思考の放棄
森を抜けてから馬車の通る道は揺れが少なくなり、日を遮る木々が無くなったからか周囲が明るく感じる。
町へ向かう道のすぐ傍には低い草花が茂る平野が広がっていて、建物に近づくにつれて段々とその平野に木で造られた柵の囲いが見えるようになった。囲いの中は畑のような手入れされた場所であったり、のんびりと牛や羊が過ごす場所であったりするようだ。
そんな長閑な景色は、私の好奇心を大いに刺激するもので。
「見てキルシエ!とても立派な牛!!」
「そうですね。」
「あっちは麦よね?」
「そう見えます。」
男爵領では見られなかった黄金の絨毯に思わず見惚れてしまう。あのように美しい麦で作られる物たちはどれだけ上質な品になるのだろう。
アンキス侯爵領はここまで通ってきた道のりでも分かるとおり、森で隔てられているために他領との交流が薄いと聞いたけれど、これだけ広大な土地で主食となる麦が栽培され肉にも革にもなる牛や羊も居るとなれば、交流が薄いのも頷ける。
する必要がないだろうから。
「領内で出来た物を民で消費し、過剰分を外で売る。きっと、売れた金銭で領内を潤すのね!…素敵!!」
痩せた土地、湿った建物、出ていくお金、泣く男爵といった聞くだけで悲しくなってくる男爵領とは大違い。思わず興奮をそのままにキルシエへ言葉を向けていたのだけれど、微かな物音で馬車の中には私達以外も居たことを思い出す。
窓から体を離して向きを正常に戻せば、瞳を瞬かせて未知の生物でも見ているかのような反応をしているノクトールと、呆気にとられた様子のテイタルが目に入る。
長閑な風景に興奮する令嬢という自分が、稀有を極めているだろうことは分かっている。こういうときは何か他者から言葉があれば有耶無耶にできるのだがと助けをキルシエに求めてみると、残念ながら笑顔で返されただけだった。
「良い場所ですね、ノクトール様!」
「あ…そう、かな…?」
取り敢えず、この地で暮らしているノクトールならば話も広がるかと思ったけれど、残念ながら世辞も無ければ肯定も否定もない曖昧な返し。
彼が侯爵の子息である事実に反してそれを社交界には秘されているという、微妙な立場であることが頭を掠めたけれど、出発前に見た多くのお土産らしき荷物たちは、侯爵の認知外で購入していたものということはテイタルの反応で理解した。
その行動を見ると侯爵のように領地よりも王都を好んでいるのかと思ったけれど、こうして侯爵領へ戻ってくる様子や先程聞いた『どちらも同じ』という言葉を考えると、彼の本心は全くつかめない。
対する侯爵はここまでのテイタルの反応を見ればノクトールの身の回りや金銭だけを整えて、後は放っているという実にわかりやすい育児放棄ぶりなので、私が勝手に何かしても咎められる可能性は低いと見た。
「ノクトール様。後日、領内を一緒に回りませんか?」
自分の住まう場所を知るのは悪いことではないはずだ。私も回ってみたいし、そう思ったからこそ持ちかけた提案に、ノクトールは一度外の景色へ目を向けてから苦笑いを浮かべた。
「俺は、いいや。」
「あら…そうですか?」
勿体無いな、とは思いつつも無理強いするつもりはないので特に何も言わずに引き下がる。その間ノクトールの隣に座るテイタルを視界に入れていたけれど、彼はノクトールが私の提案を断ったのを聞くや不安げな表情でノクトールを見つめていた。
けしてテイタルはノクトールに対して悪感情を持っているとかではないと、見ていれば分かる。彼がノクトールを放置していたということに変わりはないけれど、もしも侯爵がテイタルにノクトールを“任せる”とでも言っていれば、彼なら適切にノクトールへ教育を施すよう手配し知らぬうちに王都へ来ていたなどということにらならなかっただろう。
そう考えると、テイタルはどこまで行っても侯爵の側仕えだということだ。
「ああ、それよりハルさん。あそこ。」
「?…まあ!もしかしてあのお屋敷が!」
ノクトールの指し示した方向を見ると、進行方向に立派なお屋敷が見えた。距離から大きさを予測してもかなりのものとなるそれは、尖塔のような建物もあることから城のようにも見える。進むに連れて近づく屋敷に、私は期待を膨らませた。
…直ぐに萎むことになったけれど。
「ようこそ、アンキス侯爵領邸へ。」
テイタルに続いて真っ先に降りたノクトールが私へ向かって手を差し出す。それに自身のものを重ねて馬車から降りれば、日に照らされた屋敷はよく見えた。
石造りの立派な屋敷であることに変わりはない。
大きさはこの建物と男爵領の屋敷と比べてしまえば男爵領のあれは馬小屋ではと思うほどで、侯爵領の屋敷としても他のものを見たことはないが申し分無いだろう。
手入れが、されていればの話だが。
「えっと…雰囲気のあるお屋敷ですね?」
「正直に“お化け屋敷みたい”って言えばいいじゃん。」
流石にそこまでは思っていない、と首を横に振るとノクトールから「領民たちからはそう言われてるらしいよ?」と驚きの言葉が付け足された。
らしい、と付けるということはノクトール自身は領民との関わりがないということだが、では彼に領民の言葉を伝えたのは使用人だろうか。
一瞬過ぎった疑問は、高い声とこちらへ向かってくる足音に追いやられた。
「ノクトール兄様ー!!」
「おかえりなさーい!!」
私と繋がれていた手が離れ、ノクトールは駆け寄ってくるその小さな者たちを受け止めた。
「ただいまメーラ、ペーラ。」
明るい迎えの声、それに返される柔らかな声、小さなレディたちの頬にノクトールから落とされる口付けという流れは、とても見目麗しい光景で。
「…だあれ?」
それはこちらも聞きたい。
金と緑の、何度見ても不思議な色合いの瞳が二対こちらへ向けられていて、私を警戒してかジリジリとノクトールの後ろへ下がっていく姿が愛らしい…ではなくて。
状況の説明を求めるために、私はテイタルへ目を向ける。けれど期待するまでもなく彼はさっと視線を逸して沈黙を示した。
瞳は大人の沈黙を無視して血筋を物語る。つまりはそういうことだろう。
深く、深く息を吸って、吐く。もう一度吸ってから、私は小さなレディたちに腰を落とした。
「ハーラニエールと申します。以後、お見知りおきを。」
ノクトールと妹であるらしいレディたちは戸惑いを見せつつも、兄の背から顔を覗かせたり引っ込めたりと忙しない動きで警戒と観察を何度か繰り返し、少ししてそっくりな互いの顔を見合わせてから首を傾げた。
「はらにえーる?」
「違うよメーラ、はーらにぇ…えーる、だよ」
締め付けられるような胸を鷲掴みにされる感覚に、悶えるような気持ちを表に出さないよう必死に微笑みを貼り付けながら二人を見守る。
幼い子供の拙い言葉が、これほど愛らしいものだとは知らなかった。背に隠れている妹たちをノクトールも柔らかな表情で見ていたけれど、少ししてから彼は二人のレディたちと目を合わせるように体の向きを変えて膝をついた。
「ハルさんだよ」
「ハルさん?」
「ハル…ちゃん?」
キラキラとした瞳がこちらに向けられた。兄しかいない私に年下の女の子たちは新鮮で、ノクトールを見倣うように腰を折って彼女たちと目を合わせる。未だノクトールの影から顔だけ出している状態の彼女たちは、頬を赤らめて恥ずかしそうにしながらも二人して口を開いた。
「「ハルちゃん!!」」
可愛い。
ノクトールが苦笑いで「ちゃん付けは流石に…」と言っているけれど、そんなもの気にならない。多くの問題が出て残ったままだというのに、それらが一気にどうでも良くなってくるほど、面立ちのそっくりなレディ二人の呼びかけは破壊力があった。




