七話
(七)
池尻明子は屋上から指示をされたビルの角に走り、懸垂降下を始める時から狐につままれたような感覚に満たされていた。
まず、屋上を確認している時にロープを発見できていない自分に驚いたが、まさか屋上の塗料と同じ色のシートが被されていているだけでこんなにも気づかないものかと思ったし、シートをめくると両端がカラビナの短い帯の片側がもう懸垂降下用にロープへ絡められていて、開いているカラビナを明子のハーネスへ引っ掛けるだけで降りる事が出来るようになっていた。
登山が趣味の父から明子はロープワークを仕込まれていたため懸垂降下は経験していたが、一三階のビルの屋上から降りるのは怖かった。しかし逃げると決めたからにはと、ロープのテンションをできるだけ緩め、止まれるギリギリの速度を確認しながら降りて行く。
「なんだこれ!閉まってて降りれないっす!」
「電話して応援を頼め!」
「警察だ警察に連絡だ!」
「オーナーに連絡して開けてもらった方が速いって・・・」
明子がビルの半分ほど降りた時に屋上が騒がしくなり、明子の様子を上からちらちらとのぞくラガーマンが居たが、明子にはそれを見たり聞いている余裕はない。
「先輩こうやって壁を蹴ってください。蹴って緩めてを繰り返した方が速く降りれます」
明子は声のする方を見ると、撮影していたビルの角を明子の二倍近い速度で戸浦守人が懸垂降下していた。
「こっちです」
降りるにつれコツを掴み素早く降下した明子だがそれよりも速く降りていた守人が、ビル裏の出入り口へ誘導する。
「自分と先輩は一度ここで別々に目的地に向かいます。この紙に書かれたところに自転車が止めてあるので、それに乗ってこの道・・・」
守人が紙に書かれた簡単な地図を指さしながら、
「西に向かってください。途中で警察の管轄が変わる、区の境を超えたら合流して一緒に目的地に向かいます。ハーネス預かります」
言われて明子は、自分が登山用のハーネスを付けている事を思い出し取り外しにかかる。
周りを伺い、明子が脱げたかを確認した守人はハーネスを脱ぐという所作にもにじみ出してしまうセクシー動作に鼻の下を伸ばして目を奪われてしまうが、気を取り直して周りを伺う。
「取れたわ」
ハーネスを受け取った守人はあらかじめ置いておいたのか、いつの間にか持っていたバックパックへ明子のハーネスをねじ込み、
「先輩、セクシーすぎるんで普通に歩くことを意識してください。あとこれ付けてください」
そう言うと明子にマスクと顔が隠れやすチューリップハットを渡し、バックパックを背負い裏口から出て行ってしまう。
(え?警察も動いているの?どうなっているのよ)
明子は言われたことを反芻しながら、渡された紙の通りに商店街の一番遠い駐輪場へ向かう。この商店街は間山和仁が毎日通るあおぞら商店街とは文武大付属を挟んで丁度反対の方角に伸びる、あめいろ商店街で、夕方に差し掛かった今の時間は夕飯の買い出しに人がにぎわっている。あおぞら商店街はまさに空には何もないあおぞら商店街だが、あめいろ商店街はアーケードが掛かっており、“雨が降っても楽しい商店街”をうたっている。
紙に書かれた経路はアーケードの下を人混みに紛れながら進むもので、自転車の警官と一度、制服の二人組の警官と一度すれ違うが明子には気が付かずに通り過ぎて行く。いずれもあの十三階建てのビルに向かっていた。
焦ってついつい早く歩きそうになるが、紙には周りに合わせて店を見ながら歩く事と書かれていた。
駐輪場に着き周りを伺ってから、紙に書かれているひさしの隙間に手を入れてみると自転車の鍵があり、言われた道を漕ぎ出す。
そこからはひたすら真っ直ぐ西に道なりに進むように書かれていた。この道も大きな街道筋から二本ほど入った住宅街を行く道で、明子の気持ちとは裏腹に穏やかな夕方の住宅街の空気は明子の気持ちを優しくなでて行く。
「池尻先輩、こっちです」
自転車をこぎ出してから三十分は進んでいただろうか、不安になって来ていた明子だった所へ塀の角に隠れるように守人が自転車で待っていて、ここで曲がる事を伝えていた。
「説明してもらうわよ」
「すみません。何もなければ自分の出番は無いからって会長が先輩との打ち合わせは良いだろうって」
「会長の悪い癖ね。あの人らしいわ。で、どこまで逃げればいいのかしら?まさか四国とかっていうんじゃないでしょうね」
「そこまでじゃありません。ただあと一時間ぐらい自転車移動お願いします」
「それでも遠いわね」
「すみません」
守人は今まで明子達とは別に裏で動いていた内容を伝えながら自転車を進める。
話しながらの自転車移動の一時間はあっという間だった。




