抜いたら、それ泥棒なんじゃないの。」
彼の言葉に、私は一先ず安堵の息を吐いた。答えを返してくれたこともそうだが、“何者か”が馬車に悪さをすることが“いけないこと”だと伝わっていることへの安堵だ。
時に偏った考えを持った者は他者から奪うことを当然と思っていたり、他者から奪われているということすら考えになかったりという場合がある。その辺りの考えは私の常識と似通ったものが彼の中にあるようで、安心した。
「そう、全く知らない何者かが抜いていたら、それは泥棒で捕まってしまいます。では、それがメーラ様やペーラ様でしたらどうでしょう?お二人が自分たちの馬車をなおすために車輪を使用するとしたら。あのお二人がそのようなことをしないとは存じておりますが、架空の出来事として、一度想像してみてください。」
双子の名を出した際に反論か口を開いたノクトールは、私が続けた言葉に口を閉ざした。
ここで重要なのは、車輪が抜かれた事やメーラとペーラがそれを行ったことではない。私が考えてほしいのは、所有物に手を加えられたという事実と、それが身内の仕業であった場合についてだ。
つまりはノクトールの行いを例え話で説明しているのだけれど、彼はそれに気がついているだろうか。気がついているとしたら、彼はどう答えるのだろうか。
少しの間、ノクトールは不機嫌そうに黙っていた。彼の腕には力が入っておらず、私も手にそれほど力を込めていない。けれどお互いに、掴むことも逃げることもなく時間が過ぎた。
「…二人を、怒ると思うよ。」
観念したとばかりに息を多分に混ぜて吐かれた答えは、私が彼から引き出したかったものだった。
「もしもお二人が、ノクトール様に同乗を勧めても、ですか?」
「…うん。でも、まあ…その……ああぁぁ…」
私が伝えたかったことを、彼はきちんと理解しているようだった。素直に架空の話と自身の行いを照らし合わせ、その上で私の指摘を受け入れられないとばかりに掴んでいる腕とは反対の手で頭を掻く仕草は、こう言ってはなんだが可愛らしいものだった。
掴んていた腕を解放しても彼はその場から動こうとはせず、寧ろその場にしゃがみ込んで唸り始める。
「ご理解頂けたようで安心しました。先程ノクトール様も仰ったように、勝手に持ち出すのは怒るべきことです。今のお話のように、屋敷に帰るという目的を達せられる場合であればまだ良いのですが…」
ノクトールを見下ろせば、動きを止めた彼はゆっくりと頭を持ち上げて私を見た。
その姿は怒られることを自覚した幼子のようで、それを受け入れたくないと駄々を捏ねる幼子のようで。物腰柔らかな青年の影も形も無いものだった。
「ノクトール様が王都へ向かうためにお金を金庫から出したことは、褒められる行いではないことは理解できたかと思います。それを踏まえて私が申し上げたいのはですね、アマレナに言うべきことがあるでしょう、ということです。」
一言を引き出すのに掛かった時間はどのくらいだっただろうか。
なかなか言えないノクトールに、私はお金の大切さや帳簿から読み取ることのできた生活の苦しさを懇々と諭した。知らなければ、教えねばならない。もしもそれが十四の青年に必要のないものであったとしても、不要なその知識を説いた上で私は彼自ら一言を口にしてほしかった。
「ごめん、な、さぃ…」
「謝るだけでしょうか?」
「もう、しません…」
正確には、一言ではなかったけれど。
アマレナは私達を見守り、時折間に入ろうとしているようだったけれど、始めはノクトールを気遣うようだった視線が段々と子の成長を喜ぶ親のようなそれになり、最後には私の言葉に頷く姿も見え、ノクトールの味方ではなくなっていた気さえした。




