1.煙に巻かれて
読みに来ていただき有難うございます。
宜しくお願い致します。
けほ……げほっ……
うぅ……眼が痛い、喉が焼ける……
煙で何も見えない……
こんな所で、死にたくない……
誰か……助けて……神様……
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「倉庫いってきまーす」
「ほいよー」
私の名前は霜月風花
華道の家元という旧家の後継を外れた私は、腰まであった長い髪を切り、自宅から通うには遠い大学を受験した。
後継を外れた私を、両親も部屋住みの内弟子達も、居ない者として扱うようになり、後継者になった妹と、声を交わす事も無くなってしまった。誰からも構われなくなった私は、大学進学を機に一人暮らしを始めた。
今は海外旅行に行く資金を貯める為に、ハンドメイド品をネットで販売したり、週末には駅ビルにあるカフェで、接客のバイトをしている。
倉庫に行くというのはバイト中に、手洗い(トイレ)に行くという、この店での隠語だ。
私が通っている大学に近いこの駅の西側は、大学を中心に、文化施設や公園、商業施設や新興住宅街といった、新しい街並が広がっている。
それに対して、私がバイトしているカフェ……というには古めかしい喫茶店がある東側には、昔ながらの商店街があり、歴史のある……高くても五階立て位のビルが、不規則に立ち並んでいる。
数年前から、昔懐かしい風景を眺めに、そこそこ観光客が来たりもする。
アニメに出てきた風景に似ているとかで、最近は聖地巡礼とかいうオタな集団が来ることもある。
なんだかんだで、こちら側の開発は、遅々として進まない様だ。
私が働いている喫茶店も、駅ビルというには躊躇われる様な建物で、店内にトイレは無かった。
通用口から一旦店を出て、同じビルの一階か、三階にあるトイレまで、行く必要があった。
トイレ掃除をしなくて済むのは有難いけど、地味に面倒だった。
同じビルの一階はビリヤードやダーツが楽しめる、ちょっと大人なゲームセンターになっていて、絡まれたり、ナンパされたりが嫌で……って、実際は髪を染めた事も無い地味な私に、声を掛けてくる人なんていないのだけど……
だけど利用するのはいつも、一階じゃなく、三階にあるトイレだった。
ドアを開けて中に入ると、二つの内一つは使用中で、もう一つには故障中の張り紙がしてあった。
仕方が無いので普段は行かない、五階にあるトイレまで階段を昇って行った。エレベーターは一応あるけど知らない人と乗り合わせるのが嫌で、使わないようにしていた。
文系な私……はぁ、地味に疲れる……
五階には、最近まで学習塾だったからか、正面の全面ガラスから、内部が見える造りになっていた。
テナント募集はされていても、古いビルだからか、駅前なのに次の借り手は決まっていなかった。
部屋の中に、誰もいない筈なのに物音がした……
誰か入り込んだのかと思って通路側のガラス窓から覗いてみると、何処から入り込んだのか、アメリカンショートヘアみたいな縞々のトラ猫が入り込んでいた。
出られないのか、走り回っては壁にぶつかっている……
放っておくわけにもいかないと思って、通路側の窓が開かないか動かしてみた……
三つある窓の内の一つが開いたので、注意深く中に入った私は、脅かさない様にそ~っと猫に近付いていった。
始めの内、猫は私を警戒して毛を逆立たせていた。
やがて、私に害意が無いことが分かったのか、膝をついてしゃがんで手を差し出していた私に飛び上がってきた。
そのまま、抱き留めようとした手をすり抜け、トラ猫は私の頬を舐めると、開いたままだった窓から出て行ってしまった。
置いて行かれた感半端ない……
私は小さな溜め息を吐くと、入った時の窓から出て、何も無かった様に窓を閉めてトイレに入った。
遠くから消防車のサイレンが聞こえていた……
手を洗って……肩まで伸びた髪をシュシュで一つに結い直し、鏡で全体をチェックした。
普段より時間がかかってしまった……マスターが勘違いをしていなければいいのだけど……
そう思って出て行こうとした私は、扉の下から煙が侵入してくるのに気が付いた。
「!え?なに……まさか……火事?」
私は咄嗟に、手に持っていたハンカチを水で濡らすと、
口元にあててトイレの扉を開けた。
途端にガラスの割れる音、消防車のサイレン、人の叫び声などが聞こえてきた。
煙が充満してくるけど、炎は見えない。私は出来るだけ身体を低くして、壁を伝って階段に向かった。
ハンカチで口元を覆っていても、息が苦しい……
煙がしみて目を開けていられない……
ゲホッ……ケホッ……
何だっけ……火事の時になる……
あぁ……あれだ、一酸化炭素中毒……
建物の中、充満した煙に視界は遮られ、
息も出来ない……
息苦しさのあまり、私は意識を手放していた……