オルディス家の女 (1)
ガーランド商会との別れは、後ろ髪を引かれる思いだった。
オフェリアは号泣していたし、ナタリアも涙を堪えていた。考えていた以上に、商会から離れることは辛いことだった――マリアにとっても。
「王都で待っている。また会おう」
「はい、必ず。きっと、皆さんに会いに行きます」
王都へ行けば、ガーランド商会に――ホールデン伯爵に会える。それは非常に心強く、そしてマリアの励みになった。
でも、会いに行くのはしばらく先になるだろう。逃げるために、伯爵に会いに行きたくない。もう十分助けてもらったから……ただ守ってもらうだけの人間でいたくないから。
伯爵が用意してくれた馬車の中、見送る人たちの姿が見えなくなってもオフェリアは商会のある方向を見つめていた。
母親の生家に向け馬車で旅を続けたマリアは、初めて見るエンジェリクの土地を観察した。高原や山など、高低差のある土地であったキシリアに比べれば、エンジェリクはなだらかな土地が広く続いている。
――万一また自分たちだけで逃げることになっても、キシリアの時ほど酷いことにはならないかしら。
新しい土地は別れに悲しむオフェリアの心を少しだけ浮上させてくれたようだったが、オルディスの屋敷に着いた途端、マリアは自分の不安が的中したことを思い知った。
「スカーレット・オルディスの娘マリアと、妹のオフェリアです。ローズマリー伯母様にお取り継ぎ頂けませんか」
マリアたちに応対した侍女は、あからさまに怪訝そうな眼差しを向け、値踏みするようにこちらを見た。蔑んだような彼女の視線にオフェリアは怯え、マリアの後ろに隠れた。
身の証明として母の形見でもあるオルディス家の家紋が入ったネックレスを差し出せば、ようやくマリアたちを屋敷内へ招き入れたが――マリアは激しく失望していた。
冷たい対応にではない。侍女のレベルの低さにだ。
家紋が刻まれたネックレスを、彼女はずいぶんとぞんざいに受け取っていた。きちんとしつけられた侍女ならありえないこと。
この程度の侍女を雇っているのが、オルディス家なのか。仮にもエンジェリク王族の血が流れ、公爵位にあるはずの貴族が雇うには、あまりにも不適切だ。
屋敷の中に通されたマリアは、さらに失望した。
広い屋敷ではあったが、内部の装飾はセレーナ家のものと段違いに劣っている。一応体裁は整えられているが、応接間の椅子や机なども粗末なものであることをマリアは見抜いていた。
いったいオルディス公爵家はどうなっているのか……。マリアが考え込んでいると、応接間に一人の男性が現れた。
マリアの父より若く、少し頼りなさげな風貌ではあったが、マリアとオフェリアを見つめる目には温かさがあった。
「マリア。オフェリア……。ああ、間違いない。本当にスカーレット様の娘御たちだ」
男性は座っているマリアとオフェリアの前に跪いてかがみ、二人の顔を見比べた。
「ご両親にそっくりだ……。初めまして。私はエリオット・オルディス。君たちのおじにあたる。私たちに面識はないが、君たちのご両親には会ったことがあるんだよ。私たちの結婚式にも来てもらったからね。キシリアで大変なことが起きたと聞いて、心配していたんだ。無事でよかった」
そう言ってにこにこと笑うおじに、マリアは今度は拍子抜けしてしまう。屋敷の様子からして、まさかこんなにも善良なおじがいるとは思いもしなかった。
……もっとも、妹のことを考えれば善良な人柄に感謝すべきなのだろうが。
「空き部屋をひとつ、君たちに与えよう。といっても、掃除もできていないから大した部屋ではないが……」
「置いていただけるだけでも十分です。ご厚意に感謝します」
おじの案内で与えられた部屋に向かっていたマリアは、淡い茶色の髪を持つ美しい女性と出会った。イミテーションだらけのこの屋敷には似つかわしくない、豪奢な衣装をまとった美女で、その面立ちにはどこか母スカーレットと似通ったものがある。
「ローズマリー、君の姪たちが訪ねて来てくれたよ」
やはり、美女はマリアたちの伯母だった。
近寄りがたい雰囲気があるのは、着こんだ衣装のせいでも、厚化粧のせいでもないだろう。ちらりと自分たちに視線をやった伯母は、一瞬だけ冷酷な色を浮かべたものの、すぐに興味を失くしたようにそっぽを向いた。
「嫁いだにもかかわらずのこのこ戻ってくるとは。さすが恥知らずな妹の子だけあるわ」
そう言って、伯母は夫に笑いかける。その笑みの邪悪さに、マリアは軽く目を見開いた。
「それとも、あなたが招き入れたのかしら。その小娘を自分のものにしてしまえば、オルディス家の実権を握ることも不可能じゃないものね。良かったわね、器量は悪くなさそうだし、楽しめそうじゃない」
「よさないか。親を亡くした子を前に!」
おじが叱っても、伯母は動じた様子もなく鼻を鳴らして笑い飛ばし、さっさとどこかへ行ってしまった。
伯母との短い邂逅を終え部屋に案内されたマリアは、憤慨するナタリアをなだめた。
「落ち着いて。私たちを傷つけたいという伯母の思惑が見え見えよ。あんな嫌味、私は腹も立たないわ」
「すみません、努力はしているのですが……。本来なら、マリア様もオフェリア様もあんな人に見下されるような立場ではないのに……悔しくてたまらないんです」
「怒ったり悲しんだりすれば相手を喜ばせるだけよ。オフェリアも気にしていないみたいだし」
知性の幼いオフェリアにはあの台詞の意味が分からず、嫌味であることも理解できていないようだった。もっとも、悪意を向けられたということだけは理解したようだが。
ドンドン、と乱暴にドアが叩かれ、オフェリアが怯えてマリアに抱きついた。マリアの返事も待たずに侍女が部屋に入って来て怒鳴る。
「いつまでかかってるのよ!?荷物置いたらさっさと厨房に来て、仕事を聞きに来なさい!」
無礼極まりない侍女の物言いにナタリアが眉を吊り上げたが、マリアが先に口を開いた。
「すぐ行きます」
品性のかけらもなく扉を閉めて出ていった侍女を見送り、マリアは溜息をつく。
「大丈夫よ、ナタリア。想像していたよりはずっとましな状況だから」
「そうなのですか?」
「強がりじゃなくて本当に。私が一番恐れていたことは、何も関わらせてもらえないことだもの。どうすがりつくか悩んでいたのに、屋敷の滞在もあっさり認められたわ。上手くいきすぎて怖いぐらい。ただ、私はこれでいいんだけどオフェリアは……」
伯母の悪意や無礼な侍女の態度に、オフェリアはすっかり怯えてしまっている。
マリアの危惧していた通り、妹はここへ連れて来るべきではなかった。
「オフェリアからは、あまり離れないほうがいいでしょうね。私かナタリアのどちらかはついているようにしましょう」
ナタリアが頷く。彼女も、オフェリアが一番危ないということはわかっているようだった。
指示通り厨房へ向かったマリアたちは、当然だが家事や雑事を押しつけられた。
高飛車な物言いで命令してきた侍女は嫌な笑みを浮かべてマリアたちの様子を観察していたが、マリアは気にしなかった。
ナタリアはキシリアにいた頃から屋敷ですでに侍女として働いていたし、オフェリアはガーランド商会で家事の類は身に着けてきている。 お嬢様育ちの自分たちが失敗することを期待していたのだろうが、特に問題なくクリアしていく。
一番不慣れなのがマリアなぐらいだ。マリアとて、慣れないだけで要領よく覚えていけば難なくやってのける自信はあった。
予想に反して下働きをこなす自分たちに苛立つ者もいれば、気の毒そうにマリアたちに視線をやる者、トラブルが起きないことに安堵する者もいた。
人の心の機微を見抜くコツは、商談に対面した時にマリアが覚えたことのひとつだ。伯爵ほどの腕はないが、ここの人間は割と露骨に顔に出るのでマリアでも見抜くことは難しくない。
どうやら、召使の中にも色々いるらしい。全員が敵というわけではなさそうだ。積極的に敵意を向ける者もいれば、敵意を向けるつもりはない者もいるし、どちらにも関わりたくないという者もいるようだ。
――ただ、どのような立場であってもマリアたちを助けてはくれないだろう。マリアたちに敵意を向ける側が一番声が大きいようなのだから。
「お腹が減ったわ食事はまだなの!?」
厨房に、キーキーとうるさくわめく少女が入って来る。
ふくよかな体型で、不摂生をしているのかそれとも年頃だからなのか、顔には吹き出物が目立つ。着ている物は上等だが、やたらと派手なばかりで品がない。
彼女が誰なのかすぐ分かったが、自分たちと同じ血を引いているのかと疑いたくなった。
「すぐにご用意しますわお嬢様。お菓子をどうぞ。こちらを召し上がってお待ちくださいな」
マリアたちに無礼な態度を取り続けていた侍女が、慇懃無礼なほどへりくだった表情で少女の機嫌を取る。だが少女は、厨房の片隅で芋の皮向きをしていたオフェリアを睨んでいた。
「あの子、誰?」
「お嬢様が気にするほどの者ではありませんわ。今日から働くことになった下女です」
嘲るつもりでそう紹介したのだろうが、マリアはむしろホッとした。
はっきり言って、マリアは少女を蔑んでいる。見た目というのは内面を映す鏡でもある。品のない頭の悪そうな格好をしている女だ。その見た目通り本当に品性も頭も悪い女に違いない。
そんな女が、ブロンドの美少女が自分のいとこだと知ったらどう思うか――。
「ちょっといつまでやってるの!さっさと皿運びを手伝う!」
侍女の一人が、オフェリアを怒鳴りつけて食堂に向かわせる。
マリアは嫌な予感がした。
あの侍女は、少女がオフェリアをきつく睨んでいるのに気づいていた。わかっていてわざとオフェリアに給仕をさせに行ったのなら……。
「手伝うわ、オフェリア」
オフェリアの手から重い食器をサッと取り上げ、マリアは声をかけた。
「私はそいつに命じたのよ。余計なことしないで、自分の仕事をしなさい!」
「私の仕事は優先する必要のないものでしょう。お腹をすかせたお嬢様を待たせてでもやらなければいけませんか?明らかに非力なオフェリアにやらせて、食器をひっくり返したりしたら大変だと言うのに。食事がすべてダメになっても構わないと?」
むしろそれを期待していることは分かっている。だからこそマリアは、皮肉たっぷりに笑顔で反論した。
侍女が顔を歪めたが、マリアも微笑みながら冷たい視線を送り返す。
――たかが三流の侍女風情が、口で私に勝てると思わないことね。
食堂では、例の少女が食事をしていた。その配膳の手伝いをするのだが……あまりの光景にマリアは唖然としてしまった。
少女の食事マナーは、仮にも公爵令嬢のものだとは思えなかった。
皿を抱え込んで、汚らしい咀嚼音をまき散らしながら料理を貪る。チーズや肉は皿を舐める勢いで掻きこんでいたが、野菜のほとんどは手をつけず――いや、手にとって床に投げ捨てていた。
家畜でももっと上品に食べるのではないだろうか。
口いっぱいに頬張った少女は、空になった杯をテーブルにガンガン叩きつけた。
「さっさと水を入れに行きなさい!気が利かないわね!」
侍女の一人がオフェリアに怒鳴りつけたが、腹が立つよりも先に、あの少女は「おかわり」という単語すら知らないのではないかと疑いたくなった。
オフェリアが水を注ぐのを、気味の悪い笑みを浮かべて少女が見ている。水を入れいている杯をつかんで、オフェリアの顔に投げつけた。
「きゃっ!?」
「何をしているのよ!床が水浸しじゃないの、さっさと掃除しなさい!」
すかさず侍女の一人が怒鳴り、周りで見ていた他の侍女たちがクスクスと笑った。少女もゲラゲラと下品な笑い声を上げていた。
――なんと幼稚な。
杯を思い切りぶつけられた額が痛むのと、水浸しになったショックでグズグズと泣き出すオフェリアに替わり、マリアが掃除に取り掛かった。侍女がまた怒鳴ったが、マリアは無視してオフェリアに声をかけた。
「私がやるから、あなたは着替えてきなさい」
「勝手な真似を――」
「ずぶ濡れになった子をここにいさせて、何の役に立つんですか?むしろ掃除が増えるばかりで邪魔でしょう」
侍女の言葉をぴしゃりと遮り、マリアは床を拭く。少女のそばまで来た時、スープの入った皿をこちらに傾けているのを、視界にとらえた。
掃除をしているふりをして椅子の下に手を伸ばし、椅子の足をつかんだ。
「ぎゃあっ!」
少女の重たい身体ごと、椅子がひっくり返る。食事マナーの悪い彼女は、椅子の座り方もよろしくなかった。不安定な椅子は、マリアの力でも簡単に倒れた。
「申し訳ありません。掃除に熱中するあまり、お嬢様のことを見失っておりました」
キーッと怒鳴る侍女に、マリアは涼しい顔で答える。少女がどう反撃するか様子をうかがっていたが、思いもかけぬ方向に彼女は怒りを爆発させた。
無様にひっくり返ったまま、テーブルクロスを引っ張ってテーブル上の食事やら食器をすべて床にたたき落とす。そして近くに転がってきた皿やナイフを放り投げまくった。
これには身の危険を感じたらしい。マリアたちを怒鳴りつけていた侍女たちも、顔色を変えて少女の機嫌を取り始めた。
「お嬢様、デザートにケーキがございますわ」
「マドレーヌも焼いております。すぐに持たせましょう」
「いえ、ここは散らかっていますし、お部屋でゆっくりと……」
少女の機嫌を取ることを優先した侍女たちは、ちゃんと掃除しておきなさいよ、と適当に言いつけ、食堂出て行ってしまった。
残って片付けをしていたマリアのもとへ、自分の仕事を終えたナタリアがやって来た。
「遅くなってすみません、手伝います」
「私はいいわ。それよりオフェリアが心配なの。部屋に戻って着替えをしているはずだから、そっちを追いかけて手伝ってきて」
はい、と返事をしつつも、ナタリアは何かを気にしているようだった。
「……あの、先ほど廊下でずいぶんと存在感のある少女を見かけたのですが……。召使いたちからお嬢様と呼ばれていたということは……あの方は、公爵令嬢なのでしょうか」
「信じられない気持はよく分かるわ。あれがいとこだと知って、私も衝撃を受けているところだから」




