三十四話・三十五話
(三十四)
「噂だけど、校長と教頭は違う組織出身で、表向き仲良さげだけど裏では色々あるみたいだよ」
「本当に?この前全校集会の時に、校長と教頭が隣り合って座ってたけど、肩叩きながら笑い合ってたよ」
「それ私も見た~」
前を歩く黒、春香、守人の会話を最後尾で聞きながら、和仁はどんなふうに会話に参加すれば良いのかを考えていた。
どんな事を言えば相手は楽しいのか?
どんな話をしたら相手は楽しいのか?
和人の頭の中でこの問いをした時に、柔術を始めた頃祖父によく言われた言葉を思い出していた。
「自分がどのような力を出し、相手がどのような反応をするのか、稽古をしている時これを感じ取れるようになりなさい。これが出来ればすべてに応用が利くようになるものじゃ。柔術も、これから始まる勉強も、お前の好きなテレビゲームも、トイレに入っていても、お風呂に入っていても、ご飯を食べていても、何もかも全部が今よりも豊かなものになる。そして極めれば自分の思い道理になんでも出来るようになる。その時お前は何を選び取るかのう?言い換えれば今から始める稽古は選び取れるようになるための稽古だとも言えるのう。おっと顔がわからぬと言っておる。カッカッカ!」
師から三、四回同じ内容の言葉を聞いていた和仁だが、稽古を始めた頃の和仁の年齢では到底この話の意味は掴むことが出来なかった。
七つの和仁の頭の中は、ゲームと演武で見るかっこいい祖父のようになりたいという憧れだけで、稽古で自分の人生を掴む練習をしているなどとは考える余地もなく、ただただ純粋な小学生なのであった。
意味の片鱗を掴んだ今、和仁は途方もないことを始めなければならないのだなと、憂鬱になった。
話の機微を掴むことの大変さに腹をくくり本腰を入れ取り組むもうとした矢先、思い出された師の言葉が、どんな時も自分の影響を及ぼすものに感性を向けろ、と言っているからだった。
その開かれた情報の量に目眩を感じる。
圧倒的な情報量を感じた頭が一度強制的に入力を切ったかのように、和仁はまた師との稽古風景を思い出す。
これも稽古を始めた頃よくやらされた稽古で、祖父と世間話をしながら型を正確になぞるというもので、話に夢中になればすぐ型が疎かになり型に集中したら話が疎かになってしまう。難しい型の時は稽古時間全てを一つの型に費やしたこともあった。
この稽古はその頃の和仁にとって頭と体を一杯に使うようで、稽古が終わると軽い頭痛を感じる程くたくたな状態になったのだった。
この稽古を思い出すと和仁の憂鬱は軽くなっていた。
最初は難しく出来ないと思っていた事も半年、一年と日が経てば何の苦労もなく出来るようになる事を同時に思い出したからであった。
(焦る必要はない)
和仁は胸に広がっていたもやもやを吐き出した。
(全部やろうとすれば頭は止まってしまう。少しずつやればいい。頭が付いていかなければ、なぜ付いて行けなかったか覚えておいて後で考えればいい)
と、和仁は思った。
思い返せば、和仁には親友と呼べる人が今まで居なかった。
余り自分から喋るわけでもなく、柔術とテレビゲーム以外では特に話をしない和仁には、ゲームの趣味が合う人以外とは繋がりが生まれなかったからだ。
本を読めと師から手紙で課題を出され、図書館に通う日々を送る中で和人は考える事を始めていた。
言葉を読み、物語に感動し、なぜ感動したのかを考えてから、和仁が見る日常が変わっていた。
生徒会長、田沼興三郎との出会いも大きいが、田沼からの依頼に乗ったのも女子高生を助けたのも小説を読み始めていたからだと和仁は思う。
和仁には田沼がどんな人間か分からない。分からないが、和仁が呼び出された公園での事件の時に聞いた話、行われていた事に嘘はなかった。
もし同じような事で田沼が力を必要とするのなら、和仁は躊躇することなく参加しようと考えている。
今まで、憧れから始め、道場に通う人と稽古することが楽しくて続けてきた柔術だったが、心のどこかでは大人になれば必要がなくなるものなのだろうと和仁は思っていた。
だから、師から言い渡された道場の出入り禁止は、心の奥では必要ないと思っていることを師に見透かされ中途半端な自分を戒められたのだと言葉に出来なかったが、心の中では思っていた。
それが今では、言葉にしてあの頃の心の中を説明できるようになっているのだ。
本を読もうと和仁は思う。
会話に参加しようと思う。できなくても流れを掴むようにしようと思う。
そうすれば師の下に戻れるのではないかと思う。
和仁はここまで思いを巡らせてから、改めて師は何を思って道場の出入りを禁止したのか考えてみようと思う。
プルルルル、プルルルル。
と、思考を遮るように携帯電話が鳴る。
「和仁、気にせずに出ろよ」
戸浦が気を利かせて和仁を促す。
「悪い」
和仁は携帯の画面に目をやると非通知の電話であった。
「はい、間山です」
「出てくれてよかったよ、虎顔の空手使いと言えば分かるかな?」
和仁はすぐに体育館裏での事を思い出す。
「君には悪いが、私はどうしても君の強さを知らなくてはならないのだよ。こんな手は使いたくはないのだが田沼君を人質に取らせて貰った。生徒会室にて待つ」
電話が切れると、和仁の背中は熱くむず痒くなっていた。
(三十五)
「ちょっと、・・・教室に忘れ物してしまったので先に行っていて下さい」
和仁は言うと、踵を返して早歩きで進み出す。
「おう、早く追いつけよ」
守人に言われ、黒、春香に見送られて、和仁は電話の内容を言わずに生徒会室へ向かうことに少し罪悪感を覚える。先日図書館で黒と話した、仲間と行動する大切さに早速背いていたからだ。
しかし、他の三人へ電話の内容を伝えなかったのは、和仁に考えがあっての事であった。
体育館裏での対峙の時、虎顔の男が「試させてもらう」と言っていた事を覚えていたからだった。
和仁には、虎男が狙っているものが和仁の習ってきた柔術の事だと分かる。
ならば生徒会室に行き、あの男と戦い、自分の力を示せばいい話で、守人、黒、春香の三人には関係がないことだと和仁は思ったのだ。
和仁は生徒会室がある棟に行く為、渡り廊下を通り、階段を上がると生徒会室の前に到着する。
生徒会室のドアに右手を掛ける寸前、和仁の背中が総毛立つ。
道場の稽古で経験している和仁の体は型通りに、一切無駄のない右への体重移動と反時計回りの体軸の回転で殺気の後にやってくる攻撃を躱して行く。
回転に合わせて右の腕が下から和仁への攻撃を掬い上げる。
腕に当たったのは、敵の右前蹴りだった。
普通であれば前蹴りは鋭く戻されるはずだが、和仁の腕が蹴りを戻せば体が前に泳がされ、押し込めばそのまま和仁に引き倒されるように捉われているのを感じ取り、この空手使いの体はその場に留まる事を意思に反して選んでいた。
その呪縛が解けないように、右腕を中心に和仁は空手使いに体を寄せると左腕の肘から手首までを相手に添わせ、右腕は天へ左腕は地へ円を描きながら空手使いを後頭部から廊下に落としていた。
硬いコンクリートの廊下に頭から落ちた空手使いは気を失っていた。
「なんだい、今の音は?あ、和仁君じゃないか」
空手使いか地面に投げられた音で生徒会室から田沼興三郎が顔を出していた。
「会長、大丈夫でしたか?」
「?なにがあったんだい?」
和仁の質問に、きょとんとした顔で答える会長の横から、何かありました?とほかの生徒会員が出てくる。
和仁は一緒に捕らえられているはずの生徒会員に異常がない事に、何が何だか分からなくなる。
「和仁君、その人は?大丈夫なのかい?」
はっとした和仁は、空手使いの上半身を起こし後頭部から少し下がった背骨の上をお椀の形の手で、パンパンと数回叩く。
すると空手使いに活が入り、うう、っと呻き意識を取り戻す。
しかし受けた衝撃が重いようで、壁に体を預けたまま動けないようだ。
「はは、とんでもない1年が入ったもんだ。あわよくば俺が食っちまおうと思ったが、主将と同じで一つ上の人間なようだな」
空手使いは、うめくように言うと親指で玄関の方を指しながら、
「今頃、お友達は主将達にエスコトートされているはずだぜ。俺はお前にこれを渡したら用済みだ」
そう言うと胸ポケットから手紙を出し和仁に渡す。
栗林の廃工場で待つ。
手合わせをしてもらえれば、友の無事を約束しよう。
警察を呼べば、お前が蹂躙した連中がほかの場所でお前の友を蹂躙する。
和仁は読み終わると手紙を会長の田沼に渡すと、
「先に行きます」
と言い、登校口へ走りだしていた。
「困った。これは急がなければ」
田沼は和仁をバックアップするべく、生徒会員へ支持を出す。
和仁は背中で生徒会員達が動き出す気配を感じながら、
(会長ご迷惑を掛けます)
と、心の中でつぶやき校舎の階段を駆け下りていく。
走る和仁の心には後悔が広がっていた。
あの時、こんな電話が来たと三人に伝えていれば、みんなを巻き込むことがなかったのではないか?そんな事を和仁は思う。
高梨黒に気が付かせてもらった事の大きさが和仁の気持ちを締め付ける。
渡り廊下から三人と別れた廊下へ曲がると、登校口が目に入る。
走る和仁は登校口に近づくうちに、誰かが倒れているのが目に入る。
駆け寄ると気配に気が付いたのか、倒れているまま、
「やられ・・ちまった・・・」
と、和仁に話しかけて来た。
顔の左半分がはれ上がった戸浦守人の肩口に和仁は駆け寄る。
「まだ頭が、ぐわん、ぐわんするぞ」
「脳みそが揺れて、軽い脳震盪になっているんだ。重い突きを食らうとそうなる。少し移動するけど無理に動いちゃだめだからな」
和仁が背中から抱きかかえると、廊下の隅に守人を運ぶ。
「参ったよ。じいちゃんから体術も習っとくんだった」
苦々しく弱く、守人はつぶやいた。