孤星のゼノグラフィ
もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ
みんなが町で暮したり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
──宮沢賢治「告別」(1925)より一部引用
(「春と修羅 第二集」三八四)
彼女の第一声は星から聴こえたみたいだった。
「壊れちゃったの、それ」
おれの懐で眠る天体望遠鏡を、彼女はしげしげと覗き込んできた。おれは芝生の斜面に座り込んだまま、望遠鏡を空に向けた。レンズには何も映らない。多分、持ち出すときに手を滑らせて取り落として、衝撃で光軸がずれてしまった。おれの不器用な手では応急処置も施せなかった。
「直さないの」
「直せないよ。修理に出す金もないし」
「高そうな望遠鏡」
「もらいものだよ」
「ふうん。誰に?」
「父親」
そこまで答えてようやくおれはぎょっと振り返った。旧知の友人と話すような口ぶりにすっかり騙された。生ぬるい八月の夜風を浴びながら、見知らぬ少女が月明かりの下でまっすぐにおれを見ていた。羽織ったビッグシルエットのプルオーバーが風に揺れて、黒い短パンから伸びる銀色の太ももをさらけ出す。目のやり場に困って、おれは視線を逃がした。
「そんなもの使わなくたってさ、星はいくらでも見えるのに」
彼女はぼさぼさの黒髪をかき上げた。
街明かりを映してぼんやり煙った深夜の空には、両手の指で数え切るほどの星粒しか見当たらない。何が「いくらでも」だ。つまらない冷笑が口をついた。都会の夜空なんて昔からこんなものだ。猥雑なビルの灯りやネオンサインの氾濫に、清らかな星の光は太刀打ちできない。
「見えてるのかよ、星空なんて」
「ほとんど見えないよ。でも、感じる」
「何を?」
「あんたはそれでいいんだよ、私たちが見てるからねって、あたしのこと慰めてくれてる」
ずいぶん詩的な感性の持ち主らしい。
嘆息して、おれは望遠鏡を横たえた。丘の上の一本桜が夜風に揺られてさざめいた。
詩的感性云々をいうなら、本当はおれだって彼女のことを嗤えやしない。晴れた夜には欠かさずに望遠鏡を携え、こうして近所の丘へ通い続けているのだから、はたから見れば詩人も同然だ。公的には『ゆうひの丘』と名付けられた場所だが、夕陽を求めて訪れたことは一度もない。ひとけのない丘に立って望遠鏡を構え、わずかな星空を必死に追う営みの中で、ほんのいっとき、俗世の一切合切から解き放たれる。胸を痛めつける悩みや苦しみは星明かりに吸い取られて、空虚になった胸を宇宙の匂いが満たす。あの底知れぬ暗闇のなかで、誰もが手を取り合わずにそっぽを向いている。寂しいけれども平等な、冷たい感傷で心が安らいでゆく。
「ねぇ」
彼女が不意に尋ねた。
「いくつ?」
「二十」
「へぇ。じゃあ先輩だ」
「そんなこと聞いてどうすんだ」
「生きてて楽しい?」
あまりにも無邪気に、唐突に突き付けられた言葉の静かな重みに、おれは少し身体を強張らせた。身構えたわけじゃない。新手の宗教勧誘にしては、彼女の声色はずいぶん寂しげだった。
ただの鎌かけか。
ふっと弛緩した喉から、自嘲の声がまろび出た。
「別に。毎日、毎日、ただ必死に仕事して生きてるだけだよ。意味も目標もない。金だけがバカみたいに減っていく」
「『はたらけどはたらけど猶わが生活楽にならざりぢつと手を見る』……って?」
「石川啄木か。知ってるんだ」
「まぁね」
彼女はおれの隣へ腰を下ろした。艶やかな黒の瞳が、丘の下に広がる街並みを静かに捉えていた。屹立するタワーマンションの航空障害灯が蛍のように瞬く。無数の街明かりの庇護を受けながら、人々は安寧の眠りに沈んでいる。おれも、それからきっと彼女も、いまはその庇護をはずれた逸れ狼だ。
「あたしも。生きてる意味なんてとっくの昔に分かんなくなっちゃった。今は惰性で漂ってるだけ」
「それでこんな深夜に公園へ?」
「星を見るのが好きなの」
「星なんてほとんど見えないだろ」
「自分のこと棚に上げてよく言うよね。そんなでっかい望遠鏡まで持ち出しちゃって」
「……頑張って見ようとしてるんだよ」
「あたし、あの星が好き。ひときわ明るいやつ」
彼女の示す先をおれは見上げた。真南の方角、天の川を少し外れた位置に陣取り、燦然と燃える金色の星があった。
「木星か」
彼女は無言でこうべを垂れた。
木星。またの名を夜半の明星。言わずと知れた太陽系の第五惑星だ。みずから光ることのない惑星でありながらマイナス二・五等級もの絶対的な明るさを誇り、その輝きは全天中でもっとも明るい恒星と称されるおおいぬ座のシリウスにもまさる。
「なんでだろうね。あの星を見つけると勇気が湧いてくる。誰にも愛されないあたしのこと、あの星だけは神様みたいに優しく見守ってくれてる気がする。だから、好き」
彼女は膝を抱えて、日光浴をたしなむように目を閉じた。おれも真似をして目をつむってみた。暗闇に閉ざされた世界を夜風が舞う。生ぬるい寒気が、座り込んだおれの輪郭をあらわにする。光を通さない天岩戸の向こうで木星が輝いている。おれも、彼女も、ひとりぼっちで放り出された宇宙の片隅で、優しい金色の光を浴びながら当てもなく漂っている。
もしも彼女の思想を鵜呑みにするなら。
おれはいま、孤独じゃないんだろうか。
絶対零度の宇宙の底で輝いているのだろうか。
手を当てた胸が淡々と脈を打っている。あんまり淡白なものだから、変な笑いが口元を汚した。
「おれには分かんないよ」
つぶやいたら、彼女が隣で吐息を漏らした。
「あんたになら分かってもらえる気がしたのにな」
「初対面の人間をあんた呼ばわりかよ」
「だって名前も何も知らないもん」
「……万里。百草万里。そこの駅前に住んでる」
「へぇ。意外と素直に教えてくれるんじゃん」
にへっ、と彼女は前歯を見せた。
「鐘奈って呼んでくれたらいいよ」
月明かりに浮かぶ彼女の笑みは人懐っこかった。また、丘の上の桜がさざめいて微笑した。
おれの学歴が高校卒業とともに途切れてから、もうじき一年半もの月日が経とうとしている。その間、なにかしら近況の変化があったかと聞かれれば、何もなかったと答えざるを得ない。一年半の日々はすべてアルバイトに融けて消えた。いまの勤務先に落ち着いたのは去年のことだから、しいて言えば変化はそれくらいのもの。
スーパーマーケットの店頭スタッフなんて誰にでもできる単純労働の筆頭だと世間様には思われているだろうが、実際問題、とてもじゃないが同意する気にならない。効率よく品出しを進めながら、人出の足りなくなった瞬間を見計らってレジ打ちに回り、来店客の品選びも手伝わねばならないのだから、気の回りの遅い人間には致命的に適性が合わない。
「だーかーらー!」
先輩の怒鳴り声でおれは我に返った。移動式のラックを先輩の拳が叩いた。狭いバックヤードに棚の悲鳴が響いて、おれは反射的に首をすくめた。
「前も注意したよね? 賞味期限の切れてるやつは最優先で棚から排除! 奥まで探って取り出さないと、間違ってお客様が手に取ったりするでしょ!」
「すみませんでした」
「さっき僕のところに客が文句を言いに来たよ! お宅の店は在庫管理もまともにできていないのかってね! 確認したら例によって君の品出し担当の棚じゃないか、しかもやりかけのまま放置してあるし!」
「すみません。レジ打ちの手伝いに行っていたので……」
「そんなもん他に手の空いている人間がいたでしょ! 中途半端な仕事がいちばん人に迷惑かけるの! そろそろ分かってもらわないと本当に困るよ! お客様のクレーム増えたら店の評価だって下がるんだから!」
先輩の和田練彦さんは大学生だ。それ以上の経歴は知らないが、少なくともおれよりは長い勤務歴を持ち、もちろん相応に仕事もできる。どう反論しようとも聞く耳を持たれないのは分かっていたから、おれは平身低頭に徹した。小窓から覗く外界が夕陽の色に沈んでいる。あの強烈な日差しの下で、太陽は常時、太陽風と呼ばれる高温の荷電粒子を全方位に発している。一〇万度もの非常識な「風」に耐える惑星たちの顔色も、おれと同じように真っ暗なのだろうか。
うなだれながら先輩の猛攻に耐え、メモ帳を取り出して説教の内容を書き留めた。小さなメモ帳は汚い書き込みで埋まりかけている。あれを直せ、これに気をつけろ、それだけはするな──。無数の注意書きが声に変わって、死んだはずの心に要らぬ波風を立てる。
割り切れよ、いい加減。
仕事ができないのは今に始まったことじゃない。
心を殺して耐えるって決めたじゃないか。こんな人生の負け組が生計を立ててゆくためには、たとえ苦手な仕事にでもかじりつくしかないのだから。
大股で立ち去ってゆく先輩の影が視界をかすめる。
「……仕事、戻ります」
言い訳がましくつぶやいて、おれはメモ帳をしまった。薄暗いバックヤードの一角に溜め息を残らず吐き出して、唇を結んで、エプロンを直して店内へ戻った。
分別のついたばかりの頃、おれの両親は離婚した。母親はおれや父親といることに疲れてしまったみたいだ──。離婚の顛末を父親はいつも曖昧模糊な説明で片付けたがった。一方的な不倫の末、新しくできた男とともに母親が家を出てゆく形で離婚したことは、大きくなってから父親の病床で聞かされた。
四年前から父親は闘病生活を送っている。母の欠落を埋めるように研究の仕事に没頭していた父親は、病の前兆に気づくこともなく、ようやく診断が下りた時には著しい重症化が進行していた。もはや入院治療で対処するほかなく、残されたおれは深刻な生活苦に陥った。生きてゆくためには働くしかなかった。連日深夜まで及んだ校則違反のアルバイトは、まるで底の見えないブラックホールみたいに、学習機会も、体力も、友達も、少しずつおれから奪い去っていった。
いつからすべてをなくしたのか、もう今は思い出せない。
気づいた時にはおれは宇宙の片隅にいて、たったひとりで真空を漂流している。
生き甲斐なんてものはない。そんなものを見出だしている暇があるなら生きてゆかなきゃならない。やっとの思いで糊口をしのぎながら、ふたたび娑婆に出られるかも分からない父親の命と居場所を未来へ繋いでいる。それがおれの今のすべてだった。それ以上でも、以下でもなかった。
望遠鏡を修繕する見通しは立たなかった。わざわざメーカーに問い合わせなくとも、万単位の修理費が飛んでゆくのは分かり切っていた。なぜって、そのメーカーは父親の元勤務先だからだ。もとはと言えば望遠鏡自体も、父がメーカーからもらい受けてきたものだった。隣市の大きな事業所で光学設計技術者として働いていた父親は、当時、それなりに職場内でも一目置かれる存在だったそうだ。けれども今となっては見る影もない。
無用の長物と化した望遠鏡を抱えて、おれは相変わらず、ゆうひの丘に通い続けた。
諦めることだけがおれの得意技だった。
諦めなければ生きてゆけなかったから。
あの鐘奈とかいう女の子もじきに飽きて立ち去るだろうと高をくくっていたのに、彼女はおれの悲観的な期待を裏切った。おれが丘の斜面に寝転んで夜空を眺めていると、鐘奈は大抵、ふらっと暗闇から現れて「隣いい?」と尋ねる。そうしておれの返答を聞きもせずに横たわるのだった。
斜面の上には例の一本桜が立っている。なんでも国際宇宙ステーションでの実験に参加した種子から育った桜なのだそうで、宇宙桜と呼ぶらしい。葉を茂らせて立ち尽くす桜のおかげもあって、斜面の中腹には街灯の光も届かない。人目に付くことのない夜の帳の下で、おれも、鐘奈も、多くの時間を無言で過ごした。とりたてて話し込むような話題も思いつかなかった。なにか話を切り出すのは大抵、鐘奈の役回りだった。
東京の夜空に光り続けていられる星はほんのわずかだ。東京といっても、都心から私鉄電車で三十分ほどの距離にある郊外の衛星都市なのだけれど、それでもいっぱしに高密度で人が住み、駅前には賑わいのある商業地やビル群も広がっている。オリオン座やカシオペヤ座なんかのように、街明かりの邪魔をはねのけて輝き続けられる星は少数派にすぎない。
鐘奈と語らって以来、無意識に木星を探す習慣ができた。木星は水瓶座と山羊座のあいだへ挟まれるように位置していて、大抵、さしたる苦労もなく見つけることができた。
「綺麗だな、今日も」
独り言のように鐘奈がささやく。
「うん」
何か返さないといけない気がして、おれも静かにうなる。わずかに身を起こした鐘奈が「知ってる?」と息を吐く。他愛のない雑談を切り出す時の常套句だった。
「占星術ってあるでしょ。木星は成功をもたらす幸運の星なんだって」
「聞いたことあるな」
「なんだ。知ってたの」
「明るいからかな。惑星のなかでもトップクラスに大きいしな」
「赤道面の直径は地球の十倍以上あるらしいよ」
「詳しいな」
「好きだから。木星」
「好奇心が偏りすぎだろ」
「木星研究のこと、英語ではzenographyって言うんだって。なんか格好よくない?」
ゼノグラフィ。聞き慣れない英単語をおれは小声で反復した。脈絡のない知識をひけらかす鐘奈の横顔は白っぽく紅潮していた。
「街明かりのない昔は、きっともっと力強い輝き方だったんだね。たくさんの人が星を見上げて研究してきたんだろうし、星明かりに夢を託す人も多かったのかも。あたしもそういう牧歌的な時代に生まれたかったな」
「夢ね……」
白々しい響きに心が醒めて、おれはそっと木星から視線を外した。木星の偉大なる恩寵を享受したところで、いまの自分が何者かに飛躍発展できるようには思われなかった。行きつく先はせいぜいアルバイト先での正社員採用といったところか。流れ作業のように宿命づけられた未来の先に、きっとろくなものは待ち受けていない。
「なんかないの、夢とか」
鐘奈が問う。
「ないよ」
おれは吐息をこぼした。
「今はもう、ない。昔はあった」
「へぇ。どんな?」
「小説家になりたかったんだ」
おれはそっと後頭部に腕を組んだ。投げやりな暴露を鐘奈は笑わなかった。
「家の事情がいろいろ複雑で、おれ、ひとりの時間が多くてさ。夢中で小説を読み漁ってた時期があって、そんで作家に憧れた。高校時代はけっこう色々書いてて、出版社主催の賞に応募したりもしたけど、今はもう……それどころじゃないから」
「どこ高校?」
「都立聖ヶ丘」
「へぇ。あたしも通ってたとこだ」
「過去形?」
「今は辞めちゃったから」
しずくを落としたような鐘奈の声色がいやに耳に残った。なんとなく追及の意欲が削がれて、おれも「そっか」と口ごもった。
狭い世の中だ。意外なところに意外な縁の結びつきがあって、それはまるで星座のようにおれたちをどこかへ縛り付ける。けれども本物の星座にはなり得ないから、おれたちはふたたび虚空へ放り出されて、何事もなかったかのように回り続けるのだ。
「あたしも夢なんてないや。持ってた時期もあったけど、なくしちゃった。何を夢見てたのかも思い出せない」
たはは、と鐘奈は笑った。
「そっくりかもね、あたしたち」
おれは肯定しなかった。安易な肯定で共感を示したところで、なにか前向きな状況が生まれるようには思えなかった。そもそも鐘奈の私生活や過去をおれは知らない。おれの方も適度に言葉を濁して、自分自身の内実はほとんど明かしていない。
それっきり鐘奈も口を閉ざした。
無言のまま、変わらない夜空を二人で眺めた。
深夜の公園を風が吹き抜ける。葉を落とし始めた桜の歌声が響く。肌寒くなった身体が穏やかな熱を発する。たとえどれだけ心を殺していようとも、絶対零度の宇宙の底でおれは熱を発しながら生きている。その矛盾した現実をうまく受け入れられなくて、何度も息を止めようとした。止めたいと願った。いつか、このちっぽけな命の灯が尽きて、骨壺へ収まる白色矮星と化したとき、最期の光は誰かの目に映るんだろうか。きっと映らないんだろうな。ぷは、と弱々しく漏らした吐息の先に、塩辛い自嘲が薄くにじんだ。
悪性リンパ腫という病がある。免疫機能をつかさどる白血球の一種、リンパ球の遺伝子に損傷が生じることでガン化する病気だ。早い話がガンの一種で、血管を通って全身に転移しやすい厄介な特性の持ち主でもある。とりたてて特徴的な自覚症状もないものだから、日常に追われて前兆を見逃し、肺や臓器を転移ガンに侵されてから病院へ駆け込む患者も珍しくない。五年生存率は六十二パーセントといわれ、直近数年で改善傾向にはあるものの、依然として半分近くの患者は助からない。
結節硬化型古典的ホジキンリンパ腫、病期Ⅳ。
三年前、不調を覚えて隣市の大病院を受診した父親の脳天に、医師はすがすがしいほど容赦ない現実を突きつけた。ガン診断におけるステージⅣは、すでに他部位への転移が始まっていることを意味する。血液転移によって全身に散らばったガン細胞は、さっそく胃に病巣を作りつつあった。さらに一年も経たないうちに脳への転移もみられ、父親は悪性リンパ腫と胃ガン、それに脳腫瘍をいっぺんに抱え込む末期ガン患者と化した。もはや抗ガン剤による全身治療も追いつかない。入院開始から二年半も経たないうちに余命宣告を受け、父親のカレンダーは残り十二枚で必要十分ということになった。
仕事終わりの夜、スマートフォンの着信履歴に担当医の番号を見つけた。たちまち、空っぽの胃がひゅっと縮んで警告の痛みを発した。おそるおそる掛け直すと、担当医は父親の近況報告を申し出てきた。相談の末、数日後に仕事を休んで病院へ向かうことになった。近頃はめっきり病室からも足が遠のいて、こうして呼び出しを受けないことには連絡も取らなくなりつつあった。
東京都立府中総合病院。
堅牢な要塞のように巨大な病院の一室で、あわれな父親は無数の管に繋がれていた。
「俊之さんの譫妄は深刻化する一方です。お名前を尋ねても答えられず、症状も説明できないことが増えています。いまはゆっくり眠っておられるが、もしも起きていたら、息子さんも少なからぬショックを受けられるかもしれない」
賑やかしの絶えない談話室の一角に移動して、老齢の担当医は父親の病状を説明した。焦点の合わないレンズで星を望んだときのように、記憶の呼び出しや感覚がおぼつかなくなってしまう軽度の意識障害を「譫妄」と呼ぶ。研究所の一角でレンズを磨くことに全身全霊を注いできた父親は今、みずからの意識のレンズも磨けなくなり、残りわずかな寿命をぼんやり浪費している。
「原因は……?」
「鎮痛剤の影響か、さもなくば脳腫瘍が器質的な障害を起こしているのか。おそらくは多重的な原因によるものでしょう。抗精神病薬を使えば多少の改善はできます。もちろん対症療法に過ぎないので根治は望めないが」
「治療したら父の余命は延びますか」
「病状の進行とは無関係です」
「……なら、やめときます」
口を結んだおれを一瞥して、担当医は「分かりました」と小首を垂れた。老眼鏡の奥で、しわだらけのまぶたが瞳を覆う。無言で見放された気がして、おれの息も少し浅くなった。
放り出されるようにして病院を後にした。残暑の漂う街並みが陽炎のように揺れて見えた。行き交う車の元気な姿を、子どもたちの朗らかな顔を、いまの父親が見たら呪うだろうか。おれが父親の立場だったら呪っているかもしれない。抱えた心の黒さを悟られないように固く唇を結んで、うつむいて、最寄り駅までの道を歩いた。
何かを失うばかりの半生だった。
母親も、安寧な家庭も、経済力も、学問も、友達も、時間をかけて失ってきた。そうしていまや、たったひとり残された父親さえも魂を奪われ、物言わぬ抜け殻になりつつある。
無力感に包まれた足取りが一歩、一歩、重くなる。砂利だらけのアスファルトを踏みしめるたび、あの世への距離が縮まってゆく。父親の余命は半年後に迫りつつある。父親が死んで、守るべきものがすべて失われたら、おれは何のために生きてゆこうか。貧困に耐えて、孤独に耐えて、希望のない日々を惰性のままに生き続けて、やがては恒星が矮星へ変じるようにして父親の後を追うのが関の山か。
明るい世界ではまともに息もできなかった。どうにか転がり込んだ家の中で、深夜になるまでうずくまって、つけっぱなしのテレビをぼんやり眺めながら過ごした。ものを考えるのが嫌だった。半端な覚悟で何かを手にして、失う痛みを重ねるのはもうたくさんだ。どうせ消えてしまうのならば何も要らない。誰にも触れたくない。このまま身体の動きを止めて、いっそ呼吸さえも止めてしまえたらいいのに。
居間の時計が午後十時を指す。
壊れたままの望遠鏡が指先に触れる。
震えの止まらない唇をおれは噛みしめた。
望遠鏡も持たずに丘へ現れたおれの姿に、鐘奈は何かを察したらしい。
「元気ないね、万里」
「なんで分かるんだよ」
「空を見ようとしてないから」
「……はぁ」
おれは無気力に嘆息した。当てずっぽうもいいところだが、あながち的外れでもないのが悔しかった。
おれの隣へ鐘奈も腰かけた。
視界の先には街が広がっている。駅前に林立する高層ビルやショッピングセンター、丘に貼り付くようにしてひしめくマンションや戸建て住宅、山間を縫って巡る幹線道路、大きな川を渡ってゆく私鉄の線路。人影のない深夜の丘から眺めるには、あまりにも照度のコントラストが大きい。
おれは膝に顔を埋めた。
あの光の世界へ、おれは入ってゆけない。
空を彩る星々のように、大層な憧れや夢を語ることもできやしない。
ああ。やっぱり泣きそうだ。みっともなくて泣けないけど。くだらない羞恥心を指先に絡め、首をすくめて夜風に耐えていたら、不意に、冷たい質感がのしかかって広がった。鐘奈だった。
「嫌がらないんだ」
鎌をかけるように鐘奈が言う。
「こっちの台詞なんだけど」
「あたしは別に、嫌でもなんでもないよ。寒いなって思っただけ」
「他人で暖を取るなよ」
「いいじゃん。あったかいんだから」
おれはますます強く膝を抱え込んだ。閉じた目の奥でチカチカと星がまたたいた。星たちはおれを面罵して嘲り笑っている。死を望むわりに生命力はずいぶん豊かなんだな、とでも言って。
「あったかい」
静かに、歌うように鐘奈が繰り返す。
「身体が温かい人は心が冷たいっていうけど嘘だよね。こんなに優しいのにな、万里は」
「おれの何を知ってるってんだよ」
「さあね。何も知らない。知らなくたって分かることはあるでしょ。こんな冷たいあたしを黙って受け入れてくれる万里が、優しさのない人だなんて思わないよ、あたし」
おれは黙って首を振り回した。
そうじゃない。
優しいから離れないでいるわけじゃない。
凍り付いた身体が鐘奈の隣を離れないんだ。
誰にも触れたくないと嘆いたのに、錆び付いた肌が誰かを求めている。離れてゆくことは簡単だ。簡単なのにできないのは、きっとおれが臆病だからで。半端な優しさを捨てた残酷なリアリストになりきれないからで。すべてを手放して宇宙の底を漂い続ける覚悟を、まだ、持てずにいるからなのだ。
「ねぇ」
耳元で鐘奈が訴える。
「優しい万里にもっと甘えさせてよ」
限界だった。込み上がった拒絶の言葉が喉につかえた。おれは嘔吐するように「黙れよ!」と叫んだ。
「何も知らないくせしておれを語るなよ! 優しくなんてない、あったかくもない! 燃え残りの灰の塊だ。もう火種も残ってない。ぜんぶぜんぶ失って、あとは真っ白に燃え尽きるだけの……っ」
怯んだ鐘奈が身を起こす。その華奢な肩を鷲掴みにしたまま、気づけば勢いづいてすべてをぶちまけていた。母親に見捨てられた過去、アルバイトに明け暮れて友達を失った経緯、小説家の夢や学業の道を諦めるまでの道筋。たぶん父親の病気のことも話したと思う。衝動的な暴露のわりには脈絡や前後関係を整理して丁寧に語り続けたあたり、作家だった頃の魂も多少は燃え残っていたのかもしれない。あるいは、この期に及んで聞き流されるのが──鐘奈にさえも見捨てられて道端に転がるのが恐ろしかったのか。
ひたひたと溜まり続けた罪悪感が、話し終えた拍子にふちから膨らんであふれ出す。「悪い」と頭を下げたら、鐘奈は「なんで謝んの?」と小首をかしげた。
「ちっとも共感できない話ばかりダラダラと……」
「共感できなかったなんて言ってないけど」
「できたのかよ。こんなどうしようもない話に」
「あたしもおんなじような経験してるもん。誰かのために一生懸命、心も身体も犠牲にして頑張って、だけどちっとも報われなくて、最後には結局、ひとりぼっちになっちゃってさ。それってきっと万里も一緒でしょ」
鐘奈はまだ街明かりを見つめていた。しっとりと濡れた瞳が光を宿して、長い睫毛の下に隠れる。「へんてこな話だよね」と彼女は皮肉な笑みを含ませた。
「誰かに心をかければかけるほど、自分が自分を置いてけぼりにしちゃう。人間ってきっと、自分勝手でいるくらいがちょうどいいんだろうね。あたしも長いこと気づけなかった」
「そうかもな……。おれもそういう風に生きればよかったのかな」
「今からでもやってみればいいじゃん」
「簡単に言うなよ。自分勝手に生きられなかったから今、こんな惨めなことになってんのに……」
「じゃあ、こうされたら?」
言うなり、身をひるがえした鐘奈はおれを突き飛ばした。無様に芝生の上へ転がったおれを、馬乗りになった鐘奈が押し潰す。「何すんだ」と叫んだおれの眼前に、ぐっと彼女は顔を寄せた。
「あたし、もう誰かに尽くすような生き方はやめたの。万里も一緒にやめるなら、お互いの利害は一致してるよね」
「待てよ鐘奈、何言ってんだ」
「こういうことって好きじゃないの?」
唇を尖らせた鐘奈が、魂を引きずり出すほどの勢いでおれの首筋に吸いつく。赤黒いあざから湧き上がった快感がぞっと深みを増して、おれは身をよじった。「やめろって!」と抵抗を試みたが、急な斜面に倒れ込んだままでは満足に暴れることも叶わない。鐘奈はなおも指を這わせて、おれの胸をいとおしげに撫で始める。
「あたしの身体、いくらでも好きにしていいよ。その代わりあたしも万里の身体で勝手に遊ぶから」
「好きなようにって、これじゃっ」
セフレみたいじゃないか、と叫びかけた口を鐘奈の唇が塞いだ。柔らかな舌先が絡み合う。つうと伝った銀色の糸が、宇宙の底でおれと鐘奈を確かに繋ぐ。星座線より頼りのない、粘っこい線の行く末を、息を呑みながらおれは見届けた。
「ほら」と彼女は小癪な笑みを浮かべた。
「抵抗しないじゃん。やっぱり身体のほうは嘘が下手くそだね」
「お前、いい加減に……っ」
「万里は燃え残りなんかじゃないってこと、あたしが教えてあげる」
艶めかしい動きで身体に絡みついた指先が、堅牢な心の壁をやすやすと突き崩してゆく。挑発的な瞳の奥をまともに覗いてしまった瞬間、なにかが身体の奥で爆発するのをおれは悟った。灰色の全身を火だるまにするほどの勢いで燃え上がったそれは、欲望とも劣情ともつかない激しい衝動だった。
そっちがその気なら、おれだって──。
歯を食い縛って枷を取り払うと、息をひそめていた自我はいともたやすく暴れ出した。プルオーバーの防御能力など皆無に等しかった。艶めかしく縊れた鐘奈の腰をおれの手が鷲掴みにする。絡みついた鐘奈が「あは」と甘い声で笑う。吹きすさぶ夜風が長い髪を舞い上げる。宇宙桜が暴れている。
「ぜんぶ忘れようよ。しんどい現実なんか忘れちゃって、ずっとここでこうしていようよ」
喘ぐように鐘奈がささやいた。
「どんな悪事を働いたって、星があたしたちを見放さないよ」
勤務態度は顔に表れるものらしい。ロッカールームにカバンを置き、黒一色のエプロンを身に着けていると、大股で歩み寄ってきた和田先輩が「あのねぇ」と粘っこく絡みついた。
「その真っ暗な顔、どうにかならないの? そんな顔色でお客様の前に立つつもり?」
「顔色なんかどうでもいいじゃないですか。どうせおれは応援以外でレジには立ちませんし」
「君みたいなのが店内の雰囲気もまとめて悪くするんだよ! この頃ずっとそんな感じじゃないか。店長に話しかけられても不機嫌丸出し、お客様からも『愛想の悪い店員がいる』ってクレームが入ってる」
「クレームの後片付けをするのは管理職と会社の仕事でしょ。おれらじゃないですよ」
「君ねぇ……!」
和田先輩はしばらく口の中で憤懣の行き場を探していたみたいだったが、とうとう根負けしたのか、また大股で立ち去っていった。おれもエプロンの紐を適当に結んで、先輩の後を追った。古びたバックヤードに足音が甲高く響いた。
アルバイトの従業員なんて体のいい使い走りだ。社会情勢に振り回されて業績が悪化すれば、真っ先に肩を叩かれる。ろくな身分保障の恩恵も受けられず、賃金だって正社員と比べれば冷遇されているのに、どうしておれは今まで躍起になって仕事を覚えて、誰かのために頑張ってきたのだろう。ひとたび覚えてしまった疑問は粘土みたいに喉元へ絡んで、おれから実直さを着実に奪っていった。給料が下がったって構いやしない。おれひとりが生きてゆけるだけの日銭が入ってくればいい。父親の入院費は、現役時代の父親が稼いだ預金で賄えば済むことじゃないか。
品出しのエリアを指示されて、フロアに出た。担当外の菓子コーナーで、高い棚のスナック菓子を取れずに立ち尽くしている親子がいる。何の感慨も浮かばず、そのまま親子の前を素通りした。駆け足で現れた和田先輩がおれの代わりに声をかけて、商品の袋を取ってやったようだった。何事もなかったふりをして総菜コーナーの品出しを始めたおれに、先輩は棚の向こうから視線を送ってきた。何かを叫びたいのに叫べない、喉元に小骨を引っかけたような先輩の顔が不愉快で、おれは先輩から目をそらした。
「あ。電話、鳴ってる」
胸のなかで鐘奈がモゴモゴ言った。
周波数の低いバイブレーターの音が、部屋の空気をかすかに震わせている。おれは黙ってスマートフォンを取って、画面も見ずに着信を拒否した。なすすべなく沈黙したスマートフォンの代わりに、鐘奈の肌を撫でる。鐘奈の身体も電子機器と同じくらい冷えている。
「いいんだ、電話」
「いいよ。どうでもいい」
「そうだね。どうでもいっか」
口角を上げた鐘奈の顔が迫る。おれも鐘奈の期待を見越して、彼女の唇に唇を合わせる。キスなんて安っぽいものだ。中学生の頃、はじめて付き合った恋人とファーストキスを交わした時には、照れくささのあまり顔もまともに見られなかったのに。
鐘奈との関係をはじめて一ヶ月が経った。
落ち合う場所はゆうひの丘と決めていたけれど、その後の逢瀬の場所は特に定めなかった。誰にも見つからない場所ならどこでもよかった。丘の上のベンチや四阿で済ませることもあったし、自宅にも連れ込んだ。さすがに鐘奈も嫌がるかと身構えたのに、かえって彼女は「声を出してもバレないね」と喜ぶ有様だった。おれを押し倒して誘惑した時といい、つくづく鐘奈はしたたかな女の子だった。
愛のある行為だと思ったことはない。互いの孤独を餌にして食んで、心地のいい痛点をまさぐり合うだけの、獣以下の交流に過ぎない。それでも不思議と長続きしている。鐘奈の冷たくも柔らかな身体とぶつかり、汗を飛ばしてよがるたび、ぬめる体液がおれの輪郭を浮き彫りにして、鼓動の高鳴りをやかましく増幅する。それは誰の姿もない家の中でひとりうずくまっているときには決して感じられない、まぎれもない生の実感だった。鐘奈の腕の中でおれは確かに生きていた。絶対零度の宇宙の底で、鐘奈の手を借りて金色に燃え盛っていた。
「あは……」
風船の口を緩めたような溜め息をこぼしながら、汗だくの鐘奈が傍らに寝転がった。休憩しようよと言うので、おれも隣に座り込んだ。蒸発しそこなった汗の粒が温度を下げてゆく。肌寒さを覚えてシャツを手に取り、乱暴に身体を拭いた。投げ捨てようと腕を振り上げると、一足先に投げ捨てられていたスマートフォンが目に入った。
さっきの電話は誰からだったのだろう。
気まぐれに画面を点けて、着信履歴を確認する。
父親の担当医の名前を見つけた瞬間、汗だくの身体を包んでいた熱は跡形もなく弾けた。
「あ」
うめき声を上げたおれの顔を、鐘奈が猫みたいに覗き込んでくる。汗を拭ったはずの肌に寒さが突き刺さって、おれはスマートフォンを握りしめた。右上のデジタル時計が丑三つ時を告げている。こんな時間に用件もなく着信が入るはずはない。なにか緊急の用事で掛けてきたのかもしれない。掛け直そうか──。気の迷いが激しく明滅して、居てもたってもいられなくなる。
「誰からだったの」
鐘奈の追及には遠慮がない。おれはやっとのことで「病院」と答えた。
「きっと父さんの件だ」
「掛け直してこないってことは、大したことじゃなさそうだね」
鳴り止まない動悸をこらえながら座り込むおれの丸い背中を、起き上がった鐘奈が急に抱き締めた。丸い豆腐みたいな感触がふたつ、おれの身体にささやかな刺激を突き当てる。包み込まれた心がぼうと熱く滲んで、おれは思わず「鐘奈」と小さく喘いだ。
「離婚して以来、仕事ばっかりで大事にしてくれなかったんでしょ、万里のこと」
耳元で鐘奈が優しくささやいた。
「だったら万里だって大事にしなくていいじゃん。自分を大事にしてくれる人のことだけ大事にしなよ。それでいいんだよ」
「でも……」
「万里はもう、自由になったんだから」
力押しに負けたおれは倒れ込んで、折り重なった鐘奈の顔を見た。鐘奈は透き通った目でおれを見つめ返して「ね」と小首を傾げた。うっとりと潤んだ瞳がおれに訴えかけていた。有無を言わさない彼女のペースに釣られて、また、安っぽいキスを交わした。
無数の管に繋がれる父親の顔が脳裏をかすめた。
手が届かずに困っていた親子の顔も浮かんだ。
ぜんぶ、ぜんぶ、見なかったことにできなかった。おれがこうして孤独を食い物にしている間も、あの大病院のベッドで父親は生死の狭間をさまよっている。駅前のスーパーで誰かが困っている。気づいていたのに何もしなかったおれは、みずからの生と引き換えに、どれだけの人に涙を味わわせたのだろう。知ったことかと言い張れるほど残忍になれないのは、きっと、おれがまだ弱すぎるから。
ごめん、父さん。
おれの首元は鐘奈のキスマークでいっぱいだ。
こんな汚い身体じゃ、あの病室へは入れないよ。
込み上げかけた涙を汗と一緒くたにして、あるいは快感のついでに流れたことにして、おれは鐘奈の身体に噛みついた。鐘奈も負けじと首元へ吸いついた。たぐり寄せる手つきに有無を言わさぬ力を感じた。あたしだけを見てよ──。いつもより少しだけ強いまなざしで、彼女はおれをまっすぐに見つめていた。
アルバイト先のスーパーと担当医の名前で埋め尽くされていたおれの着信履歴に、珍しい名前が加わったのは、それから間もなくのことだった。
──『株式会社星雲館の相原という者ですが』
電話口の男性は出版社の編集者を名乗った。星雲館という社名に、おれの脳幹は鈍く反応した。小説賞「スターリング・ノベル新人賞」を運営している会社だ。すっかり忘れかけていたが、今年の春、自著の小説をおれは件の新人賞に送り込んでいたのだった。
──『今回は残念な結果に終わってしまったけれども、送ってくれた原稿に光るものを感じまして。是非、会って話を聞いてみたいんです。なんなら作品を持ち込んでくれても構わないですよ』
「そうは言っても、おれ、別に今は……」
小説家の夢を捨ててしまった、とは続けられなかった。おれの虚ろな声色を相原さんはものともせず、予定の確認を要求した。シフトの入っていない次週水曜日の昼間、千代田区一ツ橋にある星雲館の本社ビルで対面することになった。
問題の水曜日は地を這うようにゆっくりと近づいてきた。重たい曇天の下、気だるい昼下がりの空気をかき分けて私鉄の急行電車に乗り、都心部を目指した。あいにく持ち込めるような原稿の持ち合わせはない。どのみちすぐに関心も持たれなくなるだろうと、おれはなかば諦めを込めて高をくくっていた。相変わらず、諦める以外の処世術をおれは知らなかった。
相原さんは愛想のいい人物だった。和やかに「いやぁ」と後頭部を掻きつつ、彼はパーテーションで区切られた応接のブースにおれを通した。相原諒平、三十二歳。文芸書編集部の編集主任だという。
「遠いところから来てもらって申し訳ないですね、宮澤萬里さん。本来こちらから出向くのが筋なんですが、あいにく時間が取れなくて」
「別にいいですよ。人気雑誌の編集さんが忙しいことくらい、おれだって分かりますし」
「いや、その、実は子供が産まれてね。頻繁に育休を取ってるおかげで仕事の捗りが悪くて」
「なんだ……」
「でも人気雑誌と言ってもらえるのは嬉しいな。励みになりますよ」
頬を赤らめる相原さんを、おれは白けた目で眺めていた。この人はきっと社内の機械的な人事異動でスタノベの編集に就いただけなのだろう。多少なりとも真剣に物書きを目指した人なら、スターリング・ノベル新人賞や、その母体である文芸雑誌「スターリング・ノベル」の評判を知らないはずはない。大衆文芸の分野では絶大な権威を持つ雑誌で、多数の売れっ子作家を生み出した憧れの星だ。もちろんおれもそれを知っていて、スタノベ新人賞に応募した。三次選考で落選したらしいが。
「君の応募してくれた『阿修羅の春』、大変に興味深い作品でした」
居住まいを正した相原さんが、名刺とともにおれの提出原稿をテーブルへ置いた。
「凶悪な殺人鬼の男が初めての恋に落ち、彼女を手にかけることで愛の痛みを知る物語。実に重厚で凄惨な中身だけれども、扱われる内容そのものは普遍的といっていい。愛の本質を学び取ることは誰にとっても難しいものだ。その普遍的ながらも難しい主題を、実に読みやすい語り口と斬新な切り口でこれだけのモノに仕立てた才能は見事だと思います。選考段階でも一押しだった。残念ながら他の選者たちの賛同は得られなかったんですが……」
まくし立てた相原さんは、紙コップの緑茶を口へ流し込んで一息つき、ダメ押しのように畳み掛けた。
「君の才能は本物だ。是非、これからも作品を見せてもらえませんか」
おれは相原さんから目をそむけた。
願わくは、この台詞を数ヶ月前に聴きたかった。一縷の望みをかけて未完成の作品を書き上げ、小説賞に送り出すだけの体力と志が残っていた頃に。
「……無理ですよ。もう、書けない」
「どうして?」
「仕事も忙しいし、心の余裕もないし。悠長に夢がどうとか言っていられる状況じゃなくなったんで」
相原さんは上体を傾けた。
「家庭の事情っていうことかな」
おれを傷つけまいと言葉を選んでいるのが静かに伝わってきた。うなずくと、腕組みをした相原さんは「そうか……」と唸った。
「残念だ。我々のほうで何とかできる事情ならよかったんですが」
「ガンを消し去る技術があるならできますよ」
渾身の皮肉を込めておれは嘲笑した。別段、この編集者の前で自分の過去を隠す気もなかった。そもそも隠すほどのことじゃない。片親なんて珍しくもないし、その親を支えるべく経済的・家庭的な献身を迫られるヤングケアラーの存在はいまや社会問題にもなっている。
母親が離婚で消え、父親は病気で入院。生活費を稼ぐために進学も諦め、アルバイトで食いつないでいる──。そこだけ境遇を切り抜けば多くの人の涙を誘えるかもしれないが、残念ながら涙と同情では生きてゆけないのが人間だ。もちろん愛情だけでも生きてはゆけない。いくら愛の本質を賢しげに説いてみたところで、本当に愛に飢えている人間は救えない。おれの書く小説なんか、誰の支えにもなれやしない。
「……なるほど」
身の上を聞き終えた相原さんは、改めて、テーブルに伏せられていたおれの原稿を手に取った。
「この『阿修羅の春』、書きかけのまま放置していた作品を、忙しい日々の中で何とかカタチにして応募してくれたものだそうですね」
「そうですけど」
「あまり推測で物を言いたくはないが、そのような逆風の状況こそが、君の作風の強みを磨いてくれたんじゃないかな。身をもって孤独と向き合い、闘った過去を持つからこそ、その向こうに他者愛の在り方を見出だすことができた。愛と孤独は相反するようだが、実際には表裏一体の存在でもある。そういう愛の本質をきちんと見抜いていなければ、こんな物語は書けないはずだ」
そんな大層なもんじゃない。おれはソファの中で縮こまった。愛の何たるかに答えがあるならおれが知りたい。おれにも分かるのは愛情の不存在だけだ。たとえば鐘奈との肉体関係のように。
「俺は一時期、妻と不仲でね」
相原さんは緑茶を一気飲みして、苦々しく笑った。
「情けない話だけど、他人との向き合い方はすべて妻から学んだんです。どうすれば家庭と仕事のバランスを取れるか、どうすれば傷つけあってもよりを戻せるか。そういうのは上っ面の知識だけじゃ分からない部分も大きい。人は誰しも、経験を得てたくましくなる。まだ若い君ならば尚更のことだと思う」
「…………」
「君の孤独はきっと大きな糧になる。だから、どうか創作を諦めないでほしい。君が奮闘の中で見いだした光るものを、全力でぶつけてほしいんです。我々にはそれに真正面から応える用意がある。君の実力からすれば書籍化も夢じゃないはずだ」
おれは首を縦には振れなかった。
無責任な嘘をついて、相原さんを失望させたくなかった。
分かってください。もう、無理なんです。お気楽に夢を語るだけなら誰にでもできる。叶わない夢をぼんやり見上げながら生きてゆけるほど、おれの中に元気や活力は残っていないんです。みんな使い果たしてしまった。いまのおれは抜け殻だ。孤独の痛みをぶちまけながら、未来のない日々をぼんやり過ごすだけの……。
結局、結論を有耶無耶にしたまま、面会の時間は終わりを告げた。困ったことがあれば協力するといって譲らない相原さんの手をとうとう握り返せず、逃げるようにおれはビルを出た。曇り空は晴れ、日暮れ前の鋭い陽差しが地平を赤く灼いていた。
痩せこけた父親の肌は乾いていた。
胡散臭い管を全身につないだままの肢体はなんだか不気味で、もはや人間としての基本的な機能を失ってしまっているようで、おれにはなんだか近寄りがたかった。座っていいと促されて、ベッドの傍らの椅子におずおずと腰を下ろした。父親は首だけを傾け、しきりに窓の外を眺めたがった。
「今日ははっきりしてるんだな、意識」
水を向けると、ああ、と父親は虚ろに応じた。
「久しぶりだ。頭の奥はぼんやりしてるよ。まるで宙に浮かんでいるみたいだ」
「譫妄の治療、受けたい?」
「お前の迷惑になるなら受けたい」
「別に迷惑なんて……」
おれは言葉少なにそっぽを向いた。なにも迷惑をこうむるほど、父親のベッドに通い詰めていたわけじゃない。このところ病院から足が遠ざかっていたのも、もとをただせば意識の混濁した父親を見たくなかったからだ。物言わぬ抜け殻に成り果てた、あわれな父親をこの目で認識したくなかった。今日、たまたま病院へ寄ったのも、出版社からの帰路の途上に病院が位置していたからに過ぎない。
父親は「そうか」と目を細めた。
色あせたふたつの瞳に空色が映っている。昼下がりの退屈な街並みをカラスが横切ってゆく。言い訳のように父親が口走った。
「近頃は空を見ることくらいしか楽しみがなくてな。こんな身体では何もできない」
「……そうだろうね」
「父さんのあげた望遠鏡、まだ使ってるのか」
おれは表情筋を固めた。壊れたまま放置しているとは言えなかった。修理費が出せないから、という理由までも付け加えれば、効き目の強い皮肉になっただろう。あいにくおれはそこまで嫌味なやつにはなれなかった。
「むかしの夢をよく見るんだ。桜ヶ丘公園のゆうひの丘、よく一緒に出掛けたろう。深夜にあそこへ出向いて望遠鏡を構えれば、こんな街中でも意外と星は見えたものだ」
「何年前の話をしてるんだよ」
「そうだな、もう十年も前になるか……。今頃は丘の上の桜も立派に育っているだろうな」
最後に父親と丘へ登ったのは小学五年の冬、まだ宇宙桜が植えられたばかりの頃だった。母親との離婚が済んで以来、やたらとおれにべったりだった父親は、あの頃を境にして依存の対象を仕事へ切り替えたようだ。ものの分別を身に着けて、みずからの意思を行使するようになったおれは、もはや父親の玩具ではなくなったのだろうか。幼心ながらにそんな邪推をしていたのが懐かしい。
「あの頃はよかった」
父親は目を閉じた。
「夢にも思わなかった。こんな形でお前に苦労をかける羽目になるとは……」
こっちの台詞だ。こんな形でとばっちりを受けるとは夢にも思わなかった。あの頃のおれは曲がりなりにも希望であふれていた。学を身に着けたかったし、幸せな家庭を築きたかったし、作家にだってなりたかった。
うつむくおれの膝に、父親が手を伸ばした。
しわだらけの手がズボンの生地を滑る。「温かいな」と父親は微笑した。
「当たり前だろ。病人と一緒にすんなよ」
「ちゃんと食べてるのか。仕事は順調か」
「だから病人と一緒にすんなってば……」
「そうだな。でも安心したよ。お前は今、立派にひとりで生きてる。父さんとは違う」
「病気してるからだろ」
「現在の話じゃない。お前くらいの歳の頃、父さんはひとりじゃ生きてゆけなかった。自力で光れない惑星みたいなものだった。溺れるように誰かの光に依存して、他人の注ぐ愛情を当てにして生きるしかなかった」
寂しそうな微笑が目に焼き付いて、おれの喉をわずかに詰まらせた。
多分、なんとなく分かってしまったから。
言葉にならない嗚咽の奥で、父親が誰に言及しようとしているのか。
「お前は揺るぎのない自己を持っている子だ。父さんとも母さんとも違うさ。ひとりになっても生きてゆける強さがある」
「……ないよ、そんなもん」
おれは父さんから目をそむけた。良心の呵責が直視を許さなかった。だらしなく鐘奈との営みに依存している人間が、孤独への耐性を持ち合わせているなんて噴飯物もいいところだ。本物の強さは、誰の身体も傷つけやしない。
「あるさ」
父親は大きな手で膝を撫でた。
「高校生の頃、熱心に小説を書いていたじゃないか。作家になるのが夢だったんだろう」
「なんでそれを……」
「親は子供が思うよりも子供を見てるものだ。夢の持つ原動力は計り知れない。人を強くするのはいつも憧れだ。なりたい理想を手にした者は決して死なないんだ」
「父さんだって仕事が夢だったんだろ。この十年間、仕事ばかり一途だったじゃないか」
隠し持ってきた爆弾が否応なしに炸裂して、ベッドの中の父親を直撃した。父親はわずかな動揺を目尻に滲ませて、首を振った。
「……違う」
「何が違うってんだ」
「向き合い方が分からなかったんだ。それで仕事に逃げてしまった。お前のことを考えなかったことなんて片時もない。けれども自信を持てなかったんだ。誰かを愛する営みの一切合切に」
「母さんを繋ぎ留められなかったから?」
苦しげに父親は目を閉じた。
「一人前になれば、お前も離れてゆくと思った。現実と向き合うのが怖かった。不甲斐ない話だ……」
煮えくり返る胃を、おれは必死に深呼吸で冷ました。黙って聞いていれば、さっきから自分の弱さを正当化するばかりじゃないか。だいいちおれが離れてゆくなんて誰が決めたんだ。おれを母さんと一緒にされてたまるか。息子や家庭をこれっぽっちも顧みることなく、勝手に不倫相手を作って出ていったようなやつと──。
「すまなかったな。あんな向き合い方しかできなくて。いつか謝りたいと思っていた」
息を漏らすように父親が痛ましく畳み掛ける。
訴えかけるように見開かれた瞳が潤んでいる。ふたたび譫妄が悪化すれば、この瞳も灰色に濁ってしまう。与えられたわずかな時間を逃がさぬとばかりに父親は必死に、真摯に、ぼやける一方の心をおれに投げかけようとしている。軋むほど握り固めていた拳が、その痛々しい面持ちを前にして力を失い、弛緩してゆく。おれが病室から遠ざかっていたあいだも、このあわれな父親はずっとこうして静かに祈りを捧げていたのだろうか。曖昧にとろけた意識の底で、なお冷めやらない熱をもって。
「……父さんの口座には手を付けてないのか」
おもむろに父親が尋ねた。おれは途方に暮れた気分のまま首肯した。手を付けていないばかりか、むしろ入院費の足しにと思って、少しずつアルバイトの稼ぎから入金している。
父親はかぶりを振った。
「自由に使いなさい。あの口座は家族のものだ」
「なに言ってんだよ。大事な治療費の原資だろ」
「将来にわたって活きる使い方をするべきだ。父さんはどのみち先も長くない。躍起になって治療費を確保する必要もない」
「そんなこと言うなよ」
思わずおれは身を乗り出していた。
「せっかくここまで闘ってきたんだろ。帰る場所だってちゃんとおれが守ってきたんだ。それなのに父さん自身が諦めてどうするってんだ……!」
唇がわなわなと震えて言葉を紡げなくなる。叫びそこねた本心が、胸の奥でどろどろと渦を巻いて銀河のように燃えた。いやだ。死なせるもんか。何のために父さんを見捨てないできたと思ってるんだ。何のために口座の金を温存して治療費を蓄えたと思ってるんだ。父さんをひとりぼっちにさせたくなかったからだ。ひとりぼっちになりたくなかったからだ。
「そうだな」
父親は静かに微笑した。それからそっと、視線を外した。窓の外を白っぽい冬空が染めている。
「まだ死ねない」
微笑の消えた瞳に、揺るぎない色の光が馴染んだ。
「まだ死にたくない。お前が立派に夢を叶えて大成するのを、なんとしても生きて見届けたい。それまでは、死ねない」
「いまさら夢なんて……」
「そう言ってくれるな。生き甲斐なんだよ」
すべてを見透かしたように父親は眉を傾けた。
「お前の晴れ姿を見るのが、たったひとつ残った父さんの夢なんだ」
ベッドに横たわった鐘奈が「ねぇ」と唇を尖らせた。
「なんかすっごい消化不良なんだけど」
「たまにはいいだろ。一回だけで終わらせたって」
気もそぞろに答えながら、おれはズボンを引っ張り上げた。
しんと寝室に静寂が染みた。秋も深まり、深夜の屋外が寒くなってきたので、おれと鐘奈の逢瀬はこのごろもっぱら我が家で行われていた。鐘奈は大概、おれが寝静まるのを待って家を抜け出しているようで、目を醒ます頃には彼女の姿は跡形もない。
「秋晴れが続いてたもんね。さすがに毎晩ヤり過ぎて飽きちゃった?」
「そうじゃないよ」
「だったらなんなの」
文句を言いながらも、鐘奈はだらしなく放置されていた下着を拾い上げる。無言のまま、おれも一足先に着替えを終えた。彼女の性欲の底なし加減にちょっぴり引いているのも事実なのだけれど、それを素直に口走るほどおれも子供じゃなかった。
部屋のなかは空箱や畳んでいない服で散らかっている。鐘奈が来るようになって以来、掃除も満足に行き届かなくなった。かろうじて元の秩序が維持されているのは勉強机だけ。その勉強机に一歩、一歩、忍び足で近寄ってみる。今年の春に自作小説を賞応募するとき、仕上げの推敲のために利用したのを最後に、この勉強机とも長らく疎遠が続いていた。
背後で鐘奈が「何してんの」と問うた。
おれは無言で机の引き出しを開けた。古びた印刷用紙やノート、ルーズリーフなんかが、所狭しと押し込まれている。
「プロット?」
いつの間にか隣へ来ていた鐘奈が、おれの取り出したルーズリーフを覗き込んだ。「そんなとこ」とつぶやいて、おれは書き込みまみれのルーズリーフを裏返した。両面とも、汚らしい走り書きの文字や図で埋め尽くされている。それはむかし、本気で小説家を夢見ていた頃、アイデア出しのために用意したメモの集合体だった。
おれが小説に注いだ情熱は本物だった。父親の残した本棚の小説はすべて読み漁り、それでも飽き足らずに図書館や本屋へ通っては既刊を読み、片っ端からインスピレーションを捕まえては文字に変えた。胸の内側に潜む矛盾も、葛藤も、小説として出力してみれば実に浅はかで単純な代物ばかりで、なんとかして物語に深みを与えようと思想の勉強にまで手を出したのを覚えている。
「すごい量」
紙の束を眺めながら鐘奈が唸る。
「ほんとに憧れてたんだ、小説家」
「父親が病に倒れた時点で一度は諦めた。でも去年、同い年の子が賞を獲ってプロ作家デビューしてさ。悔しくて発奮して、負けてられるかって思って、今年の春に一作だけ書き上げたんだ」
去年の秋頃、ひとりの作家がスターリング・ノベル新人賞で受賞を射止め、書籍化を果たした。当時おれと同じ十九歳だった女性作家、桜野さくら。もちろんPNだ。彼女との間に交流があったわけじゃない。ただ、同じだけの人生経験を積んだ子に追い越されたのが悔しくて、羨ましくて、おれは捨てたはずの憧れをふたたび手繰り寄せた。──もっとも、そうして書き上げた渾身の一作には三次選考落選の鉄槌が下されて、おれの夢はあえなく宇宙塵と化したのだけれど。
「隕石なんだね、この子たちは」
しみじみと鐘奈がつぶやいた。
「燃えて光っても誰の目にも留まらないまま、地上に落ちて砂に混じった流れ星の残骸。もうキンキンに冷えちゃって……」
相変わらず鐘奈の比喩の才覚には閉口する。こいつこそ将来は絵本作家か何かになるべきだ。とりとめのない思案をまばたきで振り払い、おれは汚いルーズリーフに視線を落とした。それこそ隕石を拾い上げるような感覚で。
いつものように鐘奈と抱き合っていたとき、何気ない拍子に勉強机が視界をよぎった。忘れていたつもりになっていた相原さんや父親の言葉が、その瞬間、怒涛の勢いで脳内へあふれ返った。よがり狂って蓄積された火照りの余韻はしばらく消えない。いまなら少しくらいは冷たい古傷にも触れられる気がして、触れなければならないような義務感に駆られて、鐘奈の手を振りほどいてベッドを出たのだった。
一枚、一枚、手書きのメモをめくってゆく。書き殴られた細かいネタやイメージ、設定なんかが、当時の熱量を保ったままにおれを見上げている。どれだけ紙をめくっても、往時の情熱のかけらが顔を出してぺかぺかと弾けた。小説家の卵だった数年間のうちにおれが積み上げた夢の貯金は、頑丈な勉強机の引き出しに守られて、そのきらめきを色あせることなく保っていた。
このホラー小説は、父親の入院で不安に包まれながら書いた物語。
こっちの恋愛小説は、アルバイト先でいじめられて泣きながら書いた物語。
それぞれに刻まれたメタ的な思い出が、幻灯のように姿を現しては消えて、そのたびにおれの心の姿があらわになる。真っ暗な宇宙の底でむかしのおれは燃えていた。たとえひとりぼっちでも、見果てぬ作家の夢を堂々と掲げて、つらい現実を切り裂くように夜空を駆ける流れ星だった。ああ、やっと分かった。ここにあるのは隕石じゃない。今もなお燃え尽きずに夜を駆ける流れ星のかけらだ。おれが夢のために費やした青春の残り香だ。二十一年間の半生のなかで、多分、おれが一番おれらしくいられた時間の痕跡なんだ。
くしゃり、とルーズリーフがよれて泣いた。
握りしめる手にも痺れが走って、おれはその場に立ち尽くした。
──『君の孤独はきっと大きな糧になる。だから、どうか創作を諦めないでほしい』
相原さんの真摯な願いが頬を叩く。
──『お前の晴れ姿を見るのが、たったひとつ残った父さんの夢なんだ』
父親の静かな祈りが胸を打つ。
「ねー。いつまでそんなもの見てんの」
下着姿の鐘奈がじゃれついてきて咎める。
「分かったよ。うるさいな」
おれはルーズリーフを元の場所へ押し込んだ。砕けた涙のかけらもついでに落として、顔を上げた。部屋の窓に夜空が滲んでいる。いつか鐘奈と二人で探した夜半の明星が、南の空にまばゆい点を穿っている。それもじきに、鐘奈に腕を引かれて視界の隅へ流れ去った。
木星は成功をもたらす幸運の星といわれる。
もしも、この胸の奥に、いつかの夢の残り火が小さな息吹を宿しているなら、おれはまだひとりで光れるのかな。鐘奈の手を借りずとも、ひとりで。
絡みついてくる鐘奈の冷えた身体を抱えながら、おれは口を結んだ。猫のように首筋へ吸いついた鐘奈が「んっ……」と唇を押し当てる。マーキングよろしく刻まれたキスマークから、じんと熱い痛みがほとばしった。
アルバイトの退勤は、シフト次第では深夜に及ぶ。おれの担務には品出しやレジ打ちだけじゃなく、月に数度、閉店後に行われる店内清掃への従事も含まれている。ポリッシャーと呼ばれる業務用大型洗浄機を持ち出して、汚れた床を洗剤で磨くのだ。一仕事を終える頃には閉店時刻の二十一時をオーバーする。
「ちゃんとワックス掛けは済んだ?」
バックヤードへ戻ってきたおれを、一足先に着替えていた和田先輩が問いただした。「大丈夫です」とおれは即答した。
「ドライワイパー掛けてからワックスを塗ってます。器具は元のところへ戻しました」
「OK。今さらだけど研磨の前にホコリは掃いたんだろうね?」
「もちろんです」
「ならいいや」
てきぱき着替えを終えた和田先輩は、カバンを携えて出てゆこうとする。そうしてふと、おれの前で足を止めた。グリップの効いた靴がキュッと鳴った。
「店長が言ってたよ。だいぶ仕事の手際が良くなったねって」
「そりゃどうも」
「本人に直接言えばいいのにな。ああ見えても不器用なタイプだからな、あの人も」
あんたもだろと皮肉を発しかけて、おれは慌てて口を閉じた。分かりやすく咳払いをした和田先輩が「あー」と唸り声を漏らした。
「その、なんだ。僕も最近の君には感心してるよ。ほとんど二度目の注意を受けなくなったし、ごく稀に僕より気を利かせている場面もあるようだし。やればできるんじゃないか」
不覚にも胸がきゅっと縮まって、おれは思うように皮肉を返せなかった。まさに虚を衝かれた。厳格極まりない目の前の先輩に、まともに誰かを褒める場面があるとは思いもよらなかった。
「……完璧じゃないですけど」
いつもの悪い癖で、つい遜ってしまう。カバンを抱え直した先輩が「まさか」と失笑した。
「僕だって完璧じゃない。店長クラスだって完璧じゃないさ。たとえ完璧なんてものが幻想に過ぎなくても、現状に不足を感じて努力を続けられる人間こそが最後に生き残るんだ。僕は常にそうありたいし、君にもそういう人間であってほしいと思うよ」
現状打破の主体は自分でなければならない。ストイックな和田先輩らしい考え方に、すっと舞い降りた納得感が胸に沁みる。しみじみと受け止めていると、不意に腕時計を見た先輩が「まずい!」と騒ぎだした。
「新宿行き特急を逃がしちまう」
「どっか行くんですか、今から」
「大学の図書館。調べ物が残ってるんだ」
和田先輩が検察官を目指す法学徒であることを、最近、本人の口から聞いた。法科大学院への進学の懸かった大事なテストを間近に控え、目下勉強に追われているという。仕事のできないおれの面倒を見ながら、その裏では限られた時間を懸命にやりくりしていたわけだ。法の世界に身を置く厳格な堅物のようでありながら、その実、素直になれないつっけんどんな性格の持ち主であることも分かった。得体が知れるにつれて当初のような恐ろしい心象も薄まり、おれのなかで今、和田先輩はようやく少し身近な存在に落ち着こうとしている。
急いで駅へ向かう先輩をバックヤードで見送ったおれは、灰色の天井を見上げながら深呼吸を済ませた。頑張ってください、とつぶやいてみる。慣れ親しんだ埃っぽい空気に、澄んだ胸の細胞が穏やかに馴染んだ。
退廃的な生活を一変することは難しい。だから、手の届く範囲から変えてゆくことに決めた。アルバイトにも本腰を入れられるようになったら、次は部屋の掃除を徹底して、鐘奈を迎え入れる時もゴミひとつ見せないように心がけた。唐突なおれの心変わりに鐘奈は戸惑い、「意外とマメなんだね」とまで放言した。彼女の褒め方は店長や和田先輩よりも輪をかけて不器用だった。
勉強机の片隅へ常備するようになった一冊の大学ノートも、たちまち鐘奈に見つかった。
「これ何?」
しきりに鐘奈が中身を気にかけるので、仕方なく見せてやった。ノートの中身は日記だった。日々の出来事や思い浮かんだよしなしごとを、脈絡もなく連ねただけの代物。市販の日記帳を使わなかったのは購入費をケチったからではなく、鐘奈に日記であることを悟られないためだったのだけれど、かくしておれの企みは呆気なく失敗に終わった。
「あたしのことも書いてあるじゃん」
「ほとんど毎日会ってるんだから当然だろ」
「ねーなに、この【相変わらずキスマークが下手】って! 信じらんない! せっかく頑張ってつけてあげてんのに!」
「別に鐘奈に見せるつもりで書いてないし……」
そもそもキスマークを刻むよう頼んだ覚えもない。ぶいぶい文句を言う鐘奈を追いやって、おれは日記を閉じた。よほど気にしたのか、その日の鐘奈は何度も首元にキスを重ねては、また失敗したといってむくれていた。
新たに始めた習慣はもうひとつ、鐘奈の目に届かないスマートフォンの中へも隠し持っていた。昨年サービス開始されたばかりの『Galaxy』とかいう新興SNSへのユーザー登録だ。ユーザーに加わると、さまざまなテーマやコンセプトを設定したトークルームにアクセスして、同一の話題を抱えている人と柔軟に出会って話せるようになる──というのが売りらしい。トークルームという名の星が広大な空間へ無数に点在する様はさながら銀河そのもので、その丸っこい絵本調のデザインやアプリ設計に心惹かれ、登録を決めた。
日記を始めたのは、ものを書く習慣を取り戻すため。SNSを始めたのは、同じ世界を生きる仲間の姿を探すため。その営みのすべてがただちに結果を結ぶとは思わない。小説家の夢をふたたび取り戻したわけでもない。それでも、たとえ一歩でも無理やりに踏み出せば、おれの未来の何かが変わると信じた。無邪気な夢追い人だった頃の情熱のかけらを、ほんの少しでも構わないから掴みたかった。
ユーザー名にペンネームを設定して始めたSNSでは、まもなく「咲」と名乗る一人のユーザーと親しくなった。同じ都内の郊外に住んでいるという彼女と、相互フォローを交わしてメッセージを交わした。彼女はおれの何倍も小説を量産していて、そのぶん大小の苦労も経験していた。おれも自分の話をした。経済的困窮から進学を諦め、生計を立てるためのアルバイトで毎日を消耗していること。執筆活動からも遠ざかって久しいこと。
【きっととても強い物語を書くんですね】
【萬里さんの書く作品、私も見てみたいな】
画面の向こうで彼女の口にした言葉は、いつか相原さんに投げかけられた励ましの言葉にも似ていた。
今日は抱きたくないと正直に申し出ると、「えー」と鐘奈は露骨に不愉快な顔をした。
「クタクタなんだよ。ゆっくり星でも見てたい。たまにはそんな日があったっていいだろ」
「たまにならあってもいいけどさ、ここのところずっとそんな調子じゃん。やっぱり飽きたの? EDにでもなったの?」
「女の子がEDなんて言葉使うなよ。飽きてないし身体も健康だよ」
むぅと頬を膨らませながらも、鐘奈は大人しくおれの隣へ寝転んだ。丘の上の宇宙桜が穏やかにそよぐ。草いきれの匂いが鼻腔に溜まって華やぐ。夜九時の丘からは、澄んだ夜空の下で眠る街を一望できた。
逢瀬の場所がもっぱら自宅になった今も、おれたちは変わらずゆうひの丘で待ち合わせていた。おれがひとりで丘に寝転んでいると、どこからか現れた鐘奈が声をかけてきて落ち合う。そうして丘を降り、家へ向かうという寸法だ。おかげでこの数か月間、星を眺める毎晩の習慣とも御無沙汰していた。
秋の最中、山羊座の端に陣取って煌々と輝いていた木星は、いまは山羊座と水瓶座の狭間に陣を移しつつある。季節の移ろいに従って見える位置や時刻も変わり、ゆくゆくは太陽と同じ方向になって見えなくなる。ふたたび見え始めるのは来年の四月ごろで、そのときには深夜ではなく、明け方の空に浮かぶようになるらしい。
あの星を見つけると勇気が湧いてくる。誰にも愛されないあたしのこと、あの星だけは見放さずに守ってくれている気がする。──いつか、鐘奈はそんな言葉で、木星への親愛を表現していたっけ。
「寒くない?」
隣で鐘奈の声がした。
見ると、彼女はコートに身をくるんで、蓑虫よろしく縮こまっていた。
「やっぱ家に入ろうよ。凍えそうだよ」
「なんでもっと着込まないんだよ」
「こんなに寒くなると思ってなかったもん。それにあたし、服あんまり持ってない」
ぶるる、と鐘奈が身体を震わせる。仕方ないのでコートを脱いで、そっと彼女にかぶせてやった。「あんま変わんないよ」と鐘奈は文句を垂れた。
「ぎゅってしてよ。そのくらいいいじゃん。裸になるわけじゃないし」
嘆息して、おれは腕を伸ばした。転がり込んできた鐘奈が腕の中に収まる。やけに冷えた彼女の身体に肌が驚いて、思わず総毛立つ。「あったかい」と腕の中で鐘奈が吐息を膨らませた。
「ねぇ」
「うん」
「ずっとこうしていたい」
「……うん」
おれはちょっぴり腕に力を込めた。
乾いた風が耳元で舞い上がる。揺れる草花の向こうに市街地の夜景が映った。駅前に林立する高層ビルやショッピングセンター、丘に貼り付くようにしてひしめくマンションや戸建て住宅、山間を縫って巡る幹線道路、大きな川を渡ってゆく私鉄の線路。点々と連なる灯火のひとつひとつに誰かの帰る場所があって、誰かの生きる物語がある。鐘奈を胸に押し込めたまま、しばらく街を眺めていた。空気の澄んでいるせいだろうか。無数の華やかな営為を照らし出す都市夜景が、今夜はずいぶん温かに、色彩豊かに網膜を照らしていた。
「きれいだね、星」
胸に顔を埋めたまま鐘奈が言う。
「星なんて見えてないだろ」
「ちっとも見えないよ。でも、感じる」
「自分のこと慰めてくれてる……って?」
むかし鐘奈の口にした台詞を反芻したら、彼女は「意地悪」と声色を下げた。
「ねぇ、不思議な話だよね。木星も、火星も、金星も、本当はちっとも自力じゃ光れないのに、どんな恒星よりも明るく燃えて見えるんだから」
「見せかけと中身は違うってことだろ」
「いいよね、恒星は。誰に頼らなくても光り輝いて生きてゆける。惑う者は逆立ちしたって自力じゃ光れないのに」
「外に出ると急に宇宙の話を始めるよな、鐘奈」
「だって他に話すこともないじゃん。星しか見えないんだし」
すう、と鐘奈が息を澄ませる。だから星なんて見えてないくせに。彼女の丸い背中に手のひらを這わせながら、おれは高い空に目を移した。いつしか木星は西の稜線に沈みつつあった。
茶化さなければよかったかな、と思う。
このごろおれは薄々と勘付きつつあった。
鐘奈が真摯な眼差しで空を指差し、星々への親近感を強調するたび、言葉選びの裏へ見え隠れする静かな洞の存在に。
──『誰にも愛されないあたしのこと、あの星だけは神様みたいに優しく見守ってくれてる』
──『どんな悪事を働いたって、星があたしたちを見放さないよ』
──『惑う者は逆立ちしたって自力じゃ光れないのに』
たぶんそれは彼女にとっても無意識のことだ。浮かび上がる闇の底は暗黒星雲のように真っ黒で、いまのおれには深みまで手が届かない。けれどもその途方もない深みは、それが単なる思い付きの擬人化ではないことを同時に証明してくれる。もしかするとあるいは、素の鐘奈が決して明かすことのできない本物の苦しみや悲しみや祈りを、巡る星々に仮託して表現するための媒体なのじゃないか。
「鐘奈」
名前を呼ぶと鐘奈が顔を上げた。
「鐘奈の夢って、何だったんだろうな」
なるたけ刺激を弱めたつもりで、おれは尋ねた。
夢の持つ原動力は計り知れない。人を強くするのはいつも憧れだ──。父親のくれた示唆が胸をちらついて、夜風にあおられて光を強めた。
「急に何?」
「忘れちゃったって言ってたのがずっと引っ掛かってたんだ」
「言ったけど……」
「おれ、ずっと鐘奈と同じなんだと思ってた。諦めたふりして夢を捨て去って、温もりの途絶えた宇宙をひとりで漂ってるんだと思ってた。だけどそうじゃなかった。目指したものの痕跡はいまもすぐそばにあった。多分、おれはただ目をつぶって逃げてただけで、夢を忘れることなんて出来やしなかったんだと思う」
「…………」
「なぁ、鐘奈。本当に何も覚えていないのかよ。むかしの鐘奈が何を願って、何を祈って、命を懸けてきたのか……。それが分かればおれも鐘奈も、いつか恒星みたいに光り輝けるかもしれないじゃないか。誰かの力を借りなくても生きられるかもしれないじゃないか」
教えてくれよ。
鐘奈が望むのは、そういう結末じゃないのか。
言葉にならない畳み掛けが、白い呼気に化けて口元を漂う。鐘奈が胸の中で深呼吸をした。
「忘れた」
くぐもった声だった。
くぐもっていたけれども、そこには追及を許さない気迫がみなぎっていた。
「なにもかも忘れたし、思い出したくもない。それに……」
「それに?」
「……思い出しても、たぶん、叶わないから」
締め付ける腕の力が強くなった。底冷えのする声色に、ふたたびおれは鳥肌を立てた。鐘奈の顔は相変わらず胸に埋まっていて見えない。見えないけれどもきっと、恐ろしく寂しい、恐ろしく残酷な表情を浮かべている。彼女は今、たぶんというありふれた推量表現を、断定を婉曲で誤魔化すために使った。
「思い出そうと思えばできるんだな」
問いただしたが、返事はなかった。
それっきりおれたちは別れの瞬間まで言葉を交わさなかった。暗闇の底で固く抱き合ったまま、四肢に滲みる深夜の静けさに耳を澄ませていた。木星の消えた暗い空をささやかな星影がちらつく。鐘奈は寒さに身体を震わせ、とうとう最後までおれの身体を自発的に離さなかった。
『Galaxy』で知り合った女性ユーザーとの交流は続いていた。深夜までやり取りを交わした挙げ句、話し足りないですねと笑い合ったあたりで、オフ会を開く流れが自然に生まれた。さいわいアルバイトのおれは、交代要員の目途さえ立てられれば自在にシフトを休める。先方の都合を尋ねると、彼女はおずおずと訊き返してきた。
【イブの夜って暇ですか】
同居人がデートで留守にしているので予定が空いたのだという。要するに他意はないわけで、少なからず胸を撫で下ろしながら【空けられますよ】と返答した。残念ながら初対面の異性に舞い上がれるほど、おれは純真無垢でも無警戒でもない。それでもちょっぴり心が躍ったのは秘密だ。
二十四日の午後七時、JR武蔵境駅の中央改札前。
彼女の暮らす遠くの街へ、片道三十分の電車に揺られて赴くことになった。
イブの夜は思いがけない快晴に恵まれた。コートを羽織り、玄関を出て鍵を回すと、しんと澄んだ都会の寒さが鼻にしみた。何気なく見上げた空を点々と星が覆っている。おれはコートの前を掴んで、川べりの道を足早に最寄り駅へ向かった。きらびやかなイルミネーションがおれをかどわかすように微笑む。サンタクロースの扮装をした店員がショッピングビルの前でケーキを売り捌いている。賑わう街の雑踏を忌み嫌うように、まばゆい木星は早くも多摩丘陵の山並みへ隠れつつあった。
「なんだか緊張しますね」
照れ臭げに彼女はショートボブの髪を掻いた。手元に置かれた紙コップのカフェモカが柔らかに湯気を立てている。ポインセチア柄に彩られたクリスマス仕様のコップを握り、唇を尖らせて液面を冷ます彼女を、おれはちょっぴり落ち着かない心境で見つめた。
PN、桜野さくら。
本名は関前咲良。
かつておれの憧れを強く煽り立てた同い年の女子作家は、なんとSNSで偶然に知り合ったユーザー「咲」その人だった。
なにか話しかけるきっかけが欲しくて、「素敵なカフェですね」と周囲を不器用に見回した。白塗りの高い天井に無数の歓談が反響している。彼女の選んだカフェは駅前公共施設の館内に居を構えていて、併設する市立図書館の雑誌も持ち込んで読めるらしい。図書館自体も広々としていて、イブにもかかわらず人出が絶えない。弱冠十九歳の作家を生み出した街の文化資本は侮れない。
「でしょう? 私、ここすっごく愛用してて。NOVAって店名もお洒落で素敵だし」
「駅前集合だったのもここへ来るために?」
「あ、それは違くて……。実はさっきまで大学のある国立に出かけてたんです」
「大学ってこんな時間まで授業あるんですね」
「五講目までしかないんですけどね。ひとつの授業が一時間半もあるので」
「たしか文学部だったですよね。いいな、通ってみたかったな」
何気なく口走った愚痴を、彼女はずいぶん重たい意味に捉えたらしい。「えと」と彼女は広げた手を振り回した。
「なんかごめんなさい。……大学、お金の都合で通えなかったんですよね」
「本当は奨学金でも申請すれば通えたのかもしれないけど、なんか、そこまでする気力が湧かなかったんです。あの頃はおれ、目の前の状況しか見えてなくて、必死だったから」
おれは肩をすくめた。本当は今だって見えていやしないのだけれど、当時と比べれば少しくらい、置かれた現状を客観視できるようになったと思う。
「じつは私も奨学金で通ってるんです」
咲さんもおれにならって肩をすくめた。
「両親を交通事故で亡くしちゃって。祖父母の援助は受けてるんですけど、とっくに現役は退いてるから、いつまでも養われるわけにはいかないし。なので、いまは給付型の奨学金を受け取りながらアルバイトして、わずかな印税と合わせて家計をやりくりしてる状態です」
「そういえば同居人がいるって聞きましたけど」
「まだ高校生なんです。四つも年下だから、頼る側には回りたくなくて」
うつむいた咲さんの瞳に、カフェモカの鈍い金色がちらちらと揺れる。わずか十九歳にしてプロ作家デビューを果たした傑物、などと形容すれば華々しく響くけれども、人の全容は表面上の経歴じゃ語れない。彼女も彼女なりに、おれの知らない苦節を経験してきたのだ。
「正直、執筆に時間を割かなきゃいけないからアルバイトのシフトにもあまり入れなくて、そのぶん生活もジリ貧で。担当編集さんに『いまの苦労が君の糧になる』って何度も励まされて、なんとか作家を続けられてます」
へへ、と彼女は頼りなく笑った。
聞き覚えのあるフレーズに脳幹が反応して、おれは身を乗り出した。
「その担当編集、もしかして相原とかいう……」
「な、なんでご存知なんですか」
「おれも声掛けを受けたんです。今年のスタノベ新人賞に出した作品が相原さんの目に留まったみたいで、話を聞きたいって言われて。おんなじような手口の勧誘を受けたなーって思ったから」
「それじゃ私たち、仲間ですね」
咲さんの顔が静かに華やぐ。
たちまち、ささくれみたいな気後れの痛みが走って、おれは手元の紙コップに残っていたドリップコーヒーを一気飲みした。痰といっしょに絡め取られた心の毒が、胃の中でか弱い叫び声を上げた。
仲間だなんて。
苦境を乗り越えて夢を叶えたあなたと、苦境から逃げたおれを同列に扱えるもんか。
けれどもおれは、情けない過去の自分を断罪するためにここへ来たのではなかった。
「……おれ」
居住まいを正して、おれは咲さんをまっすぐに見つめた。
「咲さんに──桜野さくらに、ずっと憧れてたんです。あなたに追いつきたかった。ひとりぼっちで夢を追いかける苦しみを脱したかった。おれと同じ夢を一足先に叶えてみせた咲さんは、見失いそうな夢の方角を教えてくれた北極星の灯りなんです。大袈裟な話に聞こえるだろうけど……」
「私が、萬里さんの?」
「本当はいまも筆を折りたくない。だけど勇気が出ないんです。夢を失う痛みなんて一度で十分です。読者の支持を得て大成する作家なんてほんの一握り、おまけに転落した先の生活は誰も保証しちゃくれない。三次選考までは突破経験があるだなんて言っても、誰かの一番を射止められなかったことに違いないし……」
「…………」
「心細くてたまらないんです。今度また失敗すれば、今度こそ本当に夢を失ってしまう気がする。そうなったら生きてゆける自信がない。それでもおれ、夢を目指していいと思いますか。咲さんたちの輝く世界をもう一度、全力で夢見てもいいと思いますか。すべてを燃やし尽くしてでも挑むべきだと思いますか」
つたない言葉で訴えかけたおれを咲さんは見つめ返した。
瞳のなかに宿るひとつふたつの星が、ゆらりと震えて、大きくなった。
「……心細いのは私も同じだからなぁ」
縮こまりながら咲さんは口角を上げた。自嘲の笑みにしては、頬に乗った色が明るかった。
「物書きって毎日、毎日、自分との戦いです。どうしても進まなくなって同居相手の子に泣きついたこともあるくらい。だけど、そうやって死ぬ気で格闘した人の書く物語って、ものすごい強さを秘めてる。そして、その強さはいつかどこかで必ず、誰かを支える力になるはずだと思います。ぼろぼろの筆で書いた私の作品でも、目の前のあなたの支えになれたみたいに」
「おれの物語が、誰かの支えに……」
「現に相原さんの心も動かしてみせたでしょ?」
おれは恐々とうなずいた。
「誰も知らない誰かの物語を紡ぐ楽しさって、未知の星を望遠鏡で見つけたみたいな切ない心地よさに似てる。そうやって見つけた星をお互い教え合ってゆけば、いつか無限の夜空も怖くなくなると思うんです。だから、もしも萬里さんの志がまだ折れていないのなら、一緒に星を見つけて、夜空を明るくして、誰かのことを支え合ってみたいなって、私は思いますよ。無理強いすることはできないけど」
賑わいを増すカフェの一角にあっても彼女の声は減衰することなく、揺るぎのない芯をもっておれのなかに響き渡った。おれは一瞬、咲さんに見とれた。むかしのことを思い出した。両親が離婚して、不意に開いた心の大穴を吹き抜ける風に痛み悶えていた時、手に取った無数の小説に魅入られて、貪るように読み漁ったことを。
小説を書くようになったのは、あのとき惨めなおれを救ってくれた星明かりを、みずからの手で生み出したいと考えたからだった。おれはおれ自身を救いたかった。誰にも見向きのされない自分の心と向き合って、おぼつかない対話を試みたかった。その動機は今も変わらない。そして、これからはその末尾に一行の附記が加えられる。
おれの紡ぐ物語は、誰かの心を照らす星明かりになれる可能性を秘めている。
だとしたらおれは、誰の心を照らしたい?
誰の人生を明るい方向へ導きたい?
その答えが定まったとき、おれはふたたび書けるようになれる。そうだ、きっとなれるんだ。確信めいた未来展望が胸の奥で揺れた。じんと足元から這い上がってきた微かな震えが、居ても立っても居られないほどのエネルギーを身体に蓄えてゆく。
「……腹、減りませんか。追加でケーキでも頼もうかなって思ったんですけど」
目尻に滲んだ万感を誤魔化したくて、強引に話題を変えた。空気を読んだ胃が無言で疼いた。
「そうですね。クリスマスですもんね」
「おれが出しますよ。お礼もしたいし」
「じゃあ、次は私が奢りますね」
咲さんがようやく屈託ない笑みを覗かせた。
夜が更けるにつれて風は強まった。吹き荒ぶビル風にあおられ、騒々しくさざめく街路樹の足元を抜けながら、おれは曲がりくねった道の先に浮かぶ丘を見上げた。
深夜十一時。
木星はとうの昔に西の果てへ沈んでいる。
今夜、どうしても鐘奈と会っておきたかった。くたびれた足を叱咤してアスファルトを蹴り、ウッドチップの敷き詰められた急階段を登り歩く。木々の連なりがほどけ、濃紺色の空がおれを照らし出す。しんと沈み込むような冷気の漂うゆうひの丘に、そのとき、にわかに人の気配を感じた。
「……遅い」
鐘奈の低い声がおれを控えめに非難した。
「あたしのことなんて忘れちゃったのかと思った」
宇宙桜の袂の暗がりに彼女がいた。鐘奈にしては珍しく、その言葉尻にはとげとげしい本心が顔を覗かせている。「悪い」と断って、おれは丘の上まで登り切った。いつものプルオーバーをかぶり、ブルゾンを羽織った鐘奈は、荒れる夜風のなかでまっすぐにおれを見つめていた。
「いつもみたいにじゃれついてこないんだな」
「あんまり遅いから拗ねてるだけですけど」
「ごめん。大事な用事があったんだ」
「そんなのあんたの顔を見れば分かるよ」
慣れない「あんた」呼ばわりに脳が混乱した。ずいぶん久しぶりの気がする。二人で過ごした毎晩の記憶を無邪気に巻き戻しかけて、いや、とおれはフィルムを止めた。くだらない感傷に浸るだけならいつでもできる。もっと大事な用事を、もしかするとアルバイトやオフ会より大事かもしれない用事を抱えて、こうして丘の上まで登ってきたのだから。
「鐘奈」
おれもまっすぐに鐘奈を見つめ返した。
鐘奈は身じろぎをして「何」と問い返した。
「やめよう。もう、この関係」
気の迷いを生じないように、おれは言い切った。凍てついた冬風はおれの声を乗せて、立ち尽くす鐘奈に正面から吹き寄せた。
「セフレ、やめるってこと」
鐘奈の声がわずかな動揺をはらんだ。
「会うのをやめたいとは思ってない。たまにはその……そういうことをしてもいいとは思うけど。でもやっぱりおれ、お前のこと、そういう存在として消費し続けたくない。もっと普通の関係になりたい。一緒に遊びたいし、色んなところへ出掛けたいし、出会った頃みたいに星空を眺めたい」
「…………」
「おれ自身も身の振り方を考えようと思ってる。いつまでもアルバイト続けるんじゃなくて、いつかは金を貯めて大学に行きたい。もっと安定してる仕事に就きたいし、趣味にも力を入れられたらなって思ってる。だから、鐘奈にも……」
なくした夢を見捨ててほしくない。
その一言を発する勇気を搾り切れず、おれの説得は竜頭蛇尾にしぼんだ。以前の鐘奈が見せた、夢という単語への強い拒否反応を、脳が無意識に想起して怯えてしまった。
どうか、ただ身体の交わりを辞めるだけの決意でないことが伝わってほしい。セックスが悪いだなんて言わない。おれと鐘奈の身体の相性が悪かったとも思わない。そうじゃない。そうじゃないんだ。積み上げた負債を快楽で燃やし尽くすだけの退廃的な関係じゃ、おれも鐘奈も前には進めない。おれたちはいつまでも夜の住人のままではいられないのだ。
相原さんや咲さんと出会い、和田先輩に認められ、父親に背中を押されて、いま、おれはようやく負の公転軌道を抜け出そうとしている。その恩寵を鐘奈にも分けたかった。鐘奈が今、夢を失い、生きる気力をなくして塞ぎ込んでいるなら、隣り合って足を結んで二人三脚で歩めるような、そんな当たり前の存在になりたい。おれの頼りない息吹で、死んだ鐘奈の夢に少しでも火を吹き込んで熱を与えたい。そのためなら何でもしてみせる。捨てた夢を拾い上げる覚悟だって決めてみせる。おれの持ち合わせるすべてを懸けて鐘奈の幸せを願う。
もしも、この境地を愛と呼ぶなら。
愛のある関係を望むと叫んだなら。
いまの鐘奈には重荷になってしまうのかな。
なぁ、鐘奈。そうなのかよ。そんなことないって言ってくれよ。いつもの熱っぽいまなざしで──。
鐘奈の視線は痛々しいほど静かに、おれの胸にだけ集中的に注がれていた。やがて、肩の力を少し抜いて、背中を丸めて、彼女は「そっか」と吐息をついた。
「それがあんたの望みなんだね」
頑なにおれの名前を呼んではくれない。背筋の冷える予感が、おれの肌をざらりと舐める。
「ダメか」
「ダメだなんて言わないよ。あんたが自分勝手に、自分を大事にして考えた結果なら、それがきっとあんたをいちばん幸せにする道なんだね。あたしなんかがそれを否定できるわけない」
「鐘奈の本意じゃないって言いたいのかよ」
「賛同はできないや」
「……どうして」
「あんたがどれだけ頑張ってくれても、あたしのことは救えない。あたしの夢は叶わない。それだけは絶対に断言できるから」
鐘奈の目が光を弱めた。譫妄に侵され、自我の境界線を見失った父親のように、つぶらな瞳が濁りを深めてゆく。不気味な音を立てて風が吹き寄せる。張り出すようにして現れた分厚い雲が、かすかな星空を片っ端から覆い始めた。
淀んでゆく空の下で「あのね」と鐘奈は顔を歪めた。
「あたし、本当は何もかも覚えてるんだ」
おれの身体は足元から凍り付いた。
「むかしのあたしが何者で、何を願って、何を望んで行動に移したか。ぜんぶぜんぶ覚えてるけど、もう、昔のようには戻れないの。そういう約束を神様と交わしたの」
「なんだよ、神様って」
「なんだろうね。あたしにも分かんない」
「それじゃ……」
「察してよ。理解してよ。あたしはあんたと同じ世界の住人じゃないの。もう、あんたみたいに夢を語れないの。泣いても叫んでもどうにもならないの」
語気は鋭くなる一方なのに、鐘奈の繰り返す説明はまったくの支離滅裂だ。あるいは初めから理解させる気などないのかもしれない。耐えかねたおれは鐘奈の言葉を遮り、わめくように「だったら教えてくれよ」と問い返した。もはや痛ましく歪んだ鐘奈の顔を直視するのも限界だった。
「鐘奈は今、どうしたいんだよ。おれとこのまま今の関係を続けていきたいのかよ。行き着く先に何もない、麻薬で痛みを和らげるだけの緩和ケアみたいな生き方を──」
「本当はそうしたかった。でも、それも無理そうだから」
鐘奈は最後まで結論を言わなかった。
ごうと吹き荒れた突風が、足元からおれをすくいあげた。バランスを崩したおれの胸元に鐘奈が飛び込んできた。後頭部に衝撃が走る。目から散った星が、覆いかぶさるようにしておれにまたがった鐘奈の顔を照らし出す。青ざめた唇を尖らせて鐘奈はおれの首に噛みつき、ぎゅうと力を込めて肌を吸った。おれは息を詰まらせて声も出せなかった。確かに推察できたのは、おれの渾身の説得が鐘奈に届かなかったという、嫌になるほど単調な現実だけ。
すべてが失望と悲嘆の渦に呑まれてゆく。
反転した街の夜景がぼやけて色あせる。
地に堕ちた無数の星屑が弾けて消える。
北風にあおられた桜が悲鳴を上げる。
絶対零度の宇宙の底で、鐘奈は笑っていた。
「ごめんね。こんなはずじゃなかったのに」
氷のような涙が頬に弾けた。
「あたし、ただ、あんたに求められたかったの。それだけなの」
──ふっと焦点の合った目が、吊り下がった照明器具を映してふたたびぼやけた。
おれは外出時の格好のまま自室のベッドに倒れ込んでいた。
痛む頭を振り、上体を起こしてあたりを見回した。勉強机の上のデジタル時計が、十二月二十五日の早朝を示している。昨日、SNSで知り合った咲さんとのオフ会から、まっすぐ家に帰ってきたことまでは覚えている。おおかた着替える前に力尽きて、ベッドの上で眠りに落ちたのだろう。
イブの晩のシフトを休んだ代わりに、今日はアルバイトを入れている。みっともない姿を職場で晒すまいと、ひとまずシャワーを浴びに行った。首元には見覚えのないあざが赤黒く焼き付いていて、なんべんタオルで擦っても落とせなかった。気味の悪さにすくみながらも身体を拭き、もとの自室へ戻った。思いがけない早起きのおかげで、出勤までには三時間ほどの余裕があった。
勉強机の上には一冊の大学ノートが伏せてある。何かのきっかけでふたたび小説家を夢見て以来、執筆の習慣をつけるべく書き始めた日記だ。いくら倹約のためとはいえ、余っていたノートを適当に使用するあたりがおれらしい。どうせ昨日の出来事も書き忘れているのだろうな。深く考えずにノートを取り、中身を開いたおれは、絶句して立ちすくんだ。
日記の文面は姿を消していた。
代わりにそこにはびっしりと理解不能な記号や図が、隅から隅まで丹念に描き込まれている。
不可思議な図形を成すように交差する、長さも太さもまちまちの線分。心電図を思わせるギザギザの連なり。ビル街を上から見たような細密な図形の集まり。三角や丸を合わせた記号の交わり。象形文字らしき図画までも散見される。それらはどれも一定の秩序をもって、印刷された罫線の上へ律儀に並んでいる。
なんなんだ。
誰の書いたものなんだ。
おれが書いたのか。この得体の知れないものを、おれが、おれ自身の手で──。
わっと鳥肌が立って、おれはノートを投げ出した。それから勇気を起こして、二度と目に入れないよう丸めてゴミ箱に突っ込んだ。総毛だった身体の震えは収まらない。朝っぱらから気味の悪いことばかりが続いている。どうか仕事の方は平穏無事に終わってくれと、夜明け前の街を窓の外に望みながら祈った。
イブの喧騒も落ち着いて、街はくたびれたように安息の土曜日を味わっていた。勤め先のスーパーでは早くもクリスマスから年末年始商戦に焦点を移して、おれたちアルバイトスタッフは店内の模様替えに慌ただしく追われた。鮮やかな赤と緑で店頭を彩っていたモールやクリスマスツリーは、わずか一晩で正月飾りや門松へ置き換えられた。
「余韻も風情もあったもんじゃない。神様とやらはどんな思いで地上を見てるだろうな」
誰にともなく和田先輩が皮肉を口ずさんでいた。「人間になんて興味も持たないんじゃないですか」と応じたら、先輩は肩をすくめていたっけ。
「人間の営みなんて、偉大な自然にしてみればおままごとみたいなものかもね。何百年も立ち続ける木々、何千年も生きる海綿動物、何十億年も前から存在する惑星や衛星……。この世は人類の叡智じゃ理解できない八百万の神々であふれてる」
八百万の神々か。星座早見表なんか有象無象の神様だらけだもんな。くすぐったい心持ちを隠したまま、おれは先輩の背中を追って仕事へ戻った。
昨日のオフ会で思いがけず、咲さんの通学先が先輩と同じ国立大学であることを知った。もっとも学部は違うし、おそらくは互いに面識もない。一三〇〇万人もの人々を抱える東京であっても世間というのは意外に狭いもので、こんな具合に知り合いや縁のある同士を線で繋げてゆくと、やがて地図の上には壮大な星座が無数に姿を現す。
つい先日までのおれは、困窮に追い詰められて余裕を失い、誰とも手を結ぶことなく独りで宇宙を漂う孤星だった。誤解されがちだが、星ひとつでも星座は作れる。たとえば全天中でもっとも明るいおおいぬ座のシリウスは、中国では単独で「天狼」という星座として扱われる。それでもやっぱり星座は構成する星が多いほど美しく、華やかで、バックグラウンドの物語も豊かになるものだ。
「……アルファルドだ」
夕刻の帰り道、ふと見上げた夜空に橙色のまたたきを見つけて、何気ない声が漏れた。南の空を占領するように横たわる海蛇座の中で、冬の大三角に近い右側に位置する二等星だ。周囲に明るい星が少ないことから、アラビア語で「孤独な者」を意味する名前が与えられたといわれる。むかし、一緒に望遠鏡を担いで丘へ登っていた頃、父親に授けられた天文知識のひとつだった。
たとえひとりぼっちに見えても、アルファルドは本物の孤星じゃない。見えにくいところに人の輪があって、それらがひとつの神話で結びついている。シリウスも、プロキオンも、ベテルギウスやリゲルもそうだ。星座という物語の中に、みんな帰る場所を持っている。
おれだって同じだ。
深呼吸をして、彼方へと続く日暮れ空に目を凝らした。
西の果てに消えゆく金色の星が視界をよぎった。その方角とあざやかな明るさが、木星であることを如実に示していた。
単独でも星座になれないのは月や太陽、そして惑星だけだ。一定の形状の星座を保つことが難しいほど、天球上の惑星の位置関係は不規則に変わる。それゆえにギリシア語で「惑う者」と呼ばれ、それがのちに惑星を意味する英語のPlanetになった。肉眼で観測できない天王星や海王星はおろか、あんなにも明るい木星や火星、金星でさえ、帰るべき場所を持たず、ひとりぼっちで広大な夜空を惑い続けている。
心細いだろうにな。
果てのない空を見上げて、底の知れない寒さに凍えて、それでもなお、彼女たちは微笑んでいるのだろうか。ちっぽけなおれたちの悪あがきを見守るように──。
──『あの星を見つけると勇気が湧いてくる』
おれは立ち止まった。
頭蓋骨を突き抜けて響いた声が、街角に発散してゆく。まるっきり聞き覚えのない声だった。覚えはないのに、膨れ上がった既視感で脳がたちどころにキリキリと痛み始めた。
──『誰にも愛されないあたしのこと、あの星だけは神様みたいに優しく見守ってくれてる気がする』
──『だから、好き』
──『あんたになら分かってもらえる気がしたのにな』
ひとけのない夜道に声だけが余韻を残して消える。おれは息を呑んだまま、おぼつかないまなざしで周囲を見回した。声の主は見当たらないのに、耳に残った余韻が痛んで消えない。まるで記憶をつかさどる細胞を侵して染みついたガンのように、見知らぬ声の持ち主はおれの頭を締め付ける。
違う。
これは記憶じゃない。
おれのなかで誰かが叫んでいる。
どうかこの声を書き遺してよ、あたしをひとりぼっちにしないでよ、といって……。
そのとき胸に走った得も言われぬ切迫感は、それまでの薄気味悪さも一息に蹴散らして、ひとつの強烈な衝動を生んだ。おれは大急ぎで川べりの道を駆け抜けた。自室にカバンを投げ捨て、ゴミ箱へ手を突っ込み、今朝がた捨てたばかりのノートを引っ張り出した。なんの根拠もないのに、あの大学ノートと彼女の叫ぶ言葉が無関係のように思われなかった。
──『夢なんてないや。持ってた時期もあったけど、なくしちゃった』
──『燃え残りなんかじゃないってこと、あたしが教えてあげる』
──『どんな悪事を働いたって、星があたしたちを見放さないよ』
──『隕石なんだね、この子たちは。もうキンキンに冷えちゃって』
──『惑う者は逆立ちしたって自力じゃ光れないのに』
実体を持たない声が次々に浮かんできては弾ける。おれはノートを広げた。打ち上げ花火のように航跡を刻む台詞たちと、不可思議の極まる記号たちの羅列が、たちまち爆発的な勢いで頭の中にアイデアやシーンを並べ立て、制御不能なタイプライターのようにひとつの物語を紡ぎ始めた。
こんなにも強い衝動に駆られたのは初めてだ。
スタノベ新人賞に出した『阿修羅の春』の比じゃない。この物語の秘めるパワーは、熱さは、書き方ひとつでとんでもないものになる。いてもたってもいられず、おれは部屋の隅でほこりをかぶっていたノートパソコンを開いた。起動を待つ間に白紙のルーズリーフを幾枚も引っ張り出し、シャープペンシルの芯を伸ばして、浮かんだアイデアを片っ端から書き起こした。度を越した衝動は胸の鼓動をも高め、全身の血を煮えたぎらせてゆく。それはもはや衝動ですらなかった。計り知れない熱を持った決意だった。使命感とさえ呼べそうだった。
線分、グラフ、図形、記号。読解不能の不気味な落書きが、有機的な意味を持って轟々と燃え上がる。赤く照らし出された脳裏の天球上で、脈絡のない知識が次から次へと星座線で結びついて輝きを放つ。占星術における各惑星の役割。輪廻転生のように誕生と死を繰り返す、恒星や惑星の形成メカニズム。惑星という単語の原義、由来。全天中で唯一、星座を形成することのできない惑星の特異性──。
おれは夢中でペンを走らせた。執筆速度をはるかに上回る勢いであふれ返った感情が、透き通ったしずくをなして結露して目頭からこぼれ、机の隅に染みを描く。ああ、涙が止まらない。胸の中で泣き叫ぶ声が止まない。否応なしに惹起された感情移入で、胸が詰まってはちきれそうだ。けれどもおれは物書きだ。この悲痛を何としても言葉に変えて、余すことなく原稿にぶつけてみせる。それが物書きの矜持だ。胸の中の見知らぬ彼女を救う、たったひとつの方法なんだ。
おれは時間を忘れて書き続けた。
役目を終えたといわんばかりに、木星は山の端へ消えていった。
第三十五回スターリング・ノベル新人賞。
大衆文芸作家の登竜門と称される同賞で、おれの応募作品は受賞作に選ばれた。
題は『プラネテスの輪廻』。作品はスターリング・ノベルの十一月号に掲載され、おれは二百万円もの賞金とともにプロ作家デビューを果たすこととなった。
書籍化にあたり内容の再検討を行う運びになり、おれはふたたび千代田区の星雲館本社へ呼び出された。相原さんと会うのは数度目だったが、今度の彼は興奮度が段違いだった。
「素晴らしい作品だった。君なら必ずやり遂げてくれると信じていました。全体的な描写力の高さは無論のこと、特に主人公の悲惨な生き様を語る書きぶりが非常に鬼気迫っていて読み手をグイグイ引き込む。地の文章でしっかり読ませる実力派の作品だ」
終始大絶賛の相原さんの前では居心地が悪くて、おれはときどき「はぁ」とか「そうですね」とか曖昧に相槌を打ちながら縮こまっていた。なまじ褒められ慣れていないばかりに、こういうときには身の振り方が分からなくなる。咲さんに好評をいただいた時も、こうして反応に迷って困らせてしまったっけ。
「細かい表現については練り直しの余地もあるでしょうが、担当編集の俺としては大筋を変える必要は一切ないと思っています。練り込まれたメッセージも申し分ない。あとはそれを今後、どこまで洗練させてゆけるかの勝負だ」
本文に添えて提出したあらすじの原稿を、相原さんはテーブルの上に広げた。無数の赤線や赤丸が書き込まれていて、熱心な分析を加えてくれたのが傍目にも伝わった。
『プラネテスの輪廻』のあらすじは、大きく分けて三部構成になっている。
主人公はイタリア人の少女・カンパネッラ。破綻した家庭に生まれ育った彼女は、愛に飢え、自分を邪険に扱う家族に尽くす行動を取り続けた。面倒ごとを押し付けられ、母親の折檻に耐え、父親に身体を弄ばれ、きょうだいからは存在もろとも無視され、しまいには家計を助けるために始めたアルバイトの最中に自損事故を起こして死亡する。悲惨な彼女の生い立ちを哀れんだ死神は『今度は自分を大事にしなさい』と教え諭し、禁忌を犯して少女に二度目の人生を与えるのだった。
二度目の人生でもカンパネッラは家族に恵まれなかった。愛に飢えた彼女は意中の男の子を見つけて告白し、恋仲となる。けれども愛されない恐怖は彼女を望まぬ努力に駆り立てた。彼女としての地位を確かにしたい一心から、少女は生活の一切を彼氏に捧げ続ける。持ち金も、時間も、身体も、文字通りすべてを捧げて尽くす彼女の想いに、彼氏は応えなかった。彼にとって少女は当初から遊びの対象に過ぎず、心からの親愛を抱く相手ではなかったのだ。すべてを奪われた少女は最後には彼氏や悪友に輪姦され、暴力を振るわれ、痛みと絶望の中でふたたび命を落とすのだった。
諦めきれない死神の手で、カンパネッラは三度、四度と転生を試みる。けれどもそのたびに待ち受けているのは、望む愛を手に入れられず、途方もない自己犠牲の末に命を落とす結末だった。死神の面目は徹底的に潰れた。ついに四度目の死後、死神はカンパネッラを見放した。
『幾度やり直そうとも、もはやお前は救われぬ。誰かの愛を受け、心から冥福を祈られる日まで、天国にも地獄にも往くことはまかりならん。はざまの暗闇を永遠にさまようのだ』
かくしてカンパネッラは生者の目に映らぬ霊魂と化し、あてもなく現世を惑い続ける。もはや人の愛を信じられるはずもなく、現世と来世の合間でうずくまるばかりだった彼女は、やがて、死を迎えて現世を離れる無数の人々の魂と出会いを果たす。望まない形で命を落とし、後ろ髪を引かれて泣きながら昇天する彼らの横顔が、否応なしにカンパネッラの心を惹きつけた。愛を得られぬまま地獄へ堕ちてゆく無垢の魂に、最期の一瞬までも孤独を味わわせたくない。そのためには何ができるだろう。どんな心で向き合えばよいのだろう。悩みながらも死者たちと向き合い、対話を重ねるうち、やがて彼女は尽くすばかりでない素直な愛の在り方に気づいてゆく。カンパネッラの貢献は現世にも次第に影響をもたらし始め、その一端は終盤、かつて彼女を邪険に痛めつけた家族のもとにも届いて──。
「ラストの反響は実に大きいものでした。感想のはがきがどっさり届いてるんだが、どれもこれも結末に言及している」
紙袋に収められた大量の手紙やはがきを、相原さんは大きな手で掴んでテーブルに広げた。「打ち合わせはいいんですか」と水を差すのも非常識に思えて、はがきや手紙の山におれは大人しく目を落とした。
ひときわ厚い封筒に目が留まった。
「ああ、それか」
中身を覗き込みながら相原さんが付け加える。
「昨日届いたばかりなんですがね。こんなに分厚いファンレターが届いたのは初めてだ。スタノベの編集部でもずいぶん話題になりました」
「へぇ……。すごい、便箋が十枚もある」
「おまけに君と同じ多摩市民だそうだよ」
「近所じゃないですか」
おれは息を呑んだ。寺方博江、東京都多摩市桜ケ丘一丁目在住。その気になれば徒歩でも赴ける住所から、この分厚い封筒は送り届けられている。これならいっそじかにポストへ投げ込んでくれた方が早い。
「先に目を通させてもらったんですがね。まるで私の娘の物語を読んだようだ、心が救われた、といったような感想が延々と書き連ねられてる。真偽のほどは分かりかねるが、差出人の女性にも何かしら思い当たる節があったのかもしれない」
相原さんの解説を受けながら、おれは手紙に目を通した。便箋には無数の染みが点在していて読みにくい。水玉模様のひしゃげた感想文の中で、差出人は言葉を何度も変え、繰り返し感謝を述べていた。そのさまはあたかも作中終盤、少女への愛にようやく目覚めた母親が悔恨を叫ぶ場面を思わせた。母親の改心によって冥福を祈られた惑う者の少女・カンパネッラは、ついに死神の赦しを得て輪廻の狭間を抜け、天上世界へと導かれるのだ。
「数度目の挑戦とはいえ、処女作でこれだけの反響を得るのは並大抵のことじゃない。おかげで自殺を思いとどまりました──なんていう熱のこもった感想まで届いている」
相原さんは頬を緩めた。
「誇るべきことですよ。君の紡いだ物語は、数え切れないほどの人々を支えたんだ」
二百万円もの賞金の使途に迷ったおれは、ひとまず壊れたままの天体望遠鏡を修理に出した。執筆用のノートパソコンも新調した。それから日本酒を一本購入して、父親の位牌に捧げた。生前の父親が愛飲していた銘柄だった。おれの受賞を見届けるように父親は力尽きた。本人の希望で抗精神病薬の投与を始めたにもかかわらず、とうとう譫妄も克服できずじまいだった。けれども今際の際、受賞の報告に駆け込んだ病室の枕元で、あのひとは笑っていたと思う。ガスのように曇った意識を突き抜け、おれの放った真心の流れ星は、あわれな父親の手元へ最期にようやく届いたのじゃないかと思う。
コニタミノータ製反射式天体望遠鏡『Thaxted』。母親との離婚を済ませた日、藪から棒に「プレゼントだ」といって渡された巨大な望遠鏡は、その日からおれのたったひとつの宝物になり、いまや形見にまで成り果てた。父親の寄り添う影が消え、ひとりで丘へ登るようになっても、その営みで欠落を埋めるようにおれは光を追い求めた。小説と同じか、それ以上の青春の染みついた大事な宝物だ。だから、たかが費用を捻出できない程度のことで修理を諦め、宝物を放置していた一年前のおれは、思い返してもつくづく何かがおかしかったのだろう。首元についた真っ赤なあざはいまだに消えない。意味不明な記号と図にあふれた日記代わりのノートも、相変わらず勉強机の片隅に居座っている。
受賞作の着想元を見てみたいといわれ、相原さんにノートを渡したことがある。相原さんはひとしきり首をひねったあと、「降参だ」と唸った。
「ちっとも意味が分からない。何かしらの文法はありそうだけども……」
「筆跡はおれのものなんです。だから多分、おれが自分の手で書いたはずなんです」
「xenographyというやつかもしれないな」
相原さんによれば、それは未知の言語を書き取る能力を意味する英単語だという。うさんくさい超能力みたいで気味が悪い。おれが嫌な顔で否定すると、「冗談ですよ」と相原さんも苦笑を浮かべた。
「現に君はこのノートに着想を得て『プラネテスの輪廻』を書き上げたわけでしょう。気の迷いが生んだ贈り物だと思っておけばいいんじゃないかな」
そういわれると捨てるに捨てられなくて、おれは仕方なくノートを残すことに決めたのだった。
執筆を終えた今、改めて読み返しても、あの日のように止めどなく発想が湧き上がって弾けることはない。ぼんやり記号の羅列に目をやっていると、並び合う三角や丸の図形が人影のようにも見えてくる。トイレのピクトグラムみたいに男女の性差までも見受けられる。彼らはときに身体を重ね、唇を合わせ、決して離すまいと互いの手を握りしめている。
まさかね。
苦笑が漏れて、おれはノートを閉じた。
インターホンが鳴った。アパートの前に宅配便のトラックが停まっている。おれは慌ててノートを放り出して、分解修理の済んだ宝物を取りに走った。
あれから一年が経って、咲さんは大学三年生になった。兼業作家としての道を探るべく、夏からは就職活動に励むそうだ。同居人の子も受験勉強に追われているという。法科大学院の入学試験を無事に突破し、一足先に大学を卒業した和田先輩の息災も聞いている。
おれはまだ、身の振り方を決められていない。なんとか金を貯めて大学に行きたい気持ちも強い。アルバイトと作家の兼業を続けるのも悪くはないが、何かしらの身分保障を得たい思いもある。いっそ、あのスーパーで正社員として雇ってもらおうか。経緯台の調整を済ませながらおれは思案に暮れた。
クリスマスイブの深夜。
ゆうひの丘には誰も見当たらない。
葉を落とした宇宙桜が無言でたたずむばかりだ。
振りあおいだ空には静かに星屑が散っている。とりわけ目立つのはシリウスを筆頭格に据えたアステリズム、冬の大三角だ。イブの喧騒を映した空は淡く霞んでいて、さしもの名誉ある一等星たちにも元気はない。騒がしい東京の夜明かりは、か弱い星明かりを容赦なく覆い隠してしまう。
ひときわまばゆい金色の星をファインダーの先に見つけて、おれは望遠鏡をそちらへ向けた。山の端に消え入ろうとしているそれは、木星だった。
天のサンタクロース。
クリスマスにぴったりの星だ。
心の中で口ずさんで、木星に焦点を合わせる。
西洋占星術における木星は成功をもたらす幸運の星であるといわれる。太陽系最強の吉星、限りない恩寵をもたらす天のサンタクロース。そんな呼び名で木星を称える占星術家も多いようだ。実際、一年前のおれも、木星を眺めていたはずみで『プラネテスの輪廻』を着想し、念願かなって作家になった。いまも夜空を見上げると、目が無意識に木星のありかを探してしまう。
あの星を見つけると勇気が湧いてくる。どうにもならない不遇を嘆き、いじけていた孤星のおれを、あの星だけは神様みたいに優しく見守ってくれていた。きっと何十年も、何万年も、太陽系の生まれた四十六億年前から変わらずに。
──『だから、好き』
うたうように彼女が言った。
接眼レンズを覗き込んでいるから姿は見えない。ああ、とおれは応じた。いまなら分かる。おれも好きだ。穏やかに温もるオレンジの肌も、確かな意思を宿した大赤斑のまなざしも。
──『確かな意思なんてなかったよ』
いいや、あったはずだ。飢えに喘ぎながら散らす汗の奥で、いつもお前はおれをまっすぐに見てた。あたしだけを見てよ、あたしを求めてよと言わんばかりに。
──『なんだ。ちゃんとバレてたんだね』
ふっと目をそむけるようにピントがずれて、木星の姿がぼやけた。調整が甘かったらしい。調整ノブを回して、慎重に距離を測るおれを、彼女は宇宙の彼方から丹念に見つめている。
──『誰かに必要とされたかった。愛される側に回りたかったの。こんな汚い身体でも求めてくれる人がいるのなら、あたし、それだけで生きてゆけると思った。たとえ身体が目当てでもいいから、傷つけてくれてもいいから、愛してくれる誰かのもとで一緒に生きたかった。図々しい話だよね。あたしに依存する気がないんだ、求めてもらえないんだって思った途端に何もかも嫌になって投げ出して、こうして縁も切っちゃったのに』
図々しいなんて思ってない。
おれは目を凝らした。
そんなに自分を責めるなよ。たとえ誤解で縁を切られたって、あれからおれの気持ちは少しも変わってない。お前が夢を失い、生きる気力をなくして塞ぎ込んでいるなら、隣り合って足を結んで二人三脚で歩めるような、かけがえのない存在になりたかった。そのためなら何でもしてやる覚悟だった。捨てた夢だって拾い上げた。おれの持ち合わせるすべてを懸けて、幸せを願う用意があった。
その営みを「愛」と呼ぶ勇気が、あの日、おれにあったなら。
愛のある関係を結びたいと素直に叫べたなら。
だらしのない後悔で、今もときどき足が竦むよ。
──『あのね。あたしの夢、叶ったんだ』
ピントの合った木星が、網膜いっぱいに金色の光を焼き付けた。
──『もう、ひとりぼっちじゃないの。たくさんの人があたしの味方になってくれたの。ここじゃない優しい世界へ連れていってくれるって、神様にも約束してもらった。本当はもっと早く最期の挨拶を済ませたかったんだけど、ちっとも丘に来てくれないから』
仕方ないだろ。時間がかかったんだから。
あのとき壊してしまった望遠鏡を、お前のおかげでやっと直せたんだ。
──『そんなこと言ったらあたしだって……。あなたのおかげだよ。あなたの紡いだ物語があたしを救ってくれた。真っ暗な宇宙の底からあたしを救い上げてくれた。あなたのくれた気持ちは本物だった。愛ってこんなに優しかったんだ。温かかったんだ。あなたはやっぱり優しくて温かな人だったんだね』
足元から這い上がった寒気に、コートを着込んだ身体が震える。おれは三脚を握りしめ、望遠鏡を支えた。いっときも木星から目を離したくなかった。おぼつかない喉を振り絞って、「あんた呼ばわりはやめたのかよ」と失笑した。しょっぱい吐息は靄になって空へ溶けた。
──『大切な人をあんたなんて呼ばないよ』
「そっか。じゃあ、おれは……」
──『さよなら、万里。あたしの大切な人』
彼女は、すん、と切なげに鼻を鳴らした。
──『最期にあなたを愛してよかった』
あふれ出した涙でレンズの景色が溶けた。おれは望遠鏡を放り出して、無我夢中で周囲を見回した。ひとけのない丘を風が穏やかに吹き渡っている。くすぐったげに宇宙桜が身を揺らしている。灯りの消え始めた街並みが、見渡す限りの眼下に広がる。屹立するタワーマンションの航空障害灯が蛍のように瞬く。無数の街明かりの庇護を受けながら、人々は安寧の眠りに沈んでいる。
おれは今、誰と話していた?
胸に問うても答えは返ってこない。
だくだくとあふれた涙が、透き通った風に叩かれて氷のように凍てつくばかりだ。
力なく崩れ落ちた草むらの上で、ひざまずいて天を仰ぐ。満天の星空が笑っている。かれらがヒトの言葉を解するはずはないのに、まるで彼女の声は星から聴こえたみたいだった。おれは泣き笑いに頬を染めた。今、ようやく理解した。胸の中で泣き叫んでいたのは架空の登場人物なんかじゃない。どこの誰かも分からない、優しい色をまとった小さな星に、真実、おれは恋をしたのだ。あなたを愛して、幸せを願ったのだ。あなたがおれに対してそうしてくれたように。
「さよなら……」
おれはやっとの思いで喘いだ。
無意識に探し求めた金色の星が、天体望遠鏡の先で揺らめいた。太陽系最大の惑星は静かな微笑みをたたえたまま、何事もなかったかのように、関東山地の稜線に姿を消していった。
この物語は2021年クリスマス小説です。
正直、クリスマス要素は希薄ですが、過ぎゆく年月に思いを馳せ、無性に夢を追い求めてしまう年末特有の情緒を、少しでも感じてもらえたなら嬉しいです。
このサイトに集う物書きの皆さんは、きっと多かれ少なかれ、取りつかれたように主人公への情念を深めながら小説を紡いだ経験を持つのではないかと思います。そのとき我々はだらしのない妄想にかじりついていたのではない。真実、誰かを愛して、心の底から誰かの幸せを願っていたのではないか──。そんな「物書きあるある」の背後にこのような物語が横たわっていればいいなと思い、精一杯の祈りを込めて書き上げたのが、本作『孤星のゼノグラフィ』でした。
寒空の広がる年の瀬。
今年一年を生き延びたあなたに、
どうか栄えある新年の夜明けがありますように。
2021.12.25
宮澤萬里(蒼原悠)