選べないこと (1)
ムスタファの一件以来、ホールデン伯爵と顔を合わせる機会が増えた。というよりマリアに任される仕事の幅が増えて、伯爵の仕事にも同行するようになった。
伯爵と気軽に話ができるまでの関係になったのは有難いことだった。商会のこと、キシリアのこと――様々な情報を知るには、伯爵に尋ねるのが一番手っ取り早く、確実なのだから。
それに、伯爵との会話は単純に楽しい。彼はいつもマリアが欲しい言葉をくれるから、伯爵のそばから離れがたくなってしまう。
……たぶん、彼はマリアの正体に気づいているだろう。
自分の変装が完璧でないことは、マリアにもわかっていた。それで情報というものに敏感な伯爵が気付いていないと思えるほど、マリアの頭もめでたくはなかった。
「失礼します。先日の商談内容の清書とエンジェリク語に翻訳したものを持ってきたんですが……伯爵はいらっしゃいますか?」
頼まれていた書類を持ってホールデン伯爵の執務室を訪ねたマリアは、部屋の前で見張りとして立っているノアに声をかけた。
ノアは相変わらずのポーカーフェイスでじっとマリアを見つめ……と思ったら、何やら長い溜息をついた。
「どうぞ入ってください。そして叩き起こしてきてください」
「え」
一瞬、何を言われたのか分からなくて困惑したが、要するに伯爵は眠っている、ということだろうか。
部屋に入る前にもう一度室内に向かって声をかけたが、返事はない。部屋の中をきょろきょろと見回してみれば、マリアの推察通り、背もたれのある長椅子でホールデン伯爵が眠っていた。
肘置きの部分に長い足を放り出し、適当に毛布をかぶって……。
「あの……伯爵?頼まれていた書類を持ってきたんですが……」
ノアは叩き起こしていいと言ったが、まさか本当に実行するわけにもいかなくて、恐るおそるマリアは声をかける。
自然と目が覚めるのを待つべきだ……というか、自分はそうすべき立場だろう。あれこれ悩んでいたマリアは、伯爵が片目を開けてすぐにこちらを見てくれて、すごくホッとした。
「もう少し寝かせてくれ。昨夜はなかなか寝付けなくて、寝不足気味なのだ」
「お忙しいんですか?えっと、すみません……僕、出直してきます」
「いや、こうなったら君も共犯だ。君がいるのなら、ノアもごちゃごちゃ言わんだろう」
ぐいっと腕を引っ張られ、気付いた時には、マリアは伯爵の腕の中におさまっていた。
大きな長椅子だが、伯爵は決して小柄なほうではないし、二人で横になるにはさすがにせまい。
マリアが逃げられないよう、伯爵はしっかりと抱きしめてきて――彼の腕の中はあたたかくて、なぜだか落ち着く……。
「言っておくが、キシリア人が悪いのだぞ。キシリア人にならってシエスタをするようになったら、目が冴えて夜なかなか眠れなくなってしまった。おかげでこんな時間に二度寝だ」
「え。あの、もうシエスタという時期でもないんですが……」
キシリアには、シエスタという習慣がある。
暑い時間帯は休息を取って……そんな時間に働いても無意味なだけだから休んで、暑さが和らいだ時間に再び働き出す、というキシリア特有の生活習慣。でもそれをするのは夏がほとんど。もう暑さにやられるような季節でもない。
それに、夜寝れないほどのシエスタとなると……単に寝すぎなのでは。
「それじゃあ、ノア様に叩き起こしてこいって言われちゃいますよ……」
「やはりそんなことを言われて来たか。ノアとの付き合いも長くなって、あれもだんだん言いくるめられなくなってきた。昔はもっと可愛げのある少年だったというのに」
言いながら、伯爵は自分に掛けていた毛布でマリアを包んでくる。ふわふわとした手触りが気持ち良い。でもそれ以上に伯爵のぬくもりが心地良くて、瞼が重くなっていく……。
「ノア様に怒られたら、少しぐらいはフォローしてくださいね」
「任せておけ。君も、言い訳を考えておくように」
頭の上で伯爵が笑う声が聞こえてきたけれど、それを確かめることも億劫で。
自分でも驚くほどあっさりと、マリアの意識は闇に沈んでいった。
「伯爵ぅううう!ひどいですよ!悪魔ですか!」
憐れっぽい男の叫び声に、マリアはびくっと飛び跳ねた。
デイビッド・リースの恨めしい声に、咄嗟に身体が反応してしまった。瞬時に覚醒した目で周囲を見渡してみれば、そばにリースとノアが。伯爵はとっくに目を覚ましていた。
「ああ、ほら。目を覚ましてしまったではないか。かわいそうなことをしてやるな」
「あなたがそそのかすからでしょう――クリス君。申し訳ありませんでした。悪い大人にすっかり誑かされてしまって」
ポーカーフェイスだがどこか気遣わしそうに自分を見つめるノアに言われ、マリアは慌てて首を振った。
そうだった……自分は仕事中だった。それを忘れて、本当に伯爵と昼寝に耽ってしまうなんて。
なかなか帰ってこないマリアが気になって、リースが探しに来てくれたのだろう。
……そして、のんきに眠りこけているのを見つけた。
「クリス君にお願いしたい仕事がまだまだあるというのに!こんなに忙しくしたのは誰ですか!その張本人がクリス君を取り上げるだなんて……悪魔のような所業です!」
伯爵の無慈悲さを、リースは力いっぱい語る。さすがの伯爵も、これには苦笑いしかできない。
「分かった。私が悪かった。すまなかった、クリス」
「いえ。伯爵が悪いわけでは」
自分も気を抜き過ぎだ、とマリアは素直に思っていた。
最近、よく眠れていなかったからつい……。王都を逃げ出してから、ぐっすり眠れたなんてこと、ほとんどなかった。リースが容赦なく仕事を押し付けて来るから、残業で忙しかったのは事実だけど。
でも、部屋に戻っても眠れないから、くたくたになるぐらい仕事をして、それで丁度いいぐらい。疲れ果ててしまえば、なんとか眠ることができる……。
だから、こんなにもあっさり眠ってしまったことが、マリア自身不思議でならなかった。
旅を続けるガーランド商会は、ついに港のある街に到着した。キシリアとの別れも目前――とマリアが寂しさを感じたのも束の間だった。
街について三日経ったが、いまだに商会は出港の目処が立っていなかった。
「オフェリア、何をしているの?」
昨夜、ナタリアからオフェリアの秘密を聞かされたマリアは、打ち合わせ通り妹の不審な行動を追いかけた。
建物の片隅で何やらこそこそとしているオフェリアに声をかけると、姉の声に驚いて飛び跳ねた。
「お兄様!?なんでもないの!」
オフェリアは背後に何かを隠そうともぞもぞしているが、残念ながらまったく無駄な努力だ。愛くるしい瞳でマリアを見つめる子犬は、尻尾を振ってすり寄ってくる。
必死で自分のスカートの中に子犬を隠そうとする妹に、マリアは苦笑するしかなかった。
「この子、ひとりぼっちみたいなの。すごく良い子よ」
「別れが辛くなるわよ。私たちはもうすぐキシリアを出ていくのだから」
「出港が決まったのですか?」
姉妹のやり取りを黙って見守っていたナタリアが口を挟んだ。
「いいえ。具体的な日取りはまだ。海のことは私もさっぱりだから、いったいいつになることやら……」
ガーランド商会を足止めしているのは、天気だった。
マリアにはよくわからないが、船乗りたちによると沖の方の時化が酷いらしい。そのために船が出せないということで、いまだにキシリアを出ることができなかった。
さすがのホールデン伯爵も、天候ばかりはどうしようもない。時化がおさまるのを待つしかなかった。
「……クリス様。エンジェリクへ着いたら、商会ともお別れなのでしょうか」
ナタリアの言いたいことは分かっていた。
マリアたちは、エンジェリクへ伯母を頼りに行くはずだった。しかしマリアが記憶している限り、伯母とは交流がなかった。オフェリアが生まれた時はおろか、母が――伯母にとって実の妹が亡くなった時ですら、手紙の一枚も寄こさなかったような伯母だ。歓迎してくれるとは思えなかった。
そうなると、このままガーランド商会にいたほうがマリアやオフェリアにとっては幸せかもしれない。ナタリアがそう考えるのも、無理のないことだった。
「キシリアを出てから考えましょう。まだ無事にエンジェリクへたどり着けるかもわからない状態なのだから」
食堂となっている宿舎へ行くと、珍しいことにリースが先に来ていた。食事はいつもマリアより遅いのが当たり前、食堂に顔を出すことも忘れがちである彼がいたことに、マリアは驚いてしまった。
「リースさん、今日はもう仕事が終わったんですか?」
「終わってはいないのですが、それなりに目処が立ったのでたまにはちゃんと食事をしようかと。行ける時に行っておかないと、そのまま忘れてしまいそうですからね私の場合」
マリアたちはリースのそばで食事をすることになった。
オフェリアは初めて顔を合わせるリースに少し戸惑っているようだ。オフェリアの戸惑いをリースも感じたらしく、怖い顔してますかね、と彼も困惑していた。
「たぶん、年上の男性だからだと思いますよ」
「なんと。私がそんな理由で人から怯えられるのは初めてです。どちらかというと侮られることの方が多いのですがね。へらへらしていて、威厳がないと言われがちで」
「威厳がないとは思いませんが……怖い感じはしないので、オフェリアもすぐに慣れますよ」
マリアがフォローも込めて、苦笑いで言った。
「男性らしい男性というのが苦手なんです、妹は。父は中性的な容姿でしたから、男らしいという言い方は似合わない見た目で。だから男らしい男の人、というものへの苦手意識は、どうしても克服できないままになってしまいました」
マリアは、母方に似た目元を除けば、生きうつしと言われるほど父親にそっくりだった。父は童顔で、美貌の宰相というあだ名がつくほど中性的な美しさがあって……当人は、そのあだ名をすごく嫌がっていたけれど。
「お父様は優しくて、とってもかっこいい人よ。私、お父様のことが大好き」
笑顔で話すオフェリアに、マリアは自分の失言を悟って凍りついた。迂闊にも、触れたくなかったことを自ら口にしてしまった。
「お父様に会いたい……」
オフェリアの瞳に、涙が溜まっていく。
ナタリアも、触れてはいけない話題を持ち出したことに気付いたようだ。リースも異様な空気に心底困っている。
「お父様に会いたい!お父様……うわぁああああん……!」
心の奥にしまいこんでいた不安や願望が決壊し、人目もはばからずオフェリアは大きな声で泣き叫んだ。
幼いながらに我慢していた妹の努力を台無しにしたのは、他ならぬ自分だ。オフェリアをなだめながら、様々なことに先延ばしにしてきた自分の甘さが妹を追い詰めたことをマリアは痛感した。
「お気づかいに感謝します。本当に申し訳ありません」
なんとか妹をなだめたマリアは、すぐにハンナのもとへ向かった。
商会に来て落ち着き始めていた妹は、再び不安定な状態になってしまった。これでは今日はもう働けないだろう。ハンナに頭を下げに行くと、食堂での一件をすでに耳にしたらしい彼女は快く了承してくれた。
「あんたたちが訳ありなのはわかってたさ。幼い子供だけで雇ってくれだなんて、たいていそういうもんだからね。雇う以上は甘い顔をするつもりはないけど、真面目に働いてたんだし今日ぐらいはいいよ。ゆっくり休ませてあげな」
ハンナは詮索することなく、しかしこちらの事情を察してくれたようだった。リースも、目の前でオフェリアに泣かれてしまったせいか、今日は休んで妹のそばにいるようにマリアに言いつけた。
気遣ってくれたリースには申し訳ないが、いまのマリアにとっては嬉しくない心遣いだ。空白の時間は、マリアにとって何よりも恐ろしいものだった。忙しさを理由に後回しにしてきたことと、向き合わなくてはならない。
重苦しい気持ちを抱えたまま自室に戻る途中で、マリアは伯爵とノアに出くわした。
「やあ、クリス。丁度良いところで会えた。これから風呂だ。また君を誘おうと思ってね」
「体を洗うお手伝いですか?」
マリアが苦笑すると、そういうことだ、と伯爵は笑った。
「喜んでお供させていただきます。僕の方も突然時間が空いてしまって、困っていたところですから」
心からホッとした気持ちで、マリアは伯爵について風呂へ向かう。
伯爵が脱いだあとの服を丁寧にたたんで片付けながら、自分もすっかり慣れたものだな、とマリアは感じていた。
初めて風呂で出くわした時はあんなに動揺していたのに、いまや伯爵の身支度を手伝う余裕までできて。
――男性の裸に慣れるのが良いことかどうかはさておき。
「デイビッドが君の妹を泣かせたそうだな。女の子の機嫌を取るにはどうしたらいいかと、死にそうな顔をして相談にやってきたぞ」
「リースさんは何も悪くありませんよ」
マリアは慌てて否定した。
「デイビッドにとって、とんでもない失敗をしでかしてしまったのは事実だ。なにせ君を口説こうとしていた矢先のことだからな。エンジェリクに着いてもぜひ商会で働いて欲しいと、私からも説得するよう懇願してきた」
笑いながらリースの企みを暴露した伯爵は、愉快そうだった。
「最初に会った時の発言を撤回しよう。有能な君を手放すのは実に惜しい。エンジェリクでも働き続けてくれないか」
「……そうおっしゃって頂けるのは、とても嬉しいです」
まぎれもなく本心から、マリアはそう答えた。実力を認められ、伯爵から直々に声をかけてもらえるのは光栄だ。
ガーランド商会で過ごす日々は心地良くて、ずっとここにいたい衝動に駆られたのは一度や二度ではない――伯爵とも、離れがたかった。
「でも……。すみません。僕自身、自分がどうしたいのか分からなくて……。このまま商会にいれたら、それが一番良いとは思うのですが」
「今すぐ返事をする必要はない。出港の日取りは決まったが、エンジェリクに着くまでまだ時間はある。じっくり口説かせてもらおう」
何気なく話した伯爵の言葉に、マリアは目を丸くした。マリアの反応に満足したのか、伯爵が悪戯っぽく笑う。
「そうだ。ようやく船が出せるようになったのだ。明後日にはキシリアを発つ。今日ぐらいは休んでおくといい。明日はまたデイビッドにこき使われることになるからな。キシリアを出るまでに片付けておかなくてはいけないことが山積みだ」
風呂上がり、伯爵の着替えを手伝い終えたマリアはノアの髪を拭いていた。適当でいいですよ、と
ノアからは言われたが、伯爵まで便乗し始めてノアの髪を編み込み始めた。
「お上手なんですね」
「若い頃は日銭を稼ぐため色々な仕事をやったからな」
「人の髪で遊ばないでください」
ノアの抗議を無視して、伯爵は髪を盛りつける。その出来栄えに満足そうに頷くと、今度はマリアを見た。
「君も髪が伸びたな。さすがに結ぶほどの長さはないが」
改めて指摘され、あれからずいぶんと日が経ったことをマリアは実感した。
短く切り落とした髪は、肩に触れるぎりぎりの長さまで伸びている。もう一度切ることも検討したのだが、マリアの短い髪を一所懸命手入れするナタリアを前に鋏を入れるのは抵抗があった。
「初めてお会いした日から、もうそんなに経ったのですね。僕ももうすぐ十四になりますし」
「なんと」
何気ないマリアの呟きに、伯爵が軽く目を見開いた。
「ちょうど明後日が誕生日なんです。すっかり忘れていましたが」
「誕生日。それはめでたいな。キシリアを出港したら、慰労も兼ねて君の誕生日パーティーを開こう」
「え、そんな」
遠慮しかけたマリアを、ノアが制止する。
「遠慮することはありません。というより止めても無駄です。クリス君の誕生日祝いを理由に騒ぎたいだけですから」
「そう無粋なことを言うな。私にはクリスを口説くという使命があるのだぞ。少しでも良く見えるように援護しないか。デイビッドに恨まれたら私が君を恨む」
笑いながらも、マリアは複雑な気分だった。
――あまりにも商会での居心地がいいから、困る。自分がマリアであることも忘れ、このままクリスになったほうがいいのではないか。
その誘惑は、いまや抗いがたいほどマリアの心を占めていた。




