早速の懐柔
「あ?イルエント、本当に良いのかよ。」
「どうせ数日住めば、音を上げて帰ることになる。」
踵を返して、青年は屋敷の中へ入っていった。その背に向けて体格の良い青年が荒い口調で言葉を投げるが、それに返されたのは私がこの屋敷に住むことなど全く信じていないだろうもの。
体格の良い青年はその言葉を受けて私を一度視界に入れる。
「…そう簡単にいくようなヤツには、見えねえけどな。」
思考を放棄するように、体格の良い青年は肩を竦めて両手を上げ、自身がイルエントと呼ぶ青年の後を追うように屋敷の中へ。二人が消えたことで慌てたのか、始終隠れていた少年が扉の端で二人の去った方と私とを見比べていたけれど、最後には私に一礼とノクトールたちに手を振って同じく屋敷の中へ戻っていった。
残された者の空気は微妙なもので、それを振り切るように私は手を打つ。
「何はともあれ!私が誰なのかを証明して滞在許可まで付いてきたのは良かったと思わない?」
屋敷に入れないという選択もあっただろうに、それをしなかったのは考えが至らなかったからかテイタルという侯爵の息がかかっていると判る存在がいたからか、それともまた別の理由があってか。
彼の優しさだと思えないのは残念な所だが、先程のやり取りのあとでは致し方がないと心の内で言い訳する。
「お嬢様は初めから侯爵夫人としてここに留まる資格を有しておられます。それに異を唱えたのがご子息であっても、侯爵の決定が覆ることなどありませんよ。」
私の前向きな言葉を砕くようにキルシエは正論を述べる。
確かに夫人である私は先住たちの許可が無くともこの屋敷に住めるけれど、私には同じ屋敷に住む者として彼からの許可が必要なものだったと思うのだ。
例えるならばそう、野良猫が家に住み着くか否かという時に餌をやったか、やらなかったかというような、些細なようで大きな違い。
後に誰かが私を追い出そうとしたとき、私は彼の言葉を持ち出してこの屋敷に住み着くくらいの図々しさは余裕で発揮できる。だって恥も外聞も、私はとうにないのだもの。
「…さて。ノクトール様。」
キルシエには婚姻の証である指輪を片付けさせ、私は改めてノクトールたちへ目を向ける。微妙な顔をしたノクトールは、何事かノクトールに聞きたい様子を見せる双子の手を取ってそこにいて、兄が動揺しているのが伝わるのか双子は大人しく静かに側にいるだけだった。
「お聞きしたいことがありましたら、お答えいたします。その代わり、屋敷についてお教えくださいませんか?出来れば、私が住んでも良さそうな開いている部屋についても。」
「ハル…侯爵夫人、は…何しに来たの。」
親しげだった愛称から、言い難そうに夫人呼びへと変わったことで彼との距離に開きを感じた。元々縮まったと思っていた距離も僅かだっただろうけれど、これから同じ屋敷に住むというのに他人行儀に思えるその呼び方は、適切であってもなんだか寂しいものだ。
そんな感傷は横へ置いて、今向き合うべきは彼の質問について。
「何しにって、このお屋敷で暮らすためですよ。」
「暮らす…本気で言ってるの?」
「勿論。」
どれだけ先住の方々に嫌われていようと、屋敷が老朽化していようと、ここに“住む”ことが私に課せられた侯爵との約束なのだから。
「暮らすって言ったって、イルはあんなに夫人を毛嫌いしていたのに?ロイも夫人の味方になるような奴じゃない。なのにどうして…」
「特に味方が欲しいとは考えておりませんでしたが、そうですね…」
どう答えたものか。
ノクトールの“何故この領地に、屋敷に来たのか”という問いについて私が持っている答えは本当に“暮らすため”に尽きるのだ。
青年たちの名前だろう呼称を出して加えられた言葉も恐らく『なのにどうして“暮らそうと思うのか”』という続きがあると思うのだけれど、これについては真正直に“侯爵との約束のため”と答えたが最後、ノクトールから彼の青年に伝わり、屋敷に入らずして追い出されることは目に見えている。
それは流石に困る。けれど嘘をつくのも憚られるし…と考えていると、ノクトールの両脇からの視線を感じて閃いた。
「貴方方の存在を知らずにこの領地へ向かっている時には、穏やかに暮らすことしか考えておりませんでしたが、今は少々放っておけない事実を知ってしまいましたので。」
長い裾に気をつけて腰を落とし、双子のメーラとペーラに視線を合わせる。急にしゃがみ込んだ私に驚く彼女たちへ笑いかけると、やはり興味があるのかソワソワと落ち着かない様子で私とノクトールを交互に見始めた。
次に私は指輪を片付けて戻ってきたキルシエに裁縫道具を持ってこさせる。
「使用人が少ないこともつい先程聞き及びましたし、幸いにも私は使用人を必要としない生活に慣れております。」
手をメーラとペーラへ差し出すと、ノクトールは警戒を顕にして彼女たちを隠そうとした。けれど無邪気で無垢な少女たちは差し出された手へ自身の手を伸ばす。
柔らかく小さなその手を取り、私はメーラだけくるりと体を反転させるように促した。
裁縫道具を手に戻った優秀な使用人のキルシエから、双子の着ているドレスのレース部分と似た色の糸と針を受け取り、私は指を動かす。全く同じとは行かないが、似たような仕上がりになるよう集中していると高く愛らしい歓声が近くから聞こえた。
「『勝手にしろ』とのお言葉もつい先程頂きましたし、許される範囲で慎ましく生活するくらいは出来るのではないかと思っています。」
少し動きの激しさが増したメーラを抑え、ペーラの強い眼差しを受けながらドレスへ今しがた出来たレースを縫い付けていく。ついでに目線を合わせて初めて気が付いた、ペーラのドレスの裾の僅かな解れも直して。
「侯爵には領地に滞在するよう言われておりますし、それが叶わないとなると私の行き場は何処になるのかわかりません。ならば可能な限り、私はアンキス侯爵領に居たいと思います。」
立ち上がる頃には、メーラとペーラが私の両脇で楽しそうに跳ねたり回ったりしていた。
好奇心旺盛な彼女たちの興味を引いて、彼女たちの困りごとを解決すれば懐かれるまではいかなくとも警戒は解けると考えての行動だ。彼女たちの警戒を解く様を見せれば、ノクトールの警戒もある程度緩むのではと期待して。
…凄く、ドレスの解れが気になったというのもあるけれど。
「答えになりましたでしょうか。」
「…俺の知ってるお嬢様じゃないことは、分かった。」
メーラがノクトールへドレスを見せるように彼の側で跳ね回る。それをノクトールは頭を撫でつつ宥め、何か呆れを混ぜた息を吐いた。
「暫く居るつもりなら、貴女のことは追々聞いていくことにするよ。」
メーラとペーラの背を押して、彼は屋敷の玄関へ向かう。
開かれた扉を潜ってからこちらへ振り向いた彼は、私やキルシエへ「早くおいでよ。」と屋敷の中へ促す言葉をくれた。
私達は目を見合わせ、取り敢えずは住む場所を得られたことにどちらともなく安堵の息を吐いた。




