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桜と星と初こいと4



誰にも忘れられない人がいて、思い出があるように、(まき)にもそんな思いがあった。

十三年前の春、桜が見事に満開の花を咲かせたあの日。今も桜を見ると、あの日の事を思い出す。それは槙を苦しめるけど、それよりも、いつか自分の中からその苦しみすら薄れてしまうんじゃないかと、槙はそれが怖かった。


春が過ぎれば記憶が徐々に遠ざかり、少しずつ思い出が消えてしまいそうで、重ねる日々に上書きされてしまいそうで怖い。絶対忘れてはいけない、あの人の顔を忘れたくないのに。


違う誰かなんて、いらないのに。




***




「…人間って、酷い生き物だよな」


槙がポツリと零した言葉に、目の前で一心不乱に絵を描いていた男が不思議そうに振り返った。


彼は、三木島咲良(みきしまさくら)、人気のイラストレーターだ。槙の一学年上の先輩で、槙とは高校からの付き合いになる。

茶色の短い髪に優しげな目元、背は槙よりも少し低い位だが、その細腕が意外と逞しい事を知っている。そして、その手から生まれる絵は、いくら真似しても同じようには描けず、槙にとって咲良の手は、まるで魔法の手だった。更に、その懐の深さや、自由に世界を飛び回る生活スタイルも、全て槙には無いもので、学生の頃から咲良は槙にとって憧れの存在だった。



二人がいるこの部屋は、咲良の作業部屋だ。一軒家をリフォームし、キッチンとリビングを仕切る壁を取り払った為、一階は広々した空間が広がっている。二階には寝室や客間があり、いつ来ても寝泊まり出来るようになっていた。


なので、この家は咲良の作業部屋のみならず、槙と恋矢(れんや)の遊び場にもなっていた。咲良が来なくても来れるように合鍵も持っていて、ワインクーラーには、各自持ち寄ったワインが常備されている。


部屋は絵の具の匂いで満ち、広々としたフロアには咲良の描いた絵が広がっている。抽象画で、槙にはその絵の良し悪しは判断出来ないが、素人目にもそれは素晴らしいものと思える、何より槙は咲良の絵が好きだった。

あれは何を意味しているのか、曲線は波か花か、もしかしたら何でもないのかもしれない。それでも彩り豊かな線の数々は、キャンバスから今にも飛び出してきそうで、どれもこれも槙を圧倒し、心を掴んで離さなかった。



「どした、急に」


ポツリと零した槙に、咲良は絵を描く手を止めた。

絵の具まみれの男っぽい指先が、色っぽくてかっこいいなと、槙はぼんやり思いつつ頭を振った。


「ううん、何でもない」


笑って誤魔化そうとしたが、咲良は僅か眉を顰め、筆を置いてしまった。それから腰に下げたタオルで手を拭きながらやってくる。咲良はサロペットが良く似合う、その腰のタオルでさえ、色とりどりのアート作品のようだ。


「何も飲んでないじゃん。何か食べる?」


言いながら、槙の居たキッチンカウンターを回り込み、冷蔵庫を開ける。槙は慌てて首を振った。


「ううん、今日は顔見に来ただけだから」

「俺の?」

「うん…あ、いや、絵を見に来ただけだから!」

「はは、そんなに焦んなくても」


照れてスツールに腰を落ち着ける槙に、咲良は柔らかく微笑む。彼の包みこむような笑顔が槙は好きだ。ほっとする。恋愛感情とは違うのだけれど、槙は何かあれば咲良の元へ来てしまう。何でもなく笑って受け止めてくれる彼が心の拠り所となったのは、いつからだろう。


「絵は置いてあるし、俺も暫く日本で仕事するから、いつでも好きに来て良いからね」

「…うん、ありがとう」


ほっとして微笑むと、咲良も笑って「珈琲でもいれるか」と、カップを取り出した。

槙は部屋を振り返る。咲良はイラストレーターとしては可愛らしいイラストを描くが、大きなキャンバス相手には、また違った姿を見せる。ぼんやり目に止まったのは、壁に立て掛けられた淡いピンクの絵、桜の花のように見えるそれを見つめていると、珈琲の香りと共に視界が遮られた。咲良が槙の対面に立ち、珈琲を差し出したからだ。


「はい、槙ちゃん」

「…ありがとう、咲良君」


キッチンから珈琲を差し出すのではなく、わざわざ槙の対面に回り込んで珈琲を渡したのは、さりげなくあの絵から槙の視線を逸らす為だろう。

少し罰の悪そうな表情で笑う咲良は、「そういえば、この間カズがさー」と、世間話をしながら絵の方へ戻り、桜のキャンバスの前に別の絵を立て掛けた。

きっと、あの絵は槙に見せるつもりはなかったのだろう。槙も最初はあの絵には目を止めていなかった。槙が来た時は、既に咲良が別の絵を描いていたので、槙の視線は自然とそちらに釘付けだった。あの絵が桜かどうかは槙には分からない、だけど、槙があの絵から桜を連想させた事が、咲良には分かったのだろう。槙と咲良は高校時代からの縁で今も繋がっている、恋矢や織人同様、槙の過去を知る一人だ。


咲良が気遣ってくれている事が分かり、これ以上彼に気を遣わせない為にも、槙も絵から視線を外して咲良の話に相槌を打った。

その中でふと、「桜が咲いていたから」と言った織人の言葉が頭を過った。それを突然思い出したのも、桜のような絵を見たからかもしれない。それから次いで頭に蘇るのは、屋上での出来事だ。

鬱陶しいと言った顔は睨んでいたが、思い返してみれば、あれはどこか寂しそうな表情にも感じられる。


「……」

「槙ちゃん?」

「あ、ごめん」

「何か考え事?」


心配そうな顔に、槙は何でもないと笑って返す。だが、この上辺だけの笑みもきっと見透かされているのだろうなと、ふと思った。そうなら、咲良にまた負担をかけるだろう、不甲斐ない自分を叱咤して、槙は立ち上がった。


「珈琲ありがとう、今日は帰るね」

「そ?気をつけてね」

「うん」


最後に咲良を振り返り、その穏やかな咲良の表情に密かに勇気を貰うと、槙は織人に会いに行くべく、夜の町へ向かった。




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