運命と出会う (3)
そこでようやく、浴室に入って来たのはホールデン伯爵だけではないことにマリアは気付いた。
亜麻色の髪を肩まで長く伸ばした、若い青年も一緒だ。細身だが程よく筋肉がついた青年で、彼の鋭い眼光にはホールデン伯爵とはまた違った威圧感があった。
「あの、そちらのかたは?」
見覚えはあるような気がする。初めてホールデン伯爵と会った時も、彼のそばに立っていたような……。
「従者のノアだ」
伯爵が紹介すると、ノアはマリアに向かって小さく会釈した。
「私の護衛をしている。見ての通りシャイな性格だが、腕は確かだ」
「……はあ」
彼の鋭い眼差しと美貌は、シャイというイメージからかけ離れているが……伯爵にはシャイなのかもしれない、とマリアは納得することにした。
「クリス、体を洗うのを手伝ってはくれないか」
「え」
男性の裸を見たこともない自分が、男性の体を洗う?
一瞬めまいを感じたのは、浴室に充満する湿気のせいだけではないはずだ。
「悪趣味ですよ」
呆れたようにそう言ったノアは、溜息をついた。
「クリス君、嫌ならはっきり言って構いません。伯爵は、わざと人を困らせるようなことを言って相手の反応を面白がる幼稚な一面もあるんです。断ったからと言って、あなたに不利な真似はさすがにしませんよ」
「あ……いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
冷徹そうな見た目に反して、ノアはマリアを気遣うように声をかけてくれた。無愛想でとっつきにくそうだと思い込んだのは、偏見だったのかもしれない。伯爵の言う通り、もしかしたら本当にシャイなだけかも……?
「えっと、じゃあ僕は背中を洗いますね」
背中ぐらいなら、裸でも大丈夫なはず。
タオルを石鹸で泡立てながら、自分に背を向ける伯爵にマリアは近付いた。
浴室用の椅子があるとはいえ、座った伯爵の背中は背後に立ったマリアの首近くまである。背中も広くて、マリアの倍ぐらいはありそうだ。洗うために触れてみれば、筋肉の付き方も明らかに違う。
裸のいまの状態でも、彼が本気の力で薙ぎ払ってきたら、自分なんかひとたまりもなく吹き飛ばされるだろう……。
そんなホールデン伯爵の護衛なのだから、細身に見えてもノアという男の強さも侮れない。伯爵の背中を洗いながら視線をやれば、ノアは浴槽につかっていた。
「服は脱がないのか。キシリア人は入浴を好んでいると聞いたが」
「風呂は好きなんですが、人に裸を見られるのは抵抗があって……。キシリア人でも、そういうのは珍しくありませんよ」
「そういうものか。私も初めて共同浴場を利用した時はためらったものだが、キシリア人も似たようなものなのだな。ノアも最初はかなり抵抗があったらしい。護衛のため浴室に付き添ううちに、恥ずかしさより衣服の鬱陶しさのほうが勝ったようだがな」
「風呂場で服を着たまま長時間待機するというのは、自殺行為だと思い知っただけです。さすがに、あの不快さに勝つ鍛錬は受けていませんから」
大真面目なノアに、笑っていいものかマリアは悩んだ。ホールデン伯爵は愉快そうだ。
「ああ、もしかして人に会いたくなくてこんな時間に利用していたのかな。そうだとしたら申し訳ないことをした」
「いえ。ついさっきまで仕事だったんです」
「……ということは、デイビッドもまだ仕事をしているのか」
「そうかも……しれません。僕が出た時、たしかに彼はまだ残っていました」
自分も残るべきか悩みながらあとにしたことを思い出し、マリアは言い淀んだ。
残るとリースに気を遣わせてしまいそうだったし、さすがに妹たちの様子が気になったのもある。だが自分よりはるかにリースを知っているであろう伯爵がそう話すのだから、彼は一人で残っていまも仕事を……。
「人手を増やす必要があるのはわかっていたのだが、思いのほかキシリアでの人材探しは難航したのだ。交易が盛んな国故、言語が堪能な者は奪い合いになる。有能な者は、すでに国の商会に就いていることも多い。そうこうしている内に急な出国に別の人手を探す必要ができてしまい、さらに後回しになってしまった。君が申し出てくれたのは正直有難いと思っている」
「急な出国は……やっぱり、キシリア王が亡くなったという噂が原因ですか?」
伯爵の反応に細心の注意を払いながら、マリアは尋ねた。伯爵の背中を洗う手が止まってしまわないよう、自分の態度にも気を配る。
「その噂は少し古い。トリスタン王崩御は確定した。王太子が即位し、いまのキシリアの王はロランドだ」
ノアは伯爵と自分の会話に興味がない――ように見えた。ノアのポーカーフェイスも、伯爵の笑顔のポーカーフェイスも、いまのマリアでは見破ることができない。
「だが依然と情報は錯綜している。トリスタン王の死も、病死だの戦死だのはっきりしない。黒死病による死というのが限りなく事実には近いだろうが……。なにせトリスタン王はオレゴンとの戦争に出立し、王太子は南部の反乱鎮圧に向かっていた。王不在の城を守っていたはずの宰相は行方不明。情報の統制をとれる者が、全員不在ときた」
行方不明の宰相――その言葉に、マリアの体が強張った。手に力が入りそうになるのを必死に堪え、何気ない振りを続ける。
「黒死病ですか。僕が小さい頃に、キシリアでも大流行しました」
「どうやら戦場で罹患したらしい。戦争の真っ只中に王が倒れたにもかかわらずオレゴンからの侵攻がないのは、皮肉にもそのおかげだろうな。オレゴン軍にも患者が出たに違いない。黒死病となれば戦争どころではなくなる。しかし我々にとって最も恐ろしいのは、トリスタン王のもう一人の敵が、この混乱に乗じてキシリアに戻って来たという噂だ」
伯爵の指す敵が誰なのかはマリアもすぐにわかった。
キシリアの王の敵といえば、長年領土争いを続けている隣国のオレゴン王、もう一人はキシリア王の身内であり、王位争いを続けるフェルナンドだ。
「フェルナンドですね。トリスタン王の兄……王位をめぐってずっと争い続けていることは、キシリア人なら皆知っています」
王位争いを続けていた弟が死に、王太子の甥は父親の死に混乱している。その隙に弟に忠実だった宰相を排除してしまえば、フェルナンドは容易に王位を簒奪できる。
伯爵が話した噂は、かなり真実に近いはずだ。マリアの父親の逮捕がフェルナンドが仕組んだものでなかったにしても、この絶好の機会を逃すはずがない。
「エンジェリク国に友好的なキシリア王に対し、フェルナンドはフランシーヌ国と繋がっている。エンジェリクとフランシーヌは険悪な仲だ。フランシーヌ国がフェルナンドを支援するのは当然といえる。フェルナンドの帰還は、エンジェリク人の多いガーランド商会には非常に都合が悪い」
エンジェリクとフランシーヌも、長年領土やら何やらで小競り合いを何年も続けている。戦争こそ起きていないが、互いに仕掛ける口実をうかがっているのは見え見えだ。
フェルナンドが王位に就けば、エンジェリク人のホールデン伯爵はかなり危険な立場に追いやられるだろう。
「やはり風呂というものは不思議なものだ。普段より口が軽くなる。会ったばかりの君と話すような内容ではなかったな」
背中に湯をかけて洗い流していると、ホールデン伯爵が呟いた。その口調はどこか自嘲めいたものもあり、話し過ぎたことを後悔しているようにも感じられた。
「分かるような気がします。裸になると、心まで無防備になりやすいのかもしれません」
マリアが相槌を打つと、そうだな、と伯爵が笑う。
身体を洗い終え、伯爵は浴槽につかった。
マリアが出て行くには丁度良い感じのタイミング――でも、もっと伯爵と話をしたくて。マリアは再び浴槽の縁に座り、足だけを湯につけて、何気なさを装ってその場に残ることにした。
湯につかる伯爵はリラックスしていて、マリアを警戒している様子はない。
「やはり風呂は良いものだ。そうだな……従業員にも、クリスのように一人で気兼ねなく入ることができるのなら入ってみたい、と思う者もいるかもしれない」
伯爵が、独り言のように話した。
「個人で入れる時間を設けてみるか。予約制にして……毎日は難しいかもしれん。日替わりにしてみるとか」
「それは素晴らしい考えだと思います!」
マリアは目を輝かせ、身を乗り出す勢いで言った。
「キシリアでも、全員が風呂好きというわけではないんです。僕のように、肌を見せるのを嫌がって入らない人もいて――だから、風呂の良さを知ってもらう機会を作るのは、とても……」
言いかけて、ハッとなる。
伯爵もノアも、虚を突かれたような表情で――と言っても、二人そろってちょっと目を丸くしてるかな、程度の変化だが――マリアを見つめていた。
図々しいし、馴れ馴れし過ぎる。風呂の話題が出たから、つい……。
マリアは赤面し、すみません、とうなだれた。
短い沈黙ののち、伯爵が豪快に笑う。
「よほど風呂が好きなのだな。大人びた子だと思っていたが、いまのは年相応――いや、それ以上にあどけなく見えるほど、無邪気な笑顔だった」
「すみません……」
自分の言動に恥じ入るばかりで、謝罪を繰り返すことしかできなかった。
笑い終えた伯爵は、優しい笑顔でマリアの頭をぽんと撫でた。
「気にすることはない。夢中になれるものがあることは良いことだ。情熱を失ってしまっては、人間として生きているとは言えないだろう」
伯爵が触れたところがじんわりとあたたかくなっていくような気がしたのは、きっとお湯のせいだけではないだろう。
胸の奥が熱くなって、その熱が、顔にまで伝わっているような感覚に陥った。
「伯爵の情熱は、やはりガーランド商会に注がれているのですか?」
会ったばかりの人に、あれこれ聞き過ぎだろうか。
でも不思議な感覚を振り払いたくて、マリアはわざと話を続けた。
「そうだな。半生を費やした商会だ。やはり思い入れはある。ガーランド商会という船に共に乗り合わせた仲間のことも、大切にしたいと思っている。もちろん、君のことも含んでいるぞ」
笑顔のまま、何気ない調子で伯爵はそう言ったが……マリアは息を呑んだ。
マリアが思っていたよりもずっと、ガーランド商会は伯爵にとって重要な存在で。
自分はそれに乗っかっただけ……渡りに船と、自分のために利用しただけだ。なのに、マリアのことを大切だと……どこまで本音なのかは分からないけれど……でも自分は、そんなことを言ってもらうだけの価値もないのに……。
「ありがとう、ございます……そんなふうに言ってもらえて、とても嬉しいです。本当に……」
懸命に声を絞り出し、なんとか笑ってみせる。必死で平静を装っているが、自分のぎこちなさは、きっと伯爵に気付かれたはず。でも、伯爵は何も言わない。
視界がぼやけているのは、浴室に充満する湯気のせい。何もかも全部、風呂のせい。
きっとそうだ、とマリアは思い込んだ――思い込むことにした。
作中に出て来る国のモデル
時系列・文化等の設定は作者独自のものにつき真面目考察非推奨
キシリア:カスティリア王国 (スペイン)
エンジェリク:イギリス
フランシーヌ:フランス
オレゴン:アラゴン王国 (同じくスペイン)




