スタートライン
暗闇の中を当てもなく歩き回る。
歩いている感覚だけで、足元すらも見えない。自分の足音も聞こえない。
気が付いたら歩いていた。ゆっくりと、たどたどしい動きで。
此処が何処で、自分が誰かも分からない。
自我を取り戻し、足を止める。
終わりのない恐怖に襲われ、汗が伝う。体の震えが止まず、己の胸ぐらを握る。
全身の力が抜けて、不安に押しつぶされるようにその場に崩れ落ちる。
そのとき、身体が宙に浮く。
違う。落ちているのだ。
そのまま底に打ち当たり、内臓を叩き出されるような痛みに襲われる。
「目覚めましたか?」
その瞬間、世界が光を取り戻す。音を取り戻す。
見慣れない光景に唖然とする。
起き上がらないまま、首だけを動かし周囲を見渡す。自分を包み込んでいるものを手触りで確認する。
ほのかに木の匂いを感じるような壁。人一人が快適に生活できる小さな部屋。そこでベッドで横になっているようだ。
先程歩き回ってい空間は感覚上の世界であったと気付く。
「ここ、は・・・・・・?」
ゆっくりと体を起こし、自分でも上手く聞き取れないような声で呟く。
「あっ、あの。大丈夫ですか。」
右耳から人の声が伝わり、身を震わす。
隣には白髪を肩ほどの長さで綺麗に切り揃えた、空色の瞳を持つ小柄な女性が座っていた。
「誰・・・ですか。」
そこで初めて自分の声を確認する。泣いた後のような、震えた声だった。
「貴方、すごく辛そうで。路地裏で倒れていたの。えっと、正しくはゴミ捨て場の上で・・・・・・ううん、なんでもない。それで貴方を連れてきたの。」
そんな所で眠った覚えはない。
「ずっと泣いていたわ。恐い夢を見ていたの?」
少し驚き自分の頬にそっと触れると、確かに涙の痕跡があった。泣いていたのだ。
自分のことを何も思い出せない。何故泣いていたのかではない。自分が誰なのかも思い出せない。
両手を目の前で動かしてみる。人の形をした青白く細い手は何不自由なく動く。
「夢だったのかな」
ぽつりと口から零れる。
真っ暗な世界を歩き回り、果てしない孤独感に襲われていた。足先の感覚だけで、それ以外に何も感じられなかった。先の見えない恐怖に震えていた。
「すみません、まともに言葉も返せなくて・・・。目が覚めても、夢の中で感じていた恐怖が抜けなくて。自分の中には何もないみたいで、涙が、止まらなくて・・・・。」
話している途中、心臓を喰い荒らすような虚無感に襲われ、涙が溢れてくる。
「いいんですよ、泣いたっていいんです。大丈夫です、貴方には残ってますよ。今まで生きてきた証拠は、貴方自身なんですから。」
少し驚いた風にしてから告げられたそれは温かく優しい声色で、何故だか安心させられた。
まだ名前も知らない彼女は力むだけで折れてしまいそうな腕をこちらに伸ばし、背中をさすってくれた。
それからずっと泣き続けた。自分の中に溜まった悲しみを吐き出すように涙を流し続けた。部屋には自分の小さな嗚咽が響いていた。
心の排泄物を出し切ったように、涙は止まり、気分は良くなった。
「顔、洗いに行きますか。」
彼女は、自分が泣いている間ずっと背中をさすってくれていた。白く透き通った肌はとても温かかった。
涙に塗れてぐしゃぐしゃになったであろう顔を洗いたい。
「・・・・・はい。」
そこで初めてベッドから降りた。
見た目に反して丈夫なのか、床は一切軋まなかった。木製の建物のようだったので侮っていた自分が少し申し訳なくなる。
「案内しますね。」
そう言って彼女も立ち上がると、少し先を歩いて別室まで先導してくれた。
先程の部屋は二階だったらしく、階段を下る。廊下は小屋以上屋敷未満というか、少し広めの一軒家のような長さだった。扉もいくつかあり、シェアハウスというのが妥当だろうか。
洗面台に辿り着き、顔を洗う。
「何か気になる所がありましたか?建付けなどは、問題ないと思いますが。」
首をぐるぐると回しながら歩いていたせいで異様に思ったのか、声をかけられる。
「いえ、そういうわけでは。その・・・・・珍しいな、と。こういう建物、最近中々見ないですよね。キャンプ場のログハウスみたいな?でも、それにしては広くて、不思議な感じです。」
鏡で自分の姿を確認し、タオルで顔を拭きながら笑ってそう答える。しかし、彼女の反応は予想に反し、驚いた様子だった。
「珍しい・・・・・ですか?ログハウスは主流ではないのですか?」
いくら自分のことがわからないとはいえ、常識ぐらい分かる。東京で暮らしていてログハウスなんて見たことがない。それなのに主流って。
話が合わず、首が傾く。と、彼女が何かに気づいた風に息を呑む。
「も、もしかして、街で育った方でしたか。あああああすみません!とんだご無礼を!」
彼女が先走って話すので、完全に置いていかれた。ついていけなくなった。
「こんなみすぼらしい家にお招きしてしまい、申し訳ございません。どうか、お許しを・・・・・。」
慌てた様子で謝罪を口にされるも、何も理解できない自分には意味を成さない。
街の人?そんなに身分の差なんてあるのか?そもそもここは街ではないのか?
「えっと、ごめんなさい。あぁ、何から訊いたらいいのか・・・・・。まず、そんなに低くならないで。頭を上げて。身分の差とか全然わからないし、多分自分はそんな変わらないと思うから。」
焦って自分でも何を言っているのかわからなくなる。
涙目でこちらに目を向ける彼女は想像以上の顔をしていた。
「そうなんですか?それはよかったです。訊きたいことがあるなら、なんでもお答えします。立ち話もよくないので、さ、居間へどうぞ。」
彼女は胸を撫で下ろすと、安堵からか、早口で告げる。
洗面所からは近くに居間はあった。扉を開くと、広い空間が広がっていた。大きなダイニングテーブルに椅子が六つ並べられている。
「どうぞ、座ってください。」
椅子を手で示し、対面する形で腰を下ろす。
「すみません。話を上手くまとめられなくて。一度整理したいので、紙とペンを貸していただけませんか?」
混乱している状態では訊きそびれることがあるだろう。先程まで考えていたこともいくつか忘れている。それに、聞いたことを忘れないようにしておきたいのだ。
「どうぞ。そうですね、書ききるまでの間、私はお茶を淹れてきますね。」
居間を出て取りに行くも、すぐに戻ってきた。
さて、どうまとめようか。
まずは現状の把握からだ。
ここはどこで、彼女は誰なのか。そして、自分はどのような状態で倒れていたのか。細かいことは訊きながら書き足せばいいだろう。
先程、鏡で自分の姿を確認したときに、多少のことは思い出せた。と言っても、簡単な自己紹介ができる程度。自分が今まで何をしてきたのか、詳しくはまだわからない。しかし、これくらいの情報があれば、初対面の人を相手にした会話はできるだろう。
「お待たせしました。熱いので、少し冷ましてから飲んでくださいね。」
そう言って差し出されたのは、香りの良い紅茶だ。
彼女は席に着き手元のメモに目を向けると、難しそうな顔をして首を傾けた。変なことは書いていない筈だが。
「それじゃあ、質問。まずは、貴方について。」
無難な問いから始める。会話を進め易くするためでもある。
「私の・・・・・・名前はユノ。生まれは知らないです。拾い子だったみたいで、詳しいことは知らないです。勉強はあまり好きじゃなくて、たぶん貴方よりもよくないです・・・・・。でも、生活には困らないですよ!仲間もいるので、知識の共有もできますし!。」
複雑な過去を持ち合わせているようで、そこについては言及しないでおこう。
「ゆの・・・さん」
「ユノでいいですよ。あと、もっとラフな話し方でも。」
呼称についてのこだわりは特にないようで、親し気に接してくれる。
しかし、珍しい名前だ。どんな漢字を書くのだろうと、思いつつ平仮名でメモに記す。
「私も、同じ質問していい?貴方について、教えて。」
ゆのの質問にはなんの違和感もない。一方的にこちらから尋ね続けるのは失礼だろう。
なんとか思い出した記憶で自分のことについて話す。
「四ノ宮結衣。十六歳。高校は覚えてない。家は、東京ってことだけで。制服で調べられるかな?そしたら自分のこともう少し詳しく分かるかも。」
一通り話し終えるも、ゆのは腑に落ちない点があるようだ。
「うん、ありがとう。シノミヤユイさん。」
たどたどしく、慣れない様子で口にする。
「ゆいでいいよ。多分これが今一番知りたいことなんだけど、ここはどこ?」
この返答で帰り道なども考えなければならない。詳しく訊いていこう。
「トーキョー?までどのくらい離れてるかはわからないんだけど。ここは、街から少し歩いた先に在るアンディルという村外れの家です。私とあと五人、此処で暮らしています。皆個性豊かで、共に支え合っての生活はとても楽しいですよ。」
ゆのはとびきりの笑顔で話を占める。
いや、おかしい。『あんでぃる』?そんな地名聞いたことがない。いくら学力が足りていない自分とは言え、そんな妙な名前は頭から離れるはずがない。
今まで積み重なってきた違和感と摺り合わせる。
白髪に透き通った空色の瞳を持つ女性。西洋人形のようなポンチョをまとった服装。素材の香りを漂わせるログハウス。そして『アンディル』という聞き慣れない地名。
日本ではないのか?ドッキリなのか?どうやって帰ればいい。
「ねえ、ゆの。街とか、文化についても詳しく教えて貰える?その、目覚めるまでの記憶が曖昧でよく覚えていない。というか、全然分からない。」
この疑問をどうぶつけたら佳いのかわからず、躓きつつも丁寧に尋ねる。
「そうだったんですか。記憶がないのなら、周囲のことも気になってしまいますよね。そうですね・・・・・王国についてから話してからがいいですかね。」
今までの不審な行動と合点がいったらしく、スムーズに話が進む。
アイコンタクトをとり、続きを促す。
「ここは全てのマナを司る神、ルメットを信仰する国、ルートリアの中心都市の外れです。ルメットはマナを創り出し、人々にその力を分け与えていると言われています。国の人は皆それを信じて崇拝しています。中心都市・・・・・先程まで口にしていた街は中心都市のことです。街には国で一番の規模の教会が在るので、人の行き来が盛んですね。ルートリアは王国です。女王、シエルがこの国を治めています。女王は誰よりも信仰心が深く、人が好いと聞きますが、貧富の差なんて目も向けないような人ですよ。そんな在りもしない神なんか信じて。」
女王の話になってから少しずつ声が聞き取れなくなる。
ルートリアなんていう国、教科書にすら載っていない。話にあった人が多いことと王の所在からもそれなりに大きな国なのだろうと予想がつく。
マナを司る神がいるという、ファンタジーの欠片のような話もあった。
何度も浮かぶ言葉を『まさか』と否定する。
「マナが分け与えられている、なら、何かできるの?」
迷信の一つだろう。霊能力の類の話だろう。
『まさか』そんなこと、あるわけがない。
「何かって、魔法のことですか?それは当然。ユイさんもできるでしょう?」
しかし、必死に否定してきた言葉はあっさりと打ち消される。
純粋な瞳で魔法を当然のことのように扱う。
最後の質問、
「魔法、見せてもらえたりする、かな。」
恐る恐る尋ねる。
これで実演できなければ質の悪いドッキリか何かだ。
『まさか』できる筈がない。
「はい、勿論できますが。私の場合、炎魔法ですね。」
次の瞬間、目の前に小さな炎の柱が出現する。
「それ、どういう、その、手品、ネタ明かし、みたいな、教えてほしい、な。」
言葉が上手く出てこない。未だに否定している。
魔法を否定し続ける。