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紫色のクラベル~傾国の悪役令嬢、その貴種流離譚~  作者: 星見だいふく
第一部01 故郷からの逃亡
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運命と出会う (2)


妹たちが待つ宿へ戻るとすぐ、オフェリアとナタリアを連れてマリアはガーランド商会に引き返した。

宿は早めに引き上げたかったし、いまからでも働きたいと伝えたらリースが大喜びしてくれたので、商会の宿舎に移動することになった。


リースに教えられた宿舎に着くと、恰幅の良い女性に出迎えられた。


「あんたがクリスだね?私はハンナ。宿舎の管理人だ」

「よろしくお願いします。妹のオフェリアと友人のナタリアです。彼女たちと共に今日からお世話になります」


マリアがハンナに向かって頭を下げると、ナタリアも、マリアのマントのすそをつかんだままのオフェリアも頭を下げた。


「そっちの子は家事ができるって聞いたんだけど」

「一通りのことは。キシリア式ですのでここでどこまでお役に立てるかはわかりませんが、精一杯努めさせていただきます」


ハンナはナタリアの返事に満足そうに頷き、オフェリアを見た。


「妹は体が弱く生まれてきたものですから、親が甘やかしてしまって。物覚えは良い子なので、慣れてくれば手伝いぐらいはできるようになるはずです」

「いいさ。人手は足りてるからね。教える余裕はこっちもあるよ。皿洗いぐらいならこの子でもできるだろう」


オフェリアはもう一度頭を下げ、がんばりますと答えた。殊勝な妹の態度に、ハンナも笑って頷く。


「リースならここから出て右に曲がった突き当たりの建物にいるはずだ。最近は夜通しそこで仕事をしているからね。女の子たちは私について来てもらうよ。もうすぐ夕飯の時間だから、食堂は戦争状態さ。一人でも多いほうが助かる」


またマリアと離れることにオフェリアは不安そうな表情を見せたが、ナタリアと一緒にがんばるんだよ、とマリアが言えば、ナタリアと共にハンナのあとを追った。

ハンナは、肝の据わった愛嬌のある年配の婦人だ。体は大きいが、その笑顔からは親しみやすさも感じ取れた。もともと人を信じやすいオフェリアは、彼女に少し安心感を覚えているに違いない。


マリアもオフェリアのことは心配だったが、妹にかかりきりというわけにはいかない。

自分たちの身の安全のためにも、ここでの仕事を人並み以上にこなさなくてはいけない。特に自分を強く推してくれたリースの期待には絶対に応えなくては……彼の一存で、ここに置いてもらえるのだから。


ハンナに教えられた建物に、マリアはすぐ向かった。


「ああ、本当に来てくれたんですね。よかった……」


建物の中は、所狭しと書類の山が築かれていた。

書類の隙間からわずかにリース……のような人影が見えたが、声を聞くまで確信が持てないほど、その姿は書類によって埋め尽くされている。


「明日の昼にはこの町を出るんですが、書類の整理が終わってないんですよ。君から見て右のほうに、エンジェリク語以外の言語として分類された書類があります――そう、それです。それをさらに言語毎に分けてほしいんです」

「これを……ですか。僕とリースさんだけで?」


言語未分類の書類の山は部屋の三分の一を占めている。この部屋にはリース以外にも人がいた。最初に店で会った四人の従業員に、他にも……自分とリースを合わせれば十人にいる。


「エンジェリク語以外の言語の読み書きができない人間が多いんですよ。会話や、片言程度なら分かる人もいますが……面倒なのでとにかくエンジェリク語とそうでない言語を分けろと指示を出してあるんです。ここではエンジェリク語が公用語になっていて書類が一番多いのは確かですし、効率を考えると逆に私たちは外国語にしぼってしまった方が早いかと……」


げっそりとした笑顔を浮かべるリースに、マリアは大人しく頷いた。


言語未分類の書類の山にマリアも手を伸ばす。とりあえず言語で分ければ言いというのだから、内容は気にせず文章をサッと見て分類していった。

手を止める必要もなく、ほとんど流れ作業でマリアは書類をさばいた。言語の判別程度なら一瞬でできる。それはリースも同様で、書類に一瞬だけ目を通して分別していた。


「言語毎の分別が終わったら、今度は時系列ごとに整理しますよ。キシリア語は君のほうが得意でしょうから、君はそれで」

「キシリアひとつだけでいいんですか?」

「キシリアで交易をしていたんですから、それひとつだけでも他全部を合わせたより多くなりますよきっと。それに時系列順と言いますが、書類は規則正しく並んでいないのでバラバラです。同じ商談相手の書類なのに揃っていないなんてのも当たり前状態ですよ」

「……どうやって見極めたらいいですか?」

「内容を読んで、文章の繋がりを見つけるしかないでしょうね。それでも分からなければ最終的には筆記やインクの具合で同じかどうか判断してください。そうして時系列順の整理が終わったら、今度はエンジェリク語の書類とにらめっこです。エンジェリク語で翻訳された書類があるはずですから、それとまとめる必要があります」


リースの説明を聞いただけでもマリアはげんなりした気分だった。


……なるほど。

ノイローゼにもなるし、藁にもすがりたい気分で自分を雇いたくなるわけだ。


「ええ、私が悪いのは分かってます。いつか余裕がある時に整理しておけばいいと放置して、ギリギリまで溜めこんで……。でもその余裕がある時がまったく来ないのだから仕方ないじゃないですか。しかも、あとでいいやとまとめておいたらうっかり者に引っくり返されて……。直前になって、まさかこんなことになるとは思ってもいなかったんですよ。予想しなかったのが悪いと言われてしまえばそれまでですけど」


書類を分類する手を止めることなく、リースは笑顔のまま愚痴り続けた。

それを黙って聞きながら、これは通常業務ではなくイレギュラーなトラブルであることを悟った――ということは、早く片付けてしまわないと、これに加え通常業務がやってくるということだ。

そう言えば、初めて訪ねて行ったとき、リースたちはまったく別の仕事をしていた。昼間は通常の業務をこなし、終業後、残ってこの作業を……。


明日の悲劇を回避するためにも、マリアは書類を取る手を早めた。


ときおりリースが愚痴をこぼす以外は、マリアもリースも集中して仕事をこなした。

途中でリースが「皆さん、夕食はちゃんと食べに行ってくださいよ」と声をかけ、マリアとリースを除く全員が夕食に出て行った時以外は、十人で書類の山と戦い続けた。


減ることのない山に挑んでいたマリアは、夕食のために作業を止める気にもならなかった。「逃げたら負け」という謎の意地が、マリアに空腹すら忘れさせた。


「ハンナからの差し入れだ。おまえたちもちゃんと食べろよ」


頭頂部の寂しい中年男性が、夕食から戻って来るなり呆れたようにそう言って、リースに夕食の載った皿を渡した。マリアにも、眼鏡の真面目そうな男性が夕食の皿を渡してくれた。

初対面の印象が芳しくない彼の行動にマリアが困惑していると、リースが悪戯っぽく笑いながら教えてくれた。


「君を見た目で侮ったことを恥じているのですよ。彼も、連日この作業に追われて心の余裕を失っていましたから」


こんな作業の真っ最中に、大した能力もない人間が雇ってくれと言い続けて来たら、苛々するのも当然だ。あの時の彼の苛立ちは真っ当なもの――マリアは素直に礼を言い、夕食を片手に仕事に戻った。




どれぐらいの時間その作業を続けていたのかはマリアにも分からなかった。

時間など気にすることもなく、とにかく目の前の山を減らすことに集中した。積み上げられた山々がようやく床に座っているリースの顔が見えるぐらいの高さにまで減って来た時、マリアと目が合ったリースがはっとなった。


「ああ、いけない。もうこんな時間じゃないですか。今日はここまでにしましょう。クリス君も休んでください。えーっと……あった。遅くなりましたがこれを渡ししておきます」


そう言ってリースから渡されたのは、また書類だった。三センチはありそうな分厚い書類の束で、紙が古い。くたびれていて、ところどころ書き込みのようなものがある。筆跡は二人分……。


「私も商売のことなんか何もわからないまま商会に入りましてね。当時の事務長さんが親切で優秀な方だったんです。商売についての知識や覚えておくべき単語をまとめたそれを、私に作ってくれたんですよ。いやぁ、いつか私もそれを渡す立場になれたらなぁと思いながら勉強していた頃が懐かしいです」


リースの説明通り、それは「商売」というものについての教本のようなものだった。

エンジェリク語で書かれているが問題ない。文章量は多いが読みやすく書かれているし、これをまとめた人は本当に優秀だったに違いない。


「ありがとうございます。今晩中に覚えてきます」

「そこまで頑張らなくていいです。無理な勉強をして倒れられたら、そっちのほうが大変ですから。お願いですから私を見捨てないでください」

「……無理のない程度に勉強してきます」


宿舎へ帰って行く他の従業員と共に、マリアも宿舎へ戻った。


マリアに割り当てられた部屋は簡素なものだった。ベッドが二つあり、すでにオフェリアは眠っていた。

マリアの姿を見て、ナタリアがホッとしたような笑顔で出迎えた。


「お帰りが遅いので心配しておりました。大変なお勤めだったのですね。どうぞ、こちらを。ハンナ様はお優しい方で、オフェリア様を労って夜食をくださいました」


テーブルの上に置かれたカゴには、小さなパンがいくつも入っていた。形は少々歪で、おそらく夕食の余りだろう。


「オフェリアは大丈夫だった?」

「最初は戸惑われておりましたが、私が考えていた以上に物覚えが良く、素直なオフェリア様は食堂のみなさま方から気に入られたようですわ。明日の朝食もお手伝いすることになりました。朝が早いので、クリス様を待つとおっしゃるオフェリア様を私が説得して眠っていただいたところです」


オフェリアを起こさないよう、マリアは静かにベッドに近づいた。ぬいぐるみを抱きしめてはいるが、眠るオフェリアは少しリラックスしているようにも見えた。


「クリス様、ここには共同浴場がありますよ。混浴なのですが、商会の方々はエンジェリク人が多く、入浴の習慣がないのであまり利用しないそうなのです。ためしに私とオフェリア様も利用してみたのですが、人はほとんど来ませんでした――夕食の片付け後、私たちが入ると知った食堂の女性方が男性を追い払ってくださったのもあるのでしょうが。おかげでオフェリア様の髪も綺麗に染め直すことができました。クリス様も入ってみてはいかがですか?この時間なら、いっそう人は来ないかと……」


風呂。

あまりにも魅惑的な誘いに、マリアも思わず乗っかってしまった。


キシリアは東に広がる異国の文化の影響を受け、風呂は庶民の間でも親しまれていた。例にもれず、マリアも風呂は大好きだ。

大好きだが……一応男のふりをしているマリアでは、入ることはできなかった。ナタリアは人は来ないだろうと言ってくれたが、さすがにそこまで油断はできない。せいぜい袖をまくって、腕や足を拭く程度だ。


それでも、浴層の縁に座って足をつけているだけでも数日の疲れがほぐれた。


「先客がいたか」


突然聞こえてきた男性の声に驚き、マリアは浴槽の中に転げ落ちそうになった。なんとかバランスを取り、少しだけ振り返る。


「ホールデン、伯爵……」

「そう恐縮する必要はない。ここの利用は平等だ。上司も部下もない」


自分の肩越しに見たホールデン伯爵は、当然裸だった。下のほうを見ないように気をつけながら、マリアは浴槽から出た。


「早々に君と話す機会ができるとは思いもしなかったな。そう急いで出ようとせずに、キシリアのことなどを教えてほしいのだが……」


出て行きかけた足を、思わず止めてしまう。

――たしかに。

こんなことでもなければ、いまの自分がホールデン伯爵と話す機会はないだろう。

彼と話してみたい……。自分よりはるかに博識で、多くの情報を持つ伯爵と近づけるチャンスを逃すなんて、もったいなさすぎる。


でも男性の裸なんて、父親のものですら見たことはない。

耐えられるのか自信はないが……。


ちらりと伯爵を見てみれば、浴室に蔓延する湯気のおかげで彼の姿もはっきりしない。焦点を合わせないようにすれば、なんとかなるかも。

マリアは意を決し、改めて浴室に足を踏み入れた。


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