不埒なカノジョ
その町には、小さいながらも公衆浴場があった。
いつもは風呂付の宿に泊まっているのだが、広い風呂があるのならそっちに入りたい。マリアのそんな希望で、伯爵とノアも彼女と共に公衆浴場へ向かった。
……残念ながら、彼女は服を着たままだ。
「公共の場ですから、不埒なことは禁止ですよ」
入る前にマリアから念を押されて伯爵はちょっと面白くなさそうな顔をしたが、ノアがすかさず止めを刺す。
「伯爵。ここは混浴ですよ。マリア様の肌を、見知らぬ男たちに見られても構わないのなら、彼女の服を脱がせてください」
浮気を容認しているが、好きこのんでマリアの肌を他の男に見せたいはずがない。
伯爵は、マリアと共に入浴することを断念した――即決であった。迷う余地もない。
風呂用の薄手の寛衣だけを着て、マリアは浴槽の縁に腰かけ、足だけ湯につけて風呂を楽しんでいた。
そんな光景に、伯爵が笑う――別に、いやらしい意味ではない。
「そうしていると、出会ったばかりの頃を思い出す。君がまだクリスと名乗っていた頃のことだ」
「もちろん、私も覚えておりますわ。ちょうどこんなふうに……ヴィクトール様とノア様は湯につかっていて、私は服を着たままで。ヴィクトール様のお背中を洗ったり、何気ないおしゃべりをしたり」
初めて男の裸というものを目撃することとなり、当時のマリアは盛大に焦ったものだ。
いまやすっかり慣れてしまったが……楽しい思い出だ。
「その流れで、ついでにもう一つ思い出したのだが……少し気になっていたことがある。いや、なに。大したことではない。些細なことなので、私もいままですっかり忘れていたのだがな――」
それはまだ、彼女がクリスと呼ばれていた頃のこと。
マリアは風呂が好きで、ここでは年相応の顔をすることが多かった。幼い妹を抱えているマリアは大人びていて、いつも気を張っていて。
伯爵がマリアを風呂によく誘うのは、彼女をリラックスさせるためでもあっただろう。若干、彼にも邪な思いがないとは言い切れないが。
そんなある日。浴槽の縁に座っていたマリアが、どこかぼんやりとしていた。
丁度ノアと伯爵が、どうでもいい世間話をしていたところで、少しの間、彼女が会話から外れてしまっていた。
ぼんやりと物思いにふけるその様子にノアが気付き、伯爵も気付いた。
二人でじっとマリアを見つめているが、彼女は気付く様子もない。
静かに伯爵が彼女に近づき、にやりと悪戯っぽい笑顔を浮かべ、彼女の膝を指でトントンと突く。マリアのリアクションを期待するように、ニヤニヤと――ノアは呆れ、ため息をついた。
ハッとマリアが我に返り、伯爵と視線が合うと……その近さにギョッとなって……びっくりして体勢を崩し、盛大に浴槽の中に滑り落ちてしまった。
「クリス君!」
驚きのあまりパニックを起こしたのか、水深一メートルもない湯の中でマリアは溺れかけていた。
ノアが急いで抱き起し、マリアを湯から引き上げる。水面から顔を出したマリアは、ノアの腕の中でゲホゲホとせき込んでいた。
「伯爵!悪ふざけが過ぎますよ!」
「すまん……そこまで驚かれるとは思っていなかった。悪かった、クリス。これは私が悪い――」
ノアのお説教に、伯爵は素直に謝罪した。彼も予想外の展開に驚き、マリアの背をさすって真剣に心配していた。
まだ咳き込みながら、いいえ、とマリアも首を振る。
「僕が、間抜けなだけです。びっくりし過ぎて……自分で自分が情けない……」
全身ずぶ濡れになってしまい、マリアは先に浴室を出ることになった。
まだ時々咳き込んでいて……心配で、自分もマリアに付き添って一緒に浴室を出たかったのだが、それをするとかえって彼女は困ってしまう。
見送ることしかできないのを歯がゆく感じながら、ノアは彼女の背を眺めていた。
伯爵も同じように彼女を見送り、ぽつりとつぶやいた。
「……まずいな」
伯爵の言葉に、ノアが振り返る。
「濡れたことで、服がクリスの身体に貼り付いて、身体の線がはっきり出てしまっている」
ノアは思わず、白い目を向けてしまった。
大変な目に遭わせてしまったというのに、その張本人が、彼女をそんな目で見ていたなんて。
ノアは何も言わなかったが、視線の意味を察したように、誤解だ、と伯爵が続ける。
「あのまま部屋に戻ることはできん。着替えなければ……だが、あの子は着替えを持ってきていないだろう」
あ、とノアも声を上げかけた。
そうだった。
マリアは、自分は風呂に入るつもりがなかったから、着替えを持ってきていない。
ノアも浴槽から上がり、浴室の隣にある更衣室に向かった。
室内の様子をうかがってみれば、大きな鏡の前で、自分の姿を見ながらマリアは立ち尽くしていて。
彼女も気付いたのだろう。この姿では外に出れないことに。
当時の彼女は、まだ女性らしい変化が始まったばかりだった。
だから男のふりをするのもさほど困難なことではなかったのだが……さすがにこの状態は無理がある。
オロオロとしているマリアに、自分の姿を見せないよう入り口に隠れながら、ノアが声をかけた。
「クリス君、着替えはありますか」
ノアの声に、マリアが身をすくめるのを感じた。
同時に、姿が見えないことにホッとしたのも感じて。お互い見ないふりで、何気ない会話を続ける。
「私の着替えを着てください」
「え、でも……それじゃあ、ノア様が……」
「私は着てきた服を着ればいいだけですから。あとで伯爵を恨んでおきます」
少しの間マリアは迷っていたが、他に手がないと諦めたようだ。ありがとうございます、と丁寧に礼を述べ、ノアの服を着始めた。
後日、きちんと洗濯された状態で服は返ってきた。
伯爵が辞退し、その服はそのままマリアのものに――譲るのは構わないのだが、なぜそれを伯爵に仕切られなくてはいけないのか、という不満はあった。
……たぶん嫉妬だろう。
そんなこともありましたね、とマリアはくすくす笑う。
浴槽の縁に肘をついて、マリアの顔を覗き込むように伯爵は彼女を見上げる。
「あそこまで驚くとは、いったいあの時、何を考えていたのだ?」
「あの時ですか?えっと……かなり不埒なことです」
苦笑いで、マリアは視線を逸らす。
マリアが考えていた不埒なこと。伯爵は大いに興味をそそられたようだ。
「あの頃の私は、男性の裸にも慣れてきて。実は、ヴィクトール様やノア様の身体を観察していたんです。それで、その……どうしても見れない場所が。じろじろと見るわけにもいきませんし、さすがにあの頃の私には恥ずかしさもあって……でも、自分にはないものなので、やっぱり興味もあって」
思った以上に不埒なことで、ノアは目を瞬かせた。伯爵も虚を突かれたような表情で……やがて、悪戯を思いついた子どものようにニヤニヤと笑い出した。
「ならば、部屋に戻ったら君の好奇心を満たすことにしようか」
「結構です。それより私……お風呂に入りたいです。お二人が広々としたお風呂で寛いでいるのを見ていると、悔しくてたまりません。私も服を脱いじゃいたいです……別に、混浴でも構わないのですが」
「絶対ダメだ」
間髪入れずに却下され、マリアは頬を膨らませる。
「……そうおっしゃるだろうとは思っていましたけど。仕方ありません。部屋に戻って、私、改めてお風呂に入ることにします」
浴槽から出ようとするマリアに伯爵は近づき、意味ありげに笑いながらマリアの足を突く。
「たまには、私が君の身体を洗ってあげるべきかな」
「身体を洗うふりをして、不埒なことします?」
「さあ」
とぼけたように肩をすくめる伯爵に、マリアは平然とした表情で……。
「しないのですか?じゃあ、いいです」
浴槽の中にずり落ちそうになり、ノアは湯の中に沈みかけた。
さすがの伯爵もぽかん、とした後……やがてマリアたちに背を向け、ぐったりした様子で浴槽にもたれかかった。
「……マリア。部屋に戻ったら覚悟しておけ」
「あらあら。そういうことは、部屋に戻れる状態になってからおっしゃってくださいな」
高笑いしそうな勢いでマリアは笑い、足取りも軽く浴室を出て行ってしまった。
残された伯爵とノアは、しばらく互いに沈黙し――やがて、伯爵は背を向けたままノアに命じた。
「冷水を桶に入れて持ってこい。頭から被る」
はいはい、と内心面倒くさく感じながらノアは水を取りに行く。
――もしかしたら。湯の中に落とされたこと……彼女はちょっと根に持っていたのかも。




