孤独な頂
オフェリアを迎えにヒューバート王子のいる離宮に戻ろうとしていたマリアは、うっかり出くわしてしまったエンジェリク王に思わず足を止めてしまった。
「そうあからさまに不愉快そうにするでない。王に対して不遜が過ぎるぞ」
王を見て硬直するマリアに、気分を害した様子もなく王は笑う。
「婚約者の父親に口説かれているとなれば、思い悩むのが普通の女です」
「このような時にばかり普通を主張するな。時に公爵、時間はあるか」
マリアは返事の代わりに沈黙した。
あまり良い予感がしないが、露骨に拒むわけにもいかない。やはり、機嫌を損ねるわけにはいかない相手だ。
「余の部屋にも立ち寄るが良い――そう警戒するな。悪さはせぬ。エステルのもとへ行っていたのだろう。あれはそなたを気に入ったようだからな。そなたの機嫌を損ねて、二度とエステルに会いに行かぬ、などと言い出されては困る」
王は、エステルへの贔屓を隠す様子がない。それがなぜなのか……探ってみたいとは思うのだが、恐らくその感情すら利用されているのだろうな、とマリアは思った。
そこまでエステルに肩入れする理由に、マリアなら必ず関心を抱くと考えて。
その挑発に、あえて乗っておくことにしよう。
王がマリアを誘惑したがること自体は悪くない。その誘惑に、気付かないまま落ち込んでしまいそうなのが不安だ。
部屋の前でナタリアは待機することになった。マリアを王と二人きりにすることを気にしているようだが、これに関してはララであってもどうにもできない。
レミントン侯爵がエステルの部屋を見張っていていては、エステルを呼びに行くのも躊躇いがあるし。
悪さはしないと言った王を信じるしかない。前科ありまくりなので信頼には欠けるが。
「そなたにも、これを見せておこうと思ってな」
マリアンナ王妃とエドガー王子の肖像画の隣に並ぶ、新しい絵――ヒューバート王子だ。
その画風には見覚えがある。これはメレディスが描いた肖像画に違いない。
「なかなか腕の良い絵描きであった。聞けば、ジゼル王妃の絵にも心当たりがあるそうでな。なんでもフランシーヌに渡った経験のある友人が、ラプラス王家の絵をいくつか所有しているそうだ。その絵をもとに、ジゼル王妃の肖像画も描くと話しておった」
フランシーヌに渡った経験のあるメレディスの友人。
シルビオのことだろうか。
シルビオはフランシーヌ宮廷に援助を求めに行った父親フェルナンドと共に、フランシーヌへ行ったことがある。
革命が起きて、ラプラス王家の財産は革命者たちの物になったと聞いていた。
滅んだ王家の絵というのはあまり価値がない……フェルナンドが、価値のない遺産を息子に押しつけたというのは十分考えられる話だ。
それでシルビオは、フランシーヌで過ごしていた頃に描かれたフランシーヌ王女ジゼルの肖像画を所有していたのかも……。
「ヒューバートとも、久しぶりに会話をした。他愛ないものではあったが……そのような他愛のないものに応じてもらえるだけでも十分だ。余のこれまでの行いを考えれば、蛇蝎のごとく嫌われていても不思議ではない。存在すら目に入れたくないと思われておっても当然だ」
マリアの手を取り、王が長椅子に腰かける。つまりは、マリアも王のそばに座れと言うことで――マリアは苦笑した。
「悪さはしないのではなかったのですか?」
「許せ。これ以上の手出しはせぬ……よう努力する」
国王を相手に色恋の駆け引きというのはリスクも大きい。マリアとて、そこまでの自信はない。
だが……逃げ出すのはマリアの性に合わない。結局、それに乗るしかないことは分かっていた。その覚悟が、なかなか定まらないだけで。
細いロープの上を歩くような道であることは覚悟していたはずだ。力が増したことで、自分は安全を優先するようになっていた。
それではダメだ。リスクなしに生き残れる世界ではない――それを承知の上で、飛び込んだはずなのに。
マリアは、王の膝に座った。
王はニヤリと笑い、マリアを抱き寄せる。唇を塞がれても、マリアは従順にそれを受け止めた。
「どのような心境の変化だ?先ほどまで余を拒絶しておったはずだが」
「陛下があまりにも私にご執心なので、味見をして頂こうかと。存外、口にしてみれば青臭くて期待外れかもしれませんよ」
「味見か。面白い趣向ではあるな」
さらにマリアの身体を抱き寄せて、王はマリアの髪に顔を埋めて来る。
だがマリアに触れてくる手つきは幼子が母を求めるそれと似ているような気がして、特に抵抗することなくマリアは王の胸にしなだれかかっていた。
「じっくりと人肌に触れるのも、ずいぶんと久しぶりだ。エドガーが亡くなってから、人に触れるという行為そのものから遠ざかっておった」
「それは何と申しますか……お気の毒です」
エドガー王子が亡くなって、十年以上の月日が経つ。気が置けない息子を失って以来、王が人に触れていない……考えてみれば、当然のことだ。
王など気軽に触れて良い相手ではないし、王もまた、己の身に降りかかる無用のトラブルを避けるためにも他人は遠ざけるもの。
十年近く、人に触れ合うこともできない。
妹のダイレクトな愛情表現も、下心込みではあっても愛人たちとのスキンシップも嫌いではないマリアから見れば、発狂ものだ。
「玉座にある以上、人から離れるのは当然のものと弁えてはおるが……。人の温もりや柔らかさを思い出すと、やはり離れがたくなるものだ。そなたのせいだぞ、責任を取れ」
からかうようにそう言い、王の手がマリア身体をなぞる。
ぺちっと、王の手を軽く叩いた。
「悪さはいけませんよ。私が許したのは、あくまで味見です」
「王を罰するとは何事だ。まったく、そのようなところまでマリアンナに似おって」
王は笑ってマリアの行いを咎めた。マリアを抱き寄せる手にいっそう力がこもる。
「そなたとおると、マリアンナと共に過ごした日々を思い出す。五十を過ぎた男が何を言うかと思うだろうが……余は、マリアンナがおらぬのが寂しくて堪らぬ。王とは孤独に生きる者と覚悟してこの道を歩み続けてきたが、マリアンナが必ず側にいてくれるものと過信しておった。一人で座る玉座に、時折発狂しそうになる」
「心中お察しします。私のような小娘の同情など、何の慰めにもならないでしょうが」
「十年も前であればそのように笑い飛ばしていたかもしれん。だが余も人生の終焉が近づき、いささか疲れたらしい。その言葉にすがりたくなる」
王の言葉は本心だろう。
長らく孤独に王の務めを果たしてきたが、そろそろ終わりにしたがっている。支えとなった人たちが次々と自分の下から去って行って、余計にその孤独を実感するようになった。
……だからマリアは妃になどなりたくないのだ。
王妃とは、孤独な王に常に寄り添い、それを支える役目を持つ。とても自分にその役割が果たせるとは思えない。
むしろ他者を振り回す側の気質を持ったマリアでは、いずれ妃などという籠に閉じ込められたことを恨み出す。
寄り添い、静かに支えて王を待つ――たぶんそれは、マリアよりオフェリアのほうが向いているだろう。
孤独に王子時代を過ごしたヒューバート王子は、王になればさらにその孤独が増す。オフェリアなら、そんなヒューバート王子を健気に待ち続け、必要な時に寄り添えるだろう……。
「パトリシア様は、陛下の支えとしては不足なのですか?」
公の場で、王妃が王の隣に立っている光景を見たことがない。
マリアの印象にあるパトリシア王妃は、あまり深くものを考えない女性のようだった。その能天気さを好む男性もいる。が、王の好みではないだろう。
「パトリシア王妃は政治にまったく関心がない。王の臣下としては、リチャード・レミントンのほうが有能だ。あちらも政治には関心がないのが難点だが」
王が言った。
「権力闘争には喜んで参加したがるが、手に入れた力を行使することにはとんと興味がないらしい。それでも、レミントン侯爵のおかげで余計な派閥争いが起きないのは事実だ。そちらを悩む必要がないだけでも、余にとっては助けになる」
宰相もそんなことを言っていた。
力を手に入れる過程には熱心だが、手に入れた力には興味がないとか。
変わり者だ――と思ったが、マリアも似たようなものか。オフェリアのために力を望んではいるが、それで得た力で何がしたいかと言われれば、特に思いつかない。
「パトリシア王妃のことはお飾りにすら扱っていないが、彼女からは感謝されてしまった。嫌がらせのような不当な待遇だと言うのに、その嫌味が通じないのでは言葉も出ぬ」
王が溜息をつく。
王妃は、どうやらおめでたい頭をしているようだ。王の険悪な感情にも気付けないのなら、かえって幸せ者かもしれない。羨ましくはないが。
リチャード・レミントンの名が出たことで、マリアはふと疑問がわき上がった。
「陛下。もしかして、私の声はマリアンナ様に似ていたりしますか?」
「鈍いニコラスもついに気付いたか。キシリア出身のそなたはエンジェリク語の発音が異なっているため気付きにくいが、たしかに、マリアンナと声がよく似ておる」
「いえ、指摘したのは宰相閣下ではなくリチャード様……レミントン侯爵なのです。遠回しな言い方でしたが」
――その声で侯爵と呼ばれると、違和感がある。
誰を重ねて言ったものだったのか、マリアはあの時になんとなく察していた。
リチャード・レミントンがまだ「侯爵」と呼ばれる立場になかった時代に関わった女性。マリアが似ていても不思議ではない女性。
そうなると、相手はおのずと限られてくる。
「マリアンナ大伯母様は、リチャード様とは旧いお知り合いでしたか?」
「知り合いと言えるほどの関係であったかどうか。せいぜい城で顔を合わせるぐらいだろう。接点がなさ過ぎる。ただマリアンナが存命の頃は、レミントン家の当主はリチャードの父親のほうであった。爵位もまだ伯爵家だったな」
「そうなのですか……」
レミントン侯爵のあの態度から、侯爵と大伯母には何か個人的な関係があったのではと考えていたのだが……侯爵は目端が利く男だ。宰相すら気付かなかったマリアと大伯母の共通点に気付いただけかもしれない――ということにしておこう。
邪推をして、大伯母の名誉を傷つけたくはない。
「せっかくの申し出だ。もう少し、そなたを味見させてもらうとするか」
襟元のボタンを外され、マリアの白い首筋を王の唇が這う。
男物の服は脱がしにくい。
しかし、それがかえって男の情欲を掻き立てているような気がしないでもない。ドレスなどより、よほど身体の線が出ている。
「陛下。もしや、男の姿をしているほうが好みだったりしませんか」
以前、押し倒された時も、マリアは男物の服を着ていた。最初の時はドレスだったが、黒い飾り気のないもので。
もしかして王にはそういう趣向があったりするのかも、と素直に疑問をぶつけたら、苦笑されてしまった。




