二十七話
(二十七)
氷の入ったビニール袋を後頭部に当てながら、稽古を見学できるまで回復した花本優翔は、「お⁉」「おっとと」「む!」「おわ!」などと声を出しながら楽しそうに、しかし真剣な表情で汗を振りまきながら稽古に取り組む先輩門人達を見て、今ならば声が出てしまう理由が分かる気がした。普通の稽古でも時折、声を出す組が居たが、優翔の武道経験では稽古で声を出すのは気声を発する時以外無く、楽しそうに稽古をする門人達を横目で見ていたのが、優翔にとって竜神流へ不信を募らせる一つの要因になっていた。
(あの声は虚を付かれて、笑う事しか出来ない状況にされているから出る声なんだ・・・)
優翔も自分が間山和仁との稽古で声が出ていたのではないかと思い返してみたが、分からなかった。恐らく自然に出て来てしまう声で「うわ!」とか言っていたような気がしたが、和仁の“打ち込み取り”が強烈で良く分からなかった。
パンパンと道場主の間山堪治が手を叩くと、
「今日はこの辺にしとこうか」
と全員へ聞こえるように声を掛け、少しふらついたが優翔も姿勢を正し、神棚と堪治へ、
「ありがとうございました!」
と、腹の底から挨拶をした。
竜神流の稽古場に来て、優翔は初めて腹の底から挨拶をした。
「今日は無理せず、消化の良くてしょっぱいものを食べるんじゃぞ」
「はい、気を付けます。心配をおかけして申し訳ありませんでした」
「なんの、孫が張り切り過ぎたんじゃ」
「優翔君、今日はごめんね。優翔君が熱心だからこっちも集中しちゃって、全然優翔君の事、見れていなかった」
「いえ、今日は“本物”の竜神流を見せてもらった気がします。ありがとうございました」
「こりゃあ期待できるわい。土曜稽古は本気で稽古へ打ち込める人しか声を掛けんようにしとるんじゃ。土曜をやると日頃の稽古も味わい深くなるからの。体を壊さんように励んでおくれ」
「あの、先生も和仁君も、今日はありがとうございました」
「途中で気持ち悪くなったりしたら、周りに助けを呼ぶか救急車へ電話じゃぞ」
「はい、それでは」
熱にやられた重い体を感じながら最寄り駅までとぼとぼ歩き貰ったスポーツドリンクをゆっくり飲む優翔は、静かに興奮していた。
同い年の和仁に何もさせてもらえず軽くあしらわれた挙句、熱中症になってしまった優翔をしり目に、そのあと和仁はあれだけ厳しい受けと掛けを繰り返しながら一時間ほど稽古をして汗こそ掻いてはいたが、フラフラの優翔を送り出しまた稽古場へ戻って行ったのだ。
優翔は決定的な違いを感じていた。
そもそも、和仁や他の先輩門人達は力を入れていないように見えた。それなのに、優翔は何もできず、良いようにあしらわれたのだ。
優翔の知らないものが竜神流の稽古場にあるのは間違いなかった。
知らないものがある事に、優翔の心は好奇心でふわふわした。
家へ帰る人の流れに逆らって駅前へ行くと、居酒屋や飲食店から大きな声で楽しそうに話す土曜の夜の街が聞こえて来て、ふらふらと店をハシゴする人たちを避け駅へ着くと、改札へ続く階段が重い体には途方もなく長く思えた。
帰りの切符を買いホームへ行くと、日頃の癖で携帯を確認する。
最近、忙しくて全然会えなかったけど、時間が出来ました。
一緒に食事がしたいです。
高いものでもなんでもリクエストしてね。
母より。
優翔の母の京子からメールが入っていた。
優翔は少し考え、
お疲れ様です。
もしよければ、かあさんの手料理が食べたいです。
大丈夫ならハンバーグとかお願いします。
優翔。
と、返した。
母はどんな顔をして自分に会うのだろうかと、優翔は思う。
そして、自分はどんな顔をして会えばいいのだろうかとも思う。
電車の中から夜の街を眺めながら、優翔は母に何を言えばいいのかを考えた。




