四話
坊主ボクサーは拳を構えると体を左右に振りながら和仁の間合いに入る。
しかしジャブを打とうとした坊主ボクサーは急に円を描くようにスウェーさせてから後退する。
「信じられねよ。俺のジャブに合わせて来るのなんて十回戦以上の連中なのに、ステップも刻まねえのに意味わかんねえ」
「びびってんじゃねえ!お前のリズムで入れ」
「う、うす」
和仁がどれだけフェイントを掛けながら入っても喉元への突きの姿勢を崩さない事に戦慄した坊主ボクサーだったが、初老男に発破を掛けられ焦りが募る。
一呼吸おいて焦りの感情を押し込んだ坊主ボクサーは、頭に浮かぶ動きに身体を任せる事にする。
坊主ボクサーは五割ほどの速さで頭を左右に振りながら和仁へ迫ると、左のジャブのフェイントで間合いに入り全力で左に頭を振りながら右のロングフックを和仁の突きに被せる形で合わせる。期せずして和仁に仕掛けたコンビネーションは、小西を脅かした時に戦った和仁の父の義幸に仕掛けたのと同じものになっていた。
和仁が予想通りのタイミングで体を進めるのをロングフックの姿勢に入っている坊主が見て取り、拳が当たる瞬間まで軌道を修正していく。
しかし、坊主の肩上へ突き出てくるはずの間山の拳は無く、和仁の身体が回転していく。
鍛え上げられた坊主の動体視力が、和仁の身体の回転に吸い込まれるように右のロングフックが取られたのを見た後、一瞬の天井の画を最後にすべてが暗くなる。
坊主の勢いと和仁の体重が坊主の後頭部へすべて乗るように和仁が投げ落としたのだった。
右膝を付いて投げ終わった姿勢のまま坊主の意識が絶たれている事を確認する和仁だが、右肩に何かがぶつかる軽い衝撃と共に体の中に違和感が滑り込んでくる。
「君の先生に用事があってね。悪いけど邪魔されては困るんだ」
和仁は自分の肩に入っている異物を触るとナイフの柄だという事が分かり、拍動に合わせて服が濡れて行くのを感じる。
「おお!あんただったか。愚孫が失礼した。心遣い感謝かんしゃ」
着流しに羽織を着た老人がいつの間にか入って来ており、初老男から視線を外さずに和仁の横に進み立つ。
「和仁よ、まだまだじゃな。場を感じる事が出来るように稽古せい。あの人はお前を殺すことも出来た。感謝してこれからの糧にせい。あと気持ち悪いと思うがナイフは抜いちゃいかんぞ」
「はい・・・わかりました」
「戸浦君、和仁を病院へ連れていってやってくれ」
「じいちゃん、俺、最後まで見ていきます」
間山和仁の祖父で師匠の間山勘治が和仁の肩の出血を確認すると、「ま、好きにせい」といい雪駄を脱ぎ裸足になる。
「そこに寝ている弟子から」
和仁に気絶させられた坊主ボクサーに初老男が一瞥しながら、
「話を聞いてあんたか、あんたの弟子だろうと思っていたよ。私自身がまだこの世界に居れる事と、あんたが現場に来てくれている幸運に感謝だ」
「お互いこの世界が長いと試す機会なんて限られて来るからのう。じゃあやろうかい」
だらんと開いた両手を腰の前に置き右半身に構える堪治と、軽くステップを踏みながら右拳だけ顔の横に左拳を自然に垂らした左構えの初老男は、堪治はじりじりと初老男は前後左右に体を振りながら近づいていく。
初老男が、スッと左のジャブの届く間合いに入るのと同時に左手が伸びる。
が、その実、左ジャブは伸びていなかった。その場に居た格闘技を何らかの形で見た事のある者にはジャブが伸びたように見えたが、実際は手が出ていなかった。
堪治は出ていないジャブに合わせて左手で拳を、右手は肘を取りに初老男の左側面へ入って行く。初老男は実際には出ていない左を取りに来る堪治を、余裕をもって腕の間を狙った右のアッパーで迎え打つ。
堪治の体は初老男の左ジャブに完全に騙されていたが、目で捉えている初老男の位置と手に来るはずの衝撃が無い事から、敵に近い右手は初老男の喉元へ左手は正中線において敵の攻撃に対応できる姿勢を取る。右手が喉元を捉えたらそのまま背後に回りつつ腰のベルトを左手で取り頭から投げ落とすつもりだ。
初老男は右のアッパーを打ち始めているが、堪治の右手の意図と左手で防がれる事を悟り、無意識のうちにアッパーを止めると左手で堪治の右肘を弾きながら距離を取る。
軽く一つ二つステップを踏むと初老男は巧みにフェイントを交えつつ堪治に迫る。
脳みそではなく体の反射での攻防は、その場に居た者たちにはじゃれながら体を入れ替えているだけに見えるが、その実は相手に致命傷を与える為の布石の応酬で、少しの甘さも許されない。この中で一番見えている和仁でも二手三手目まで追いかけるのが精一杯だった。
二人が応酬を目まぐるしく三度、四度と交わし、五度の応酬の後、初老男は少し弾んだ息を交えながら、
「ああ、この体験に比べたら報酬など何の価値も持たない。今のやり取りだけでも十分だが、もしあんたが良ければ弟子に掛けた相手の動きを封じる技を私に掛けてくれないか?」
と堪治に声を掛ける。
「こちらこそ、こんないい稽古は何年振りか分からんよ。そちらの申し出、願ってもない事よ」
「手は、こうでいいか?」
初老男は左手の甲を堪治に向け胸の前に挙げる。
「では」
堪治は右手で初老男の左手を取る。
「お?おお?」
初老男は動こうともがいているようだが、つま先立ちになったり踵だけで立ったりと挙動がおかしくなる。そうこうしているとおかしかった挙動に一歩二歩と普通のステップが混じるようになり、体も前後左右に揺れ始める。
右フック一閃。
初老男が自分を捉えている堪治の右手へ右フックを寸止めで突き付けていた。
「状況が許すのなら是非道場に来て下され」
「ありがたいお言葉。状況が整いましたらお邪魔します。おい!帰るぞ」
初老男が気絶している坊主に近づき、踵で鳩尾の辺りを弾くように踏むと坊主は目を覚ます。もう一度「帰るぞ」と初老男に言われた坊主は「うす」と小さく答えると、周りのパーカーボクサー集団の気絶している者には活を入れ、動ける者に動けない仲間に肩を貸すようにと指示を飛ばす。
「ちょっと!おやじの依頼で、俺たち守ってくれるんじゃねえのかよ⁉どういう事だよ?」
撤収を始めてしまった初老男へ、呆然と成り行きを見ていた要徹が我に返ったように声を掛けるが、
「誰もが何かの損得勘定で動いているもんだ。報酬は謹んで返させてもらうと伝えといてくれ」
「え?それって、は?」
「愛香を返してもらいます」
誰が見ても憧れるような肉体の要の前に、身長はあるが細くみすぼらしい小西が改めて進み出る。
「ふざけやがって‼」
太くしまった四肢を怒りで震わせながら要は、近くに立っていたライトスタンドを掴むと躊躇なく小西の頭にぶつけていく。
小西は、稽古で必ず練習させられていた右の喉突きを要へ放つ。
要のライトスタンドは勢いがあるが弧を描き、小西の喉突きは遅く見えるが最短距離で喉へ突き進む。
向かい合う二つの攻撃は同時に小西と要にぶつかる。
要に当たった拳は喉からけっ!という声を鳴らし、息の出来ない要をのたうち回らせ、ライトスタンドは突きと一緒に顔の横に挙げられていた小西の左腕で弾け、頭を防ぐ代わりに切り傷と打撲と肘の捻挫を与えていた。
「あなた達もやりますか?」
ベットの上で愛香を抑え込んでいた男達に、左腕から血を滴らせながら小西が散らばったライトスタンドの破片を拾い向き直ると男達はちりじりに離れて行く。
「愛香、帰ろう」
破片を投げ捨てた小西は、床に落ちている愛香の服を拾い優しく渡した。
今日の稽古場は空気が少し浮ついているように小西は感じる。
屈強な男達の汗と畳の臭いの場に似つかわしくない可憐な中川のせいだなと小西は思う。普段この間山堪治の稽古場は、稽古歴二〇年の近所の奥様か男勝りの堪治の妻の春子しか居ないわけで仕方ない事かとも思う。
今日は和仁が退院したとのことで、小西と中川は稽古場へ感謝の挨拶に来ていた。
「哲夫が変わるきっかけになったことを私もやってみたい」
要徹との事、それがきっかけで堪治の稽古場に通い出したことを説明し挨拶に行こうと言った小西に、それなら稽古を体験してみたいと中川は言い出していた。
「そうそう、そこで手首を取って、こっちに捻るの。おっとと、上手いわねえ。小西君より筋がいいかもしれないわねえ。ほほほ」
前もって体験の件をお願いしていたからか、春子が付いて中川を教えている。
小西は傷が癒えない為、稽古は見学だ。
さらわれた中川愛香を助け出した小西哲夫、間山和仁、堪治、戸浦守人だったが、和仁は深くナイフを刺され数日入院、小西は左腕を縫い骨にはひびが入っていた。
小西は中川を救えてひとまず稽古場へ通う動機を達する事が出来たのだが、無理のない範囲でこのまま稽古場へ通い続けようと思い始めていた。稽古へ通いだして型紙の理解が深まったことを小西は感じていた。自分の身体を動かし捻られ投げられ抑え込まれ、今度はこちらが同じことをする。型紙の理解は身体の理解が進んだからだろうと小西は思う。最近は専門学校での学習が更に面白くなってきていた。
「小西さんがボクサーに襲われて、それを父が祖父に伝えてから、僕と戸浦に小西さんの動向を探るようにって祖父に言われていました」
小西の隣で同じく見学していた和仁が、稽古への視線はそのままで話しかける。
「祖父も父もそうだったようなのですが、何かの縁で出会った人がもし困っていたらできる限りの事をするっていうのが家訓というか、そんなのがありまして・・・」
和仁は左肩のナイフを刺されたところをさする。
「こんな未熟な僕が大それたというかなんと言うか・・・ヒーローでもあるまいしナイフだって刺されてしまうのですが、祖父は危険な事を解っていてやらせるんです。それが人のためになるならって」
「和仁さん、僕は事実、堪治先生、義幸さん、和仁さんと戸浦さんに助けていただきました。感謝してもしきれません」
「ありがたい言葉です。どうか小西さんの身の回りを調べた事、ご容赦ください」
「そんな」と、身振りを交えながら和仁に恐縮しっぱなしの小西に、力及ばずながらと照れ臭そうに肩をすくめる和仁は感謝の言葉を言われとても嬉しそうだった。
「こういう事は何度か経験しているのですが、あの場面で祖父が来るとは思いませんでした。何かあれば連絡をするようにと祖父に言われていました。強い人が居るとかで僕じゃ手に余るような時、現場へ応援に来るのは父か古参の兄弟子が来るのが常でした。おそらく父からボクサーの動きの特徴を聞いた時から自分が行くことを決めていたのだと思います。現場でのやり取りで会ったことのある方だったようですし、あのボクサーとは昔なにかあったのだと思います。しかもあんなに危険な状況なのに祖父はものすごく楽しそうでした。稽古場と実戦は違うとよく祖父は言いますが、祖父もまだ実戦で強くなろうとしているのかもしれません」
小西と和仁は嬉々として指導にあたる堪治を目で追う。とても八十を過ぎた老人には思えない動きだ。
しばらく稽古を無言で見た後、
「今のお話と稽古を見ていて思ったのですが、堪治先生に技を掛けられると何もわからず倒されてしまうのですが、和仁さんぐらい稽古されていると受ける時の感覚は違うのでしょうか?」
と小西が聞くと、和仁は少し悩んだ後に答える。
「始めた頃と比べればわかるようになりましたが、今でもわけがわからない事ばかりです。自分が進んだ分だけ・・・もしくはそれより早いかもですが、祖父も進んでいるので追いつくことはないのだと思います」
「そうですか」と答える小西は、和仁の技も十分何をされているか分からないわけで、続けるとは決めたが大変なものを始めてしまったのではないかと思い始める。
「技っちゅうのは人を映す鏡みたいなもんで、その人となりが出るものじゃ」
稽古をする全員に聞こえるように堪治が話し出す。
「小西君、速く体を治すんじゃぞ。こんな素敵な人をものにするんじゃ。きっとわしらには見せていない部分があるはずじゃからのう。みんなでこってり絞って、小西君の魅力を研究させてもらわなきゃならんからのう」
稽古場の全員がどっと笑顔になる。
「さあ、今日の稽古はこのくらいにしとこうか」
堪治が言うと、稽古していた者たちは堪治を先頭に正座で並び、正面の神棚に一礼。そのあと堪治含め全員が「ありがとうございました」と一礼し稽古が終わる。礼が終わった後は、各々自主的に稽古する者、歓談する者、帰る者と思い思いだ。
「私も通う事にする。なんか向いているかもしれない、私」
稽古を終え小走りで小西へ駆け寄ってきた中川は、紅を刺したように赤みを帯びた頬と唇、汗ばむ肌が妖艶で小西の下腹は勝手にうずいてしまっている。
中川が「春子さんがね・・・」と今日の感想を話し出す。日頃自分を見る男の動向を敏感に観察している中川だが、今はそれがまったく無い。純粋に稽古を楽しめたようだ。
無邪気に感想を語る中川を見て、改めて守れてよかったと小西は思う。
幾重にも重なる感謝の気持ちを、堪治に、義幸に、和仁にどう伝えたらいいだろうと小西は分からなくなるが、まずは率直に言葉で伝えようと思った。
時系列としては、和仁や守人が高校を卒業してからの話です。
これから書きたいと思っているお話を考えると、高校時代の二人ような気もするのであまり突っ込まれると困ってしまいます(汗)
少しでも楽しんでいただけたら幸いです。




