ある女の名前
「ねえ、彼女のお話を聞かせて。キシリアの魔女の物語」
少女にねだられ、男は笑う。
何か物語が聞きたいと言われて、一緒に本棚を物色していたが――結局、彼女の好きな……いつも語って聞かせている、ある女性の物語が良いそうだ。
「またそのお話ですか?もう何十回と話して聞かせましたが……本当に、彼女のお話が好きなんですね」
「だって、憧れちゃうんだもの!本当にあったお話なんでしょう?宰相だったお父様が亡くなって……守ってくれる相手を失って、それでも自分の道を真っ直ぐ生き抜いた、マリアの物語……。たくさんの男の人から寵愛されて、大国の王様まで誑かして、傾国の悪名を歴史に刻んだ女性。すごいよねぇ……憧れちゃう!」
「彼女に憧れるのは、さすがにちょっと……。強く、気高く、自分の心のままに生き抜いた女性ではありますが……彼女の生き方を真似するのは、おすすめできません」
うっとりとした表情をする少女に、男は苦笑するしかない。
彼にとっても、大切で……特別な女性だった。だから彼女の話を語って聞かせるのは嫌いではないが……やはり、憧れるような生き方ではない。
きっとマリアも、ただ幸福な少女のままでいられたのなら――そんな生き方が、できたのなら。
「噂で語られるマリアは、淫乱で奔放で、男を堕落させる魔女……でも、マリアの近くにいた人たちは、あんまり彼女のことを嫌ってないのよね」
「はい。私も、彼女のことはいまでも愛しています。無邪気にはしゃいだり、わがままを言って不貞腐れたり、甘やかしてくれる相手には拗ねて振り回したり……。日常の彼女は、どこにでもいる、普通の女でした」
少女のようなあどけなさを、いつまでも失わない女性だった。
父親と死に別れて、早くに頼る相手を喪ってしまったから、彼女は少女であることを捨てて女になるしかなかった。
女になって、たったひとつ残った大切なものを守り抜こうと、必死で。
故郷キシリアから逃げ出したマリアは、大国エンジェリクに渡り、多くの男の寵愛を得て、ついには王すらかしずかせるほどの女となった。傾国と呼ばれるようになり、絶大な力を持ったが……。
手に入れた権力と地位に対し、彼女が本当に望んだことは、とてもささやかなものだった。
本当は……ただ、愛する人との平穏を……何気ない日常を、守りたかった。それだけだった……。
「やっぱりマリアのお話がいいわ――もう、決めたから。ほらほら、早くお話を聞かせて!」
「……分かりました。長いお話になりますよ。始まりはキシリア……彼女がまだ、父親に守られて幸せに暮らしていた頃から」
その時代のキシリアには、偉大な王がいた。
だがどんなに強い光を放つ王にも、薄暗い影が付きまとうもの。
王には、王位継承をめぐって争った腹違いの兄がいた。宿敵とも呼べる兄との戦いは、いまだ決着がつかず――そんなキシリアの王に仕えているマリアの父親は、当然、その戦いと無関係でいられるはずもなくて。
そして……敗北した。
父親の敗北によってマリアは全てを失い、故郷を逃げ出すことになった。妹と一緒に。
「でも、それがきっかけで、マリアは運命の相手に出会えたのよね!悲しいことばかりじゃなくて、幸せなこともちゃんとあったのよね!」
話し始めたばかりなのに、もう少女は口を挟んでくる。何度も聞かせた話だ――彼女も、先を聞きたくてたまらないらしい。
「そうですね。出会いと別れが切り離せないように……貴種流離譚の中で、彼女は多くの悲しみと、それと同等以上の幸せを得てきました。さて……それじゃあ、そろそろ本格的に、お話を始めましょうか」
男が言えば、少女も姿勢を改め、黙って話を聞き始めた。
――始まりは、マリアの故郷キシリアから。
絶対的な庇護者であった父親を喪ったマリアは、たった一人の家族となってしまった妹を連れ、故郷を逃げ出した。
無力さを思い知り、自分の道に悩んで……そして歩み続けた、道の先。
傾国と呼ばれた女の物語。