三十八話・三十九話
(三十八)
「お邪魔しまーす」
巨大な資材搬入用の引き戸に設けられている潜り戸から入った和仁は、廃工場の広さに圧倒されてか、普段通りに挨拶をしてしまう。
あまりに場違いな挨拶に、そこに居る全員の視線が和仁に集まる。
「待っていたよ。そこに居る広田君とやってもらいたい。お互い存分に」
端的に虎男は戦いの開始を告げると、腕を組み観戦を始める。
広田は、ちらっと五島の方に目を移すが、五島の目は広田の動向を注視していて、仲間に何もさせるなと言わんとしているようだ。
はあ、と広田は面倒臭い感情を吐き出すと、和仁の方へ進み出る。
和仁も広い工場の床や周囲を見回しながら、広田の方へ進み出る。
工場の照明はすべて点いているのではなく飛び飛びで点灯しており、二人はどちらともなく照明に区切られリングのようになっている場所に着くと戦闘態勢を作っていた。
広田は両腕を肩より少し高めに前に突き出した、柔道家然とした構えを取る。
和仁は手を腹の前に置き軽く腰を落とした、竜神流の自然体の構えを取る。
構えを取りながら、「オオオ‼」と低い気合を発した広田はずかずかと和仁の間合いに踏み込む。
柔道家特有の速い間の詰めに先を取られる和仁だが、負けじと大きく踏み込みながら鳩尾へ右拳を突き込む。
広田は和仁の拳を躱すべく、右足を進めて体を半身にすると、右手で和仁の奥襟を取り、左腕で和仁の右拳を絡め取ろうとする。
和仁の右拳が鋭く、広田の左脇腹を抉りながら抜けて行くと、広田は左腕で抱え込む形で拳を絡め取るのに成功する。
広田は右足を軸に、奥襟と絡めた左腕で和仁の手首を極めながら左足で和仁の右膝を抑えて左回転する。
広田が喧嘩の中で編み出した、変形型の膝車だった。
広田が投げに入るほんの一呼吸前、和仁は投げられる方向と逆に体を振っている。稽古での反復によって培われた動きで、和仁の体は無意識に動いている。それと同時に手を手刀の形にとり、指先から体の芯まで筋を通している。
広田の投げる力に和仁も自ら勢いを乗せ、和仁の体は綺麗に空中で一回転すると足から地面に着地する。普通であれば回転で和仁の手首は深く極まってしまうが、筋を通した和仁の腕は広田からは木の棒のように感じられ、回転に合わせて広田の小脇から抜け出て行く。
着地した和仁は、体の回転の勢いを上手く変換し右足を大きく引くと広田から右手を取り返し、回転で襟に絡まった広田の右手をそのままに、和仁は右手で広田の右手首を、左手で右肘を取り、広田の右腕の逆を取りに行く。
「なめんじゃねえ!」
力で勝る広田は、腕から伝わる和仁の力を蹂躙しながら、右足で和仁の左足を内から刈り取りながら左手で和仁の顔を掴むと、一つ二つと左足でケンケンしながら倒れ込む。
和仁は広田の力に為す術なく、後頭部からコンクリートの地面に落とされる。
「間山君‼」
柱に括られている黒は、和仁の落とされ方が尋常ではない事に声を上げる。
「こんなものか」
黒の叫びと同時に、虎男の口からも誰にも聞こえない声が零れる。
黒の叫びの一瞬後に広田の取り巻きたちが一気に歓声を上げる。
「さすが俺たちの大将だ!」
「えげつねえ!こんなのテレビじゃぜってえ見れねえよ!」
歓声の中、同体で和仁を落とした広田は体を起こすし、立ち上がると、くそ、と小さくつぶやく。
戦いに向けられていた広田の神経が全身の信号を受け取り始め、左脇の鈍痛と右手首をひどく痛めていることを知らせ始めていた。
体からの信号が強まるにつれて、広田は怒りが溢れ、
「くそが!」
と叫ぶや、仰向けの和仁に理性が消え去った踏み付けを放つ。
和仁のあばらに進む広田の右足がぶつかる寸前、動くはずのない和仁の左手刀が吸いつくように足首を捉え、地面に軌道を変える。
「お?」
和仁に足の軌道を変えられ、広田は体制を崩すが素早く膝を折り重心を掴みなおすと、左のサッカーボールキックを打つが、そこには和仁の体は無く、間合いから二歩離れた所に淀みの無い自然体で立っていた。
「何度でも同じだ!寝てろ!」
そう広田は叫ぶと、腕を突き上げ、間合いを潰す。
広田の喧嘩慣れした身体の感覚器官は、和仁がどう変化するのかを得意な右手での奥襟取りと左手の袖口取りを仕掛けながら探っている。
しかし、広田の神経は和仁が動くことなく、襟と袖を捉えたことに成功したことを知らせる。畳の上での膨大な練習で、広田の体は自動的に内股を和仁に掛け始めていた。
引き寄せ足を振りあげようとする広田は違和感を覚える。引き寄せたはずの和仁の体は崩れず、広田はつま先立ちになり、広田が和仁に吸い寄せられてしまう。
瞬間、広田には和仁の右袖が円を描いたように見える。
すると、世界が回り、広田は天井を見つめていた。
眠りから覚める時、自分がどこにいるのかわからなくなるような感覚になった広田は、状況を把握するのに数秒掛る。
首を巡らせると、和仁が淀みなく自然体で立っていた。
(三十九)
「なめやがって」
なぜ投げられたか分からない広田は、体を起こしながら心が萎えてしまわないように呟き、和仁の間合いに入って行く。
広田は同じように右手で奥襟を取りに行くと見せかけて和仁の左襟を取ると腕を喉に押し当て、左手で和仁の左腕を取り、右足を和仁の左足に掛ける。
引き寄せる事が出来ないのならと、広田は体を浴びせる変形の大内刈りを仕掛けた。
広田は左手を十分に絞りながら右足で刈り取ろうと進むが、半円を描きながら和仁の体が広田の左側へ流れるように進む。
押し込んでいた筈の広田の体はいつの間にか泳がされ、流れる体を支える事が出来なくなった広田は自ら受け身を取ることを強制されてしまう。
自ら受け身を取る形で投げられた広田は、すかさず起き上がり、
「くそがあああ!」
と、言うとがむしゃらに掴み掛る。
押しても引いても和仁に捌かれた広田は、怒りと焦りと不安で錯乱し始めていた。
広田は和仁に掴み掛っては、捌かれ投げられる。
和仁は致命的な固め技や突き後頭部から落とすような投げは打たず、受け身の取れる投げ技しか繰り出さない。
二度、三度と投げられ、決めに来ない和仁に広田の怒りは益々燃え上がる。
広田は怒りに身を焦がし、和仁に掴み掛るうちに、柔道部の野原剛史の事を思い出していた。
和仁のように広田も小さい頃から町の柔道場に通い始め、負けん気の強さと人一倍の努力、分からな事を師に尋ねる事の出来る研究心が噛み合い、中学に入る頃には今後を期待される選手になっていた。
中学の大会では三年間とも全国大会へ出場し、三十位以内に入る実力であった。
そして、文武大付属へ進学を柔道の推薦枠で掴み、強豪校の柔道部にしごかれこれまで以上に強くなれる期待に胸が躍っていた。
広田は高校の柔道部に入るまで負けたことがなかった。
もちろん、試合で負けたこともあれば練習の中でねじ伏せられた事もある。しかしそれらの敗北は必ず勝つための課題が見えてくるもので、広田はその課題をこなすだけの知性と体力と精神力があった。
広田は柔道を始めて一年程で開花した課題を見つけられる能力を得てからは、柔道という世界で最強への道を突き進むだけだと思うようになっていた。
しかし、広田の道は文武大の柔道部に入り、天才、野原剛史に出会うことで途切れてしまう。
町道場の圧倒的な力の差を感じる大人と稽古をしても、全国の強い選手に敗れても、はっきりと見えていた広田の道は、同い年の野原剛史との稽古で消え去ってしまう。
広田は稽古で組み合えば、自分の何が勝っていて何が劣っているのかすぐ分かる。
だが、野原と稽古をしても、広田は何も掴めなかった。
何をしたら勝てるのか分からなかった。
もちろん、野原を投げた事はある。それは、じゃんけんで運に任せて勝てた時のようなもので、広田が掴んできた柔道は相手の身体の特性を逆手に取り、相手を封じ込める事に必要な動きを反復して身体に覚え込ませてから掴み取る完璧な勝利で、破れかぶれの物では無かった。
技のキレ、単純な体力どれを取っても、野原と広田は拮抗していた。
しかし、十回戦えばまぐれで一、二回勝てるだけで、
「楽しかった~、またやろう」
と、屈託のない笑顔を野原は広田に突き付けるのだった。
その笑顔を捻り潰そうと試行錯誤を繰り返し半年過ぎたある時、広田の心は静かにはじけてしまった。
野原とは稽古はせず、自分の気に入っている部員をおもちゃにして、その中の王様になることにした。
顧問を黙らせるのは簡単だった。
娘を盗み撮った写真と、匿名だが誰が送ったか分かる文を添えた手紙を送れば、顧問はしっかり稽古しろよと言うだけの張り子の虎になった。
こうして人の道を外れた広田を、闇の世界は欲していた。
進む方向が分からなくなっていた広田は、求められることで何をしていいか分からない自分から逃げ出す事が出来た。
広田は、負けていないと思いたかった。
致命的な投げ技ではないとはいえ、コンクリートの床に投げられ続ければ体は動かなくなってくる。
広田には、和仁に投げられているのか、野原に投げられているのか、もう分からなくなっていた。
あるのは、この掴むことのできない敵を知りたいと心から思い、ただ勝利を掴みたいと願う透明な気持ちだった。
広田は地面に十数回叩きつけられ、立つことがやっとの身体でふらふらと和仁に近づき、顔に拳をぶつけに行く。
和仁はその拳の方向に力を乗せ、広田の身体を泳がせると、拳を丸くさばき広田に前回り受け身を強制する。
転がった広田の身体は、広田の命令を無視して動かない。
広田は体が動かない事が分かると、もっと和仁に触りたい、野原をもっと知りたいという思いで一杯になっていた。




