三十二話・三十三話
(三十二)
守人は用意していた拳大の石を逃げる方向とは逆に、草むらを揺らすように投げる。
「あっちだ!」
短いかく乱にしかならないが、やらないよりましだろうと思いながら、守人は逆方向にある建屋を支える巨大な柱に走る。
柱にある建設時に使われ、そのままになっている昇降タラップを固定するための出っ張りに、下見の時に見つけていた金具を両手に持ち、片方ずつ引っ掛けて守人は柱を登って行く。この金具が無ければ、余程のクライマーでなければ柱を登る事は出来ない。
「おい、あんな所に居るぞ」
「降りられるところは決まっている。先回りしよう」
下からの会話を聞きながら守人は建屋の屋上に上がると、屋根の波板を踏み抜かないよう梁の上を選び、建屋のある地点を目指す。
その地点に着いた守人は点検用の梯子を下り、建屋の外周を一周しているクレーンや電気設備用の高所点検路に降りる。
下を覗くと降りられる柱や点検路へ上がるための昇降梯子の周りに懐中電灯の光が交差していた。
守人は体に巻き付けて持って来ていたロープを解く。
点検路から地面までは目算で30mほど、守人の持って来ていたロープも30m。目算での高さなのでロープが足りないかも知れないが、逃げるには幹線道路が近く雑踏にいち早く紛れられるこの場所から降りて工場の敷地を囲む外壁を超えるしかないと、下見の時に守人は考えていた。
ロープの先に二つこぶを作りロープの終わりの目印にすると、強度に問題のなさそうな手すりの出来るだけ下の場所を選び、カラビナで袋を作りロープを垂らす。そのカラビナに回収用のパラコードを結ぶと守人は懸垂降下を始める。
暗闇の中でいつ目印の結び目が来るか分からない懸垂降下は、守人の想像以上に怖いものだった。
できるだけ早く、しかしこぶを触ったらすぐ止まれる速度を意識しながら降りて行くが、勢い余って一つ目のこぶが腰ベルトに付けられた降下用のカラビナを通り抜けてしまい守人はゾッとするが、全力でロープを絞り、二つ目のこぶはカラビナを抜ける事無く引っ掛かり、体ががくんと止まった。
外の街灯やうっすら見える建屋のふちを見ると地面までまだ有りそうだ。
建屋に目を凝らすと幸いにも壁を止めている金具が数十センチおきに横へ伸びているのが見え、体を揺らすと飛び出ている金具になんとかしがみ付く事が出来た。
「なにか音がしなかったか?」
しがみ付くときに立てた音を聞き遠くからそんな声が聞こえてきたが、守人は体が落ちないように姿勢を作ると、構うことなく音が出ないように注意しながらパラコードを引きロープを回収する。
守人は最初ロープを掛けなおす事を考えたが、遠くで守人を探すライトの光と街灯の高さから地面の状態さえよければ飛び降りられるのではないかとも思えていた。
しかし、地面の状態が分からない。昼間の下見では何もなく土の地面であるのは確認していたが、その後何か資材が置かれていてもおかしくない。
と、追手側へ数メートル行ったところにある巨大なシャッターが開きだす。時刻は九時半を過ぎていたがまだ建屋内では作業が続いていたようで、外へ資材を出すのか、はたまた入れるのか分からないが、建屋内の光がきしむ巨大なシャッターの開く音に合わせてこぼれだしていた。
守人はロープを手早く巻き取りながら飛ぶかロープを掛けるか悩んでいたが、丁度ロープを巻き終わるタイミングで開きだしたシャッターで地面の状況が分かり、飛ぶことを決意する。
開きだしたシャッターに注目する追手だが、光に目が行ったのと守人が建屋の壁に身を目一杯寄せていた為、見つかることなく視線は柱と点検路へと戻る。
地面までは守人の目算で七メートル。
暗がりの中飛んだ経験がない守人だが、捕まるリスクを減らす事が出来るのならと迷いはない。
シャッターが開けば開くほど光が辺りを照らし見つかる可能性が高くなる。
守人は、一度だけ飛び降りる自分をイメージすると、躊躇なく外壁を蹴った。
「あそこだ。走れ」
着地の衝撃を受け身で全身に分散さるため、空中で足の裏に意識を集中していた守人の耳に虎男の低い声音が届く。
足の裏が地面を捉える。足首と膝と腰を曲げながら衝撃を足裏から脛、もも、尻、そして丸めた背中へ流し、垂直に体を潰す力から体を進める力に変えると、その力を使い立ち走り出す。
(信じられねえ。俺のイメージを捉えて仲間に指示を出しやがった!)
少し前までの何かを探す光ではなく、獲物を捉えたライトの光を背中に感じながら、下見していた敷地の角に守人は向かう。
「待ちやがれ!」
外壁の高さは2メートル半。その上に三段の有刺鉄線が張り巡らされている。
守人は下見の時に、逃げ出す算段を付けていた壁上の有刺鉄線の一番下の段を、近くに転がっていた良い長さのパイプを壁に立て掛け、押し上げていた。
壁を左手に走る守人に、後ろからは追手が、前からは壁の角が迫る。
追手からは守人が前から迫る壁に突っ込んでいくように見え疑問に思うが、後ろから来る仲間と連携するため、先頭の追手は先回りするべく早めに右に曲がり始める。
守人が壁にぶつかる。
が、飛び上がった守人は右足で目の前の壁を蹴ると、左手側の壁の上端を掴み、その勢いのまま体を時計回りに振り、パイプで押し上げておいた有刺鉄線と壁上の間を抜けようとする。
前の追手は完全に逆を突かれ守人に置いて行かれるが、後続の追手は空手で鍛えられた動体視力で、守人の振り上げられていく左足を捉えていた。
後続の追手に向かう守人の脚。それを捉えようとする追手の手。
間の距離はほんの1、2ミリ。
追手に掴まれることなく壁上へ登る事の出来た守人は、間髪置かず有刺鉄線を持ち上げているパイプを蹴り倒して壁から転がり降りると、幹線道路沿いにある地下鉄の階段に走った。
(三十三)
今日も黒と和仁は読書に集中し時間の世界から解放されていたが、部活の終わりを伝えるチャイムで二人は現実の世界に引き戻される。
自然と視線を上げた二人は目が合ってしまい、慌てて視線を外す。
「帰ろうか」
と、黒がうつむいたまま言うと、
「そうですね」
と、和仁が本を本棚に返し、図書館の鍵を黒が掛ける。
「お、丁度いいね」
声のする方を和人と黒が見ると、戸浦守人と相川春香が書道部の部室から来たようで、守人が二人の出て来るところへ狙い通りだろと三人にしたり顔だ。
「その顔、むかつく」
「戸浦君が急かさなければ、その顔、すごいと思うのにな」
「ドヤ顔ってやつですね」
守人、黒、春香、の三人は和仁の顔を見る。
こういう会話の時、今まで和仁は場に合わせて笑顔で会話に入って来ないのが常だった。
「和仁も口をはさみたくなる顔ってのは、ちょっと慎んだ方がよさそうだな」
頭をかきながら少し苦い顔をする守人に、
「そうしてくれたまえ」
と、黒が強めに肩を叩き、かっかっかと声高に笑い声をあげる。
「いてえ、すげえ力・・・」
叩かれたところを摩りながら、先を歩き始めた黒と春香の背中を見る守人に、
「ごめんな」
と、和仁が笑顔をそえながら守人へ言う。
「なんの、全ては黒の遠慮のなさが原因だから」
「なんか言った?」
黒が守人に向けた言葉だったが予想とは反し、
「高梨さんの突っ込みのお陰であの顔は無しになった、良かったな、と戸浦と話していただけですよ」
と、和仁が微笑みをそえながら間を取りつくろうように黒に言う。
「そ、そう・・・」
正面から和人の微笑みを受けた黒は、初対面の時の事を思い出し言葉に詰まり少しうつむく。
「なんか、今日の間山君、変だよ」
うつむいた原因を悟られない為に黒は、会話をしなきゃと切羽詰まったせいで直球な感情を和仁に投げてしまう。
黒は和仁が少し考え込む素振りを見せた為、しまったと思う。
先日、図書館での和仁とのやりとりで、彼が予想以上に話べたなのを感じた黒は、照れ隠しの言葉で和仁を会話に引き入れるチャンスを潰してしまったのではないかと心配になる。
しかし、和仁は少しの沈黙の後に口を開く。
「きっと先日、高梨さんに気が付かせてもらったのが影響していると思います。お互いに安全だという事で始まった仲ですが、こうやって一緒に帰る事が、とてもうれしいのだと思います。でも、僕は人とのつながりというか、そういうのに気が付かずに今まで来てしまっていました。もしよければ三人に会話の仕方を教えてほしいんです。お願いします」
そう言うと、和仁は三人に向けて頭を下げた。
和人の感情の吐露に、どう答えるか逡巡する三人だが、
「私たち中学校からだからなれちゃってるだけで、何も勉強にならないよ~。逆に間山君が居ると安心するからお願いしてでも一緒にいて欲しいです」
そういうと、春香が和仁に頭を下げる。
「そんな、こっちがお願いしているのにお願いされたら困ってしまいます」
春香が頭を下げた事にビックリした和仁は、頭をあげてもらうように慌てて促す。
「春香、それ和仁の事、困らせているから」
笑いながら守人が慌てる和仁と春香の肩を軽く叩き、
「和仁は真面目だな。そんな新たまらなくても、一緒にいて居心地が良かったり楽しかったら、それでいいんじゃね?なあ黒」
会話を振られた黒であったが、図書館での会話と質問に対する誠実な願い出のせいで、和仁への愛おしさに胸が締め付けられすぐに答えられない。
黒は気持ちを読まれないように慌てて背中を三人に向けて、苦しい胸を右手で押さえ一つ深呼吸すると、三人に向き直り、
「そうね、守人の言う通りだと思う。第一間山君がいくら強くたって、私たちの誰かと合わなかったらこんな下校続いて無いと思うよ。間山君の持っているものがこれから誰かとぶつかるかもしれないし、このままなんとなく続くかもしれないし。それはこれからわかるものだから、お願いされたって続くものじゃないと思うの。でもさっきのお願いで、力になりたいと私は思いました。だから私は、間山君の発言で不快に感じたりした時は笑ってごまかしたりしないから。それでも良ければ」
胸の中を抑え込んで言いきった黒は、背中を向けて下駄箱の方へと進んでいく。心なしか口調が厳しかったのは、気持ちと反対の冷静な答えをしようと努めたからだった。
「ひゃー、きびしいね~」
守人が和仁に安心しなよと言っているかの様なウインクをしながら黒に続く。
春香も和仁に笑みを投げかけると下駄箱に向かう。
和仁は前を行く三人の後ろ姿を見ながら、良い友に出会えたのだなと思うのと、ありがたい思いが混ざった、何かこみあげて来るような感覚に満たされて、
「ありがとう」
と、小さく言葉が漏れ出ていた。
それを聞いてか分らないが、守人が振り返り、行くぞと腕を回す。
それに和仁は微笑みで答えて小走りで追い付こうとした。