優しい腕の中
屋敷に戻ったマリアは、厨房にこもっていた。
腫れ物に触るかのようにナタリアは遠慮がちにしていたが、一心不乱に料理に取り組むマリアの姿に、ララは堪らず口を開いた。
「……なあ、パイを作るとか言ってなかったか。俺は料理の知識はねーけど……明らかに、パイ作りに必要のない調味料が並んでないか?」
あらかじめ作っておいたパイ生地を叩きつけるように伸ばしていくマリアのそばには、怪しげな調味料がずらり。
いつか実験しよう……もとい、使ってみようと思っていた調味料だ。チャコ帝国を経由した香辛料もある。料理に詳しくなくとも、チャコ出身のララには見覚えがあったのだろう。
「殺傷能力の高いパイを作るのが、私の目的なの」
「さっしょ……それ、毒なのか?」
「毒じゃないわ。毒を混ぜたら完全犯罪にならないでしょ。正真正銘食材だけを使って、一口で食べた人間を絶命させる料理……きっといつか作れるはずよ。それがあれば、邪魔な人間全員、合法的に抹殺できるわ」
青い顔でマリアの話を聞いていたララは、戸棚からさらに調味料を取り出す。
「なら、この見るからにヤバそうなやつも試してみようぜ」
『見た目も臭いも危険そうなこの果物も入れよう』
どさくさにまぎれて、アレクまで異国の果物を持ち出す始末。危険な創作料理を止める者はおらず、オフェリアが異変に気付いて叱りに来た頃には、パイはすでに焼き上がっていた。
マリアを煽った罰としてそのパイはララとアレクの夕食になったのだが、二人はけろっとした顔で完食していた。
やっぱまずいな――と顔をしかめながらむしゃむしゃと食べ尽くすララ。
あの果物、味は拍子抜けするぐらい普通で特に面白くなかった――と顔をしかめながらもぐもぐと食べるアレク。
食える物しか使ってないのに、これで倒れるとかエンジェリク人の腹は脆弱過ぎる。
ララとアレクはそのような結論を出し、この二人を引っくり返すぐらいのものを作ってみせる、とマリアに余計な決意をさせていた。
一心不乱に料理に挑み、少しだけ気分が紛れた。
それでもマリアの心は晴れず――そんなマリアの心を映し出したかのように空は薄暗くなり、夕方頃には雨が降り始めた。
雨は夜になっても止まず、開けっ放しにした自室の窓から、マリアはぼんやりと外を眺める。
――雨の夜は、彼が訪ねて来ることが多い。
さすがに今夜それを期待するのは、無理があるだろうか。まだ王都にも戻ってきていないようだし。
マリアは溜息をつき、窓を閉めようと手を伸ばし――庭で何か動くものを見つけて、手を止めた。
ふりふりと尻尾を振り、大きな身体を持つ犬がマリアのいる窓を見上げている。
あれは、妹のオフェリアが可愛がっているマサパンだ。ガーランド商会で飼われている犬で、いまは商会と共にオルディス領に一緒に行っていたはず。
そのマサパンが……なぜいま庭に。
マリアは部屋を出て、裏口へと下りて行った。閂を開けて、外に出る。
少し雨が降っていていたが、マサパンを探して庭を歩く。ワン、と吠える声に彼女を見つけた。
向こうもマリアを見て嬉しそうに駆け寄り、親愛の情を示してくる。雨に濡れてしっとりとしている毛皮を撫でながら、マリアが言った。
「あなたまさか、一人でオルディスから来たんじゃないでしょうね」
からかいのつもりだったが、マサパンならそれぐらいやりかねない。
マリアが苦笑していると、背後から抱き締められた。驚きに体を強張らせたが、覚えのある温もりに、それが誰なのかすぐに分かった――ホールデン伯爵だ。
「ヴィクトール様――いつお戻りに……というか、マサパンを連れてきたのはあなたですか」
「ついに彼女を懐柔することに成功したぞ」
悪戯が成功した子供のように笑う伯爵が滑稽で愛しくて。自分を抱きしめる腕に、マリアは身をゆだねた。
「マサパンを使ってわざわざマリア様を呼び出して……。まったく、何をしているのやら」
伯爵の従者であるノアは、雨で濡れた髪を掻き上げながら溜息をつく。マリアはクスクスと笑い、二人と一匹を中へ招き入れた。
いつもなら伯爵に風呂をすすめるマリアは、そのまま部屋に連れ込み、改めて彼に抱きつく。
マリアを守り、支えてくれる力強い伯爵の腕の中は、一番安心できる場所だ。
マリアの異変にきっと伯爵は気付いているのだろうが、何も言わず抱きしめ、優しく髪を撫でてくれていた。
「なかなかお会いできなくて寂しかったです。ヴィクトール様がいらっしゃらないと、心細くて堪りません」
「そんな可愛らしいことを言ってくれるということは、また浮気相手が増えたな」
「ふふ。どうでしょう」
浮気を咎めながらも、伯爵はマリアの額に口付ける。マリアも伯爵の胸に顔を埋めて笑った。
「見知らぬ男がこの屋敷に雇われたようだ。確かめておく必要があるかもしれんな」
ララたちのことだ。
まだ伯爵には知らせていないはずなのに――やっぱり、彼には隠しごとはできないらしい。マリアは、彼の腕の中で洗いざらい白状することになった。
……もっとも、隠すつもりはなかった。反応が怖くて先延ばしにしていただけで。
「かつての婚約者だというのなら、少しぐらいは思うところがあるのではないか」
マリアを抱きすくめ、唇を指でなぞりながら伯爵が言った。
咎めているというより、好奇心から面白がって聞いているような感じだ。愛人関係にある相手から、ベッドの中で聞かれるようなことではない気がするが……マリアは苦笑する。
「まったくなかったと言えば嘘になります。やはり結婚する相手でしたから。多少は意識してました」
数少ない親しい男の子だったし、気の合う相手だった。結婚も、男女関係というものも、漠然としか考えていなかった頃のマリアにとっては、特別な想いがあった。
「けれどもう、お互いに状況が変わってしまいました。きっと向こうのほうから願い下げでしょう。特にチャコ帝国は、女性の貞操観念に厳しいと聞いておりますし」
話をしながら。
もしかして、自分はいまさら後悔しているのだろうか、とマリアは思った。
選んできた道を後悔などしないと、決めていたはずなのに。だとしたらつまらない感傷だ。
懐かしい幼馴染みに会ったぐらいで揺らいでいるようでは――妹の命運もかかっているというのに。妹を巻き込んでしまったのは自分なのに……。
「……ヴィクトール様。私、どうやら国王の執着を引きつけてしまったようです」
「ほう。王妃の座がますます現実のものになってきたな」
「からかわないでください、意地悪ですよ。王の執着を利用するしかないのは分かっていますが、国王相手に自分がどこまで駆け引きできるのか――さすがの私も自信はありません」
もともと、伯爵たちと駆け引きをしているつもりはない。彼らからの求めに、マリアなりに精一杯応じているだけ――の、つもりだ。いささか節操なしが過ぎる気はするが。
男女の駆け引きというものは、マリアも自信はない。そんな不確かなものに自信は持てない。
「それで私に教授して欲しいと?それこそ悪趣味だ」
そう言いつつも、伯爵は面白がっている。マリアの髪に口付け、こちらの反応を試しているようだった。
「違います。ヴィクトール様には、いままで以上に私のことをしっかり繋ぎとめておいてほしいのです。私が、王の執着に引きずり込まれないように」
マリアに伸ばされた伯爵の手が、ぴたりと動きを止める。抱き寄せてくる伯爵に自らも顔をすり寄せ、マリアは目を閉じた。
翌朝、何食わぬ顔で朝食の席に混ざる伯爵に、ララは冷や汗を流していた。
どうしたの、とマリアが聞けば、おまえあいつに何言った、と焦ったように小声で問い返された。
「あのおっさんから、すげー殺気を浴びせられてるんだけど」
「そうなの?私の初恋があなただって、話したからかしら」
「おま……あいつ、おまえの情人だろ?しかも大勢いるうちのボス格だろ!?そんな相手に何言ってんだよ、俺が殺される!」
「大丈夫よ。そんな生温いこと伯爵はしないから」
余計に悪い!とララに怒鳴られる。フォローしたのに理不尽な。
「伯爵、嫉妬は見苦しいですよ。幼い頃の微笑ましい思い出にまで口出しするなど、狭量にもほどがあります」
伯爵の後ろに控えるノアが、容赦なく言った。
「君も、相変わらずマリア贔屓だな」
「さすがにこれは伯爵の理不尽が過ぎます。伯爵とて、過去に女性がいたのですから」
ノアの言葉に、私も伯爵の初恋をうかがってみたいです、とマリアも便乗する。
珍しく、伯爵が目を泳がせた。
「……彼女たちからはきっぱり振られている。捨てられた女性にそれでも想いを引きずるほど、未練がましくはないぞ」
伯爵が、じろりとララを見る。その視線の意味を察したように、ララも目を泳がせた。
「いや、俺にとってもマリアは初恋の相手だし、助けてもらった恩人だし……。これぽっちも何とも想ってないっていうのは、さすがに嘘になるだろ――別にあんたらから奪おうとか考えてねーよ!必死で故郷から逃げ出してきたのに、痴情のもつれで死にたくねーから!」
伯爵が不穏な様子を見せたので、慌ててララが弁解する。
前途ある若者を脅してはいけません、とノアがたしなめた。
「そう言えば、私のファーストキスの相手もララということになるのかしら。キスそのものはお父様とか、挨拶代わりにしたことはあったけれど。家族以外の男の子という意味では、やっぱりあなたがそういう相手になるのよね」
「いまそれ話すことか!?なんで煽るんだよ!見ろ、あの目視できるレベルのやばいオーラを!俺、もう明日の朝日がおがめないぞ!」
まだ互いに幼く、好奇心からキスというものをララと試してみた。唇が触れる程度の本当に遊戯みたいなもので、いまから思えば可愛らしい思い出だ。
自分から言い出したくせに、ララのほうが顔を赤くしていて……。
「思い出に浸るなら心の中でやれ!ご丁寧に全部口に出す必要ないだろ!おまえ、実は俺のこと恨んでるのか?殺す気まんまんじゃねーか!」
「伯爵も落ち着いて。杯にヒビが入ってます」
ノアに指摘された伯爵が、握りしめていた杯から手を離す。ヒビが入ったそれは、形が歪になっていた。
「おはよう、お姉様。あっ、伯爵だ!伯爵、王都に帰ってきてくれたんだね!それにマサパンも来てる!」
食堂に入って来たオフェリアの姿を見て、マサパンは尻尾を振って親愛の情を示す。
オフェリアの登場によって話題は打ち切りとなり、ララは涙を流して喜んでいた。オフェリアと一緒に食堂に入って来たアレクが顔をしかめる。
『オフェリアには王子様がいるんだから、横恋慕したって無駄だよ』
「ちげーよ、そういうのじゃなくてだな……。もうこの屋敷に、俺の安らげる場はオフェリアのいるところしかないんだよ……マリアが俺の命を狙ってる……」
『ちょっと何言ってるかわかんない』
マリアはくすりと笑い、朝食を食べ始めた。
今朝は天気が良い。初夏らしく、空は青く晴れ渡っていた。




