少女の終わり
「お姉様、待ってよぉ……!」
ぐずぐずと半ベソをかきながら追いかけてくる妹を振り返り、マリアは苦笑しながら溜息をつく。
「オフェリア、あなたは本当に泣き虫ね。すぐ泣くのはおやめなさい、みっともないわよ」
「マリアは厳しいな」
父親が笑いながらそう言うと、だって、とマリアは反論する。
「オフェリアはもう十歳になったのですから。いつまでも泣いて誰かに何とかしてもらおうとする癖をやめさせなくちゃ」
友好国の王族の血を引く母、国の宰相である父を持つマリアは、幸福な少女だった。
容姿にも才能にも恵まれ、マリアも自分の優秀さをよく知っていた。唯一の心配は、いつまでたっても幼さが残る妹ぐらい。それも、姉の自分が厳しく躾けていけばいつかは直るに違いない。
幸福な少女は、何の憂いもなく幸福に育ち、幸福な未来を確約されているものだと信じていた。
――自分たちを守ってくれた父親を失うまで。
「マリア、オフェリア、どうしてここへ来たんだ。すぐに国を出ろと言いつけてあったはずだぞ」
「どうしてもお父様にお会いしたかったの。お父様、国王陛下を弑逆なさったなんて嘘ですよね?お父様が国家反逆者だなんて何かの間違いですよね?」
逮捕された父は、貴族の別邸にて監禁されていた。
おかげでマリアは父に会えたのだが、こんなところで拘束されていることが父の逮捕がいかに不当なものであるかを物語っている。
国王弑逆の国家反逆者なら、国の兵士が小隊並の規模で連行し、厳しい監視のもと監獄へ送られるはずだ。ろくな警備もない民家で監禁なんて、その程度で済むはずがない。
オフェリアは事態が飲み込めないまま父に抱きついて泣きじゃくっていたが、マリアは涙を流さず、ただ必死に考えていた。
誰が父を国家反逆者に仕立て上げようとしているのか。どうすれば父を助け出せるのか。
だがマリアよりはるかに賢く知恵が回るはずの父が告げた言葉は、残酷なものだった。
「マリア、私が生き残る道はない。おまえの言うとおり私は無実だ。だがここで逃げ出せば、私の罪は確定してしまう。この杜撰な警備状態はわざとだ。相手からすれば、私が逃げ出してしまっても構わないのだから。その行動が自白と取られてしまう。しかしここに留まっていても、すぐに処刑されてしまうだろう」
「どうしてですか?例え国家反逆であっても、王が――王になられた王太子殿下が処罰を言い渡さねば、そう簡単に処刑など――」
「その王太子殿下を追い落とすための企てなのだ、今回のことは。殿下はいま王都を離れ、突然の父王の訃報に混乱し、この陰謀をすぐに見抜くことはできないだろう。この絶好の機会に、私の命など最大限利用したがるはずだ。私が自由になれる日はもう来ない。だから」
自分の肩をつかむ父の手がかすかに震えているのを、マリアは感じた。
これが今生の別れになる。父親はもう生き残るつもりがないのだということを、わかってしまう自分の知性が恨めしかった。
妹のように、何もわからないまま泣きじゃくっていられれば、どれほど幸せか……。
「すぐに町を出なさい。私に何かあった時のことは、家の者たちに言いつけてある。彼らの指示に従って国を出るんだ。エンジェリクにおまえたちの伯母がいる。交流のないおまえたちを歓迎してくれるかはわからないが、この国にいては身が危ない。私は彼らの一族をことごとく追放し、処刑してきた。だから彼らも、女子供だからと見逃すはずがない」
「お父様は敵が誰なのかご存知なのですね。誰なのですか?」
マリアは必死に詰め寄ったが、父親はただ首を振るだけだった。
「復讐は考えないでくれ。権力を握るということは、常に死と隣り合わせになるということだ。弱肉強食の世界で、誰かを蹴落として私も登りつめてきた。油断すれば負ける。負ければ死ぬ。そんな世界に飛び込むと決めたのは他ならぬ私だ。マリア、恨むのなら、守るべきものがありながら敗北し、おまえたちを危険にさらす私を恨みなさい。自分たちの敵が誰なのか、私の言葉で判断するのではなく、おまえ自身の判断で相手を決めるんだ」
父親は、自分にしがみつく娘を引き離した。
年齢よりずっと幼い知性を持つ妹は、いまもまだ状況が理解できていないだろう。
ただ父が恐ろしい目に遭うことだけはわかっている。ここで別れれば二度と会えない。漠然とした不安だけは感じ取っているようだった。
「オフェリア、もう行きなさい。姉様の言うことをよく聞くんだよ」
「いや!いや、いや!お父様も一緒に来て!一緒じゃなきゃいや!」
いつもは素直で聞き分けのいい妹は、駄々をこねて泣き喚いていた。
母親を早くに亡くしたのに、父親まで失ってしまう。その恐怖はマリアにも痛いほど理解できた。
「オフェリア、私たちがここにいてもどうにもならないわ。でも生きて逃げのびれば、お父様を助けることができるかもしれないの。だから逃げるのよ」
努めて優しく、穏やかに妹にそう言い聞かせると、マリアは父を見据えた。
「お父様。お父様は負けてしまったのかもしれませんが、セレーナ家が負けたわけではありません。私たちは生き延びるのですから」
マリアの言葉に、父は笑った。大きな手でマリアの頭をポンポンと撫でる――それが、マリアが最後に見た父の姿だった。
父親に背を向け、泣きじゃくる妹の手を握って振り返ることなく立ち去った。
屋敷へ戻ると、大勢の使用人たちが慌ただしく右往左往していた。侍女頭のカタリナが、マリアたちが戻って来たのを見て急いで侍女を集めて駆け寄って来た。
「お嬢様方、すぐにお支度を。マリア様はこちらの服にお着替えください。オフェリア様はこちらへ……オフェリア様のブロンドはキシリアでは目立ちますから、黒く染めなくては……」
オフェリアは染料を抱える侍女たちとともに自分の部屋へ連れて行かれた。マリアも着替えのために自室へ戻ったが、侍女たちの手伝いを断った。
「これぐらいなら自分で着れるわ。ドレスじゃないもの。髪を染めるほうが時間がかかるでしょう。オフェリアのほうへ行って」
「ですが、お嬢様も髪をまとめませんと……」
マリアに渡された服は、明らかに男物だった。まだ身体が女性になりきっていないマリアなら、男物の服を着れば性別を誤魔化せる。そのために長い髪をまとめようと侍女が手伝いに来ていたが、マリアは首を振った。
「そんな面倒なことをしてどうするの。髪なんかまた伸びるわ」
机の引き出しを開け、小振りの短剣を取り出す。小さな悲鳴をあげる侍女たちを無視して、ためらうことなくマリアは自分の髪を切り落とした。
少し癖があって柔らかい鳶色の髪は父親譲りだ。妹の流れるように美しい金髪が羨ましくて、自分も手入れをしてきた。妹は母親と同じ金髪で、お父様じゃなくてお母様に似たかったと拗ねて、父を困らせたこともあった……。
「……荷造りもすでに終えております。お嬢様、こちらをお持ちください」
カタリナから渡されたのは、数枚の銀貨と巾着いっぱいの銅貨。宝石。食料。母の形見のネックレスにセレーナ家に代々伝わる家紋入りの短剣、両親の結婚指輪、そして小さな肖像画――若き日の父母が描かれている。結婚したばかりの頃の姿だ。
「宝石は足がつきにくいものを選んでおりますが、売り払う際は十分ご注意ください。そちらの品々は……どうか、人目につかぬよう……お嬢様たちがお持ちください。この屋敷には置いておけませんから……」
カタリナの言葉に、マリアは顔を上げた。
朗らかで、その明るさからいつも屋敷に笑顔をもたらしてくれた侍女は、悔しさに唇を噛み、涙を流していた。
「旦那様からのご命令で、屋敷に火を放ちます。王の敵に、この屋敷の物を一切与えたくないと」
セレーナ家の財産で敵を喜ばせたくないという父の想いを、マリアも尊重したかった。だが屋敷に火を放つということは、セレーナ家に伝わる全てを灰にしてしまうということだ。思い出も、父母や祖父母を始め先祖たちの絵も、すべて……。
「……お願いね、カタリナ。辛い役目だけど、父の願いを必ず果たしてちょうだい」
「心得ております――ナタリア!」
マリアに頭を下げると、涙をぬぐい、カタリナは自分の娘を呼んだ。
娘のナタリアは、母と共にセレーナ家に仕える侍女だった。マリアより少し年上だが、すでにその優秀さを発揮していた。
「マリア様とオフェリア様をしっかりお守りするのよ」
「はい、身命を賭してマリア様とオフェリア様をお守りいたします。卑劣な賊になど、お嬢様たちは渡しません」
いつも冷静なナタリアの声は震えていた。
何故なのかは聞かなくても分かっていた。娘にマリアたちのことを任せるということは、カタリナはもう自分が生き残る道を考えていないということだ。
母娘の決心に、マリアは水を差すつもりはなかった。
父と自分の決心を誰にも何も言ってほしくなかったように、カタリナとナタリアも他人から口を挟まれたくないに違いない。ナタリアの動揺に気付かなかったふりをして、カタリナから渡された服に着替えた。
「カタリナ様、言いつけどおり数人の者にマリア様のドレスを着せました」
侍女の一人が、ドレスを着た女たちを連れてカタリナに声をかけた。自分のドレスを着た女たちは、髪の長さこそバラバラだが全員茶色に染めており、その姿はまるで――。
「彼女たちには護衛をつけて逃げるよう指示してあります。少しでもお嬢様たちから目を逸らせれば……」
「私とオフェリアが生き延びるために、何人が犠牲になるのかしらね」
自嘲気味にマリアが呟くとカタリナが押し黙った。
力を持つ者が敗れるということは、こういうことなのだ。そして父の力にすがって生きてきた自分たちが生き残るのは、これだけの犠牲を払っても困難なことなのだ。
自分の身代わりになっていく女たちを、マリアは止めなかった。自分たちが生き残るためには、彼女たちを見殺しにするしかないのだから。
「マリア様、申し訳ありませんがオフェリア様のお部屋へいらしてくださいませ!オフェリア様が泣き出してしまって、私たちだけでは……」
マリアがオフェリアの部屋へ駆け込むと、妹の周りでオロオロと戸惑う侍女たちと、ぬいぐるみを抱きしめて泣き叫ぶオフェリアの姿があった。
侍女たちは大泣きする妹をなだめすかして説得しようと試みているが、オフェリアは近寄ることすら拒絶している。
「いや!これは持っていくの!誰も来ないで!いや!」
「オフェリア様、それは私たちがお預かりしますから……お部屋に置いていきましょう?ほら、他のお人形たちも一緒ですから寂しくありませんよ」
オフェリアが持っている熊のぬいぐるみは、明らかに高価で稀少な物とわかる代物だった。
当然だ。母が、娘のために自分のドレスを切って作ったぬいぐるみなのだから、どこででも買えるような物ではない。
顔も覚えていないうちに母を亡くしたオフェリアにとって、あのぬいぐるみは特別だった。
「そのぬいぐるみは持って行ってもいいわ。でも荷物の奥に隠して、決して人に見せてはだめよ。もし見つかったら、いまみたいに取り上げられてしまうわ」
マリアが優しく話しかけると、少し落ち着きを取り戻したオフェリアは荷物の中にぬいぐるみをしまいこんだ。
しゃくりあげる妹を、マリアはしっかり抱きしめる。
妹は美しかった金色の髪を黒く染め、粗末な灰色の服を着ていた。おしゃれが大好きで、こんな服、普段なら手にも取らないようなものだ。お気に入りのドレスも髪飾りも、幼い頃から一緒だった人形たちも全部、この屋敷に残していかなくてはならない――他の品々と同じように、炎の中へ消えていく……。
大切にしていたものを何もかも取り上げられ、混乱する妹が不憫でならない。妹を守る力すらない自分が、悔しくてたまらなかった。
「マリア様、すぐにお屋敷を出てください!取り囲まれてしまう前に、早く!」
松明を片手に持った執事が、血相を変えてやって来た。
屋敷はいっそう騒がしくなっていた。執事と同じように松明を持った使用人たちが、あちこちに火を放っていく。カタリナに先導されながら屋敷の中を走り抜けたマリアは、思い出の詰まった品々が火にくべられていくのを横目で見ているしかなかった。
「そっちから出られないよ」
姉に手を引っ張られて走るオフェリアが、不安そうに言った。
「門からは出られません。塀の脆くなっていたところ壊して隙間を作らせています。そこからお嬢様方はお逃げください」
裏庭を横切ると、カタリナの言うとおり男たちが塀の一部を破壊していた。小さな隙間をこじ開けながら、早く、とマリアたちを急かす。
「私が先に出ます。私が出られるのなら、マリア様たちも問題なく出られるはずですから」
母親に別れの言葉を告げることもなく、ナタリアは隙間を這って塀を出た。向こう側から顔をのぞかせ、まだここには気づいていないようです、と促した。
「オフェリアを先に」
オフェリアを先に行かせたマリアは、屋敷を振り返った。
大きな火がすでに屋敷を包み始めていた。燃え盛る炎に混じって、悲鳴が聞こえてくる。何が起きているのかを考えないようにしながら、マリアは塀の隙間を這い、屋敷を出た。
塀の外は屋敷の中よりずっと騒がしかった。怒声のようなものがあちらこちらから聞こえてきたし、蹄の音が近づいてきている。何者なのかはわからないが、自分たちに友好的な存在ではないことだけは確かだ。
妹のオフェリア、侍女のナタリアを伴い、町の外を目指してマリアは一目散に走った――燃え盛る屋敷にも、自分を逃がそうとしてくれた人たちにも振り返らず。