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富士の送り火

作者: 茶飲吾

数年前書いて眠っていたものを推敲しました。


いろいろ辛かったとき、「死んだらどうなる!?」って思って書いたものです。

 男が目を覚ましたのは暗闇の中だった。うつ伏せの鼻にむせ返るような濃い湿った土の匂いを嗅いだ。だるさが全身にのし掛かっている。

 男の意識ははっきりしなかった。体の中が痛いほどに熱く、頭もひどく重たい。

 ゆっくり立ち上がると顔についた泥が剥がれて足元でカサリと音を立てた。周りを見渡すが全て沼の底のような闇に満たされていた。ざわざわという木のこすれるような音が上方から聞こえてきた。

 此処はどこだろう。

 とにかくここはどこか。手には湿った繊維質と粒状の感触がある。たぶん草と泥だ。だからなんだ。不安が心臓の周りで渦を巻いた。じっとしていられず慌てて一歩足を踏み出すと地面が足を掬って尻もちをついた。

 彼は四つん這いになって手探るが、泥以外につかめるものはなかった。

 サッ、と何かが動いた。それは地面を波間のクラゲのようにふよふよと漂っていた。そのクラゲのいる部分だけ、湿気た腐葉土と硬い木の根が無造作に絡み合っているのが見えた。

 光だ。男は上を見上げた。突然男の瞼に何かが当たった。とっさに目を閉じて腕で拭った。拭った服の袖がひたひたになって男は驚いた。露か汗かは分からなかった。もし汗ならサウナの後のようだと思った。

 もう一度空を見た。重なり合いカーテンのように空を覆う枝葉の向こうに丸く削がれた三日月が滲んだ光を放っていた。どうやらここは夜の森の中らしいと、ようやく理解できた。


 男は木の幹を伝い、足元に注意を払いながら歩いた。それでも不安定な地面にせり出した木の根に何度も躓いた。それでもじっとしているよりはマシだと思った。歩いていればわずかでも不安を忘れることが出来た。

 なぜここに私はいるのだろうか。白濁した意識はどうしても過去を思い出させてくれない。ただ自分が年季の入ったヨレヨレのスーツとシャツ、そして地味な色のネクタイという着慣れた格好であることから、きっと会社の後ここにきたらしいということは推察できた。

 男はすこしでも思い出せることがないか期待したが、いくら歩いても何も思い出すことは出来なかった。


 ふと一際明るい場所に出た。そこは木々が伸びておらず木の葉の屋根が円く繰り抜かれていて円状の広場のようだった。

 そこに立つと、森の向こうにそびえる巨大な山の姿が目に飛び込んできた。男には山は濃藍に染まった体をかがめて窓から自分をじっと覗きこんでいるように思えた。

 男はそれが富士山だと思った。煙も上がっているのに。

 もしかしたら、そう思い込みたかったのかもしれない。


 男は富士から目を離すことが出来なかった。やがて男の目には森も月明かりも闇も無くなって、ついにただ自分と富士のみが残った。男と富士は距離というものが消えてしまった空間でお互いに見つめ合っていた。

 富士がどんどん大きくなる。いや、近づいてきたのか。男の意識は、頭がギリギリと締めあげられるような感触と供にますます巨大化する富士の存在感に飲み込まれた。その時男は声を感じた。耳を無視して脳髄へ直接響いた。


 (此処へ来い。おまえは来ねばならない。この山を登れ。頂へ来い…)


 男は突然強烈な頭痛から開放され、ハッとして広場に立つ自分に引き戻された。今見たものは何だったのか。幻覚か?妄想か?

 答えなど知るはずもなかったが、あの言葉の響きに惹かれた。言葉に引力があった。そしてそれ以上に、理由は分からないが富士へ行かねばならないと、腹の底、自らの心が確信していた。


 男ははっきりしない意識そのまま、歩きに歩いた。森を抜けるともう山の斜面を歩いていた。左右に蛇行しながら山道を登っていく。

 長い長い登り道をひたすら歩いた。疲労に首をもたげて足先ばかり見ていた男はふらりふらりと知らぬ間に増えていた登山者に気が付かなかった。彼が気付いた時には、彼の周りに数十人近い人影が集まっていた。そして彼らもまた男と同じように視線を落としたまま無言で山を登り続けているのだった。


 男は彼らに少なからずの興味を持った。自分もなぜ山道を歩くのかといえば、山のお告げとでも言うような蜃気楼染みた言葉に導かれたからとしか言いようがなく、そんな自分と同じ道を歩く彼らに興味が湧かない訳がなかった。

 なんとなく見咎められるのを恐れる気持ちがあって、コソコソチラチラと挙動不審に彼らを観察していると、みんな服装も年齢も様々なようで、男女問わず二十代から六十代以上の人も見とめた。子供は稀だった。

 そして、皆共通してなにかしらの荷物を大事そうに抱えているのに気がついた。左手前の若い男女の集団はそれぞれ炭、七輪、ガムテープ、小瓶を。右前方の老人は縄を。目の前の男性はポリタンクを。

 皆、足元は僅かに蛇行するようなおぼつかない足取りであるのだが、その荷物を持つ手に青筋が立つほど強く握っているのが対象的で不思議であった。

 ふと、男は自分の右手にも縄が握られているのに気がついて仰天した。思わず振り捨てた縄は石だらけの斜面を少しだけ滑って止まった。

 なぜだ。何かを持った覚えはないのに。

 男はうろたえていたが、他の人々はそんな男を気にも留めていないようで淡々と坂を登っていた。男は恐る恐る縄を持ち上げた。なぜか、この縄の感触をよく知っているような気がした。

 ズグン、と激しい痛みが頭と首を襲った。意識が朦朧とし、目の前の景色が消えて頭に埋め込まれた記憶のノートを乱暴にめくるように何かの場面が繰り返される。

 妻と幼い子供が食事をとっている。二人の笑顔を見て、何故か顔の暗くなる自分。会社に行く時間なのに街をフラフラと彷徨っている。なにかの書類にハンコを押している。預金通帳を見つめる。ホームセンターを歩く。縄。富士行きのバス。缶ビールと縄をバッグに隠して…。

 喉にせりあがる不快感に意識が引き戻される。

 いつの間にか斜面にへたり込んでいた男は胸の奥から込み上げて来る吐き気を抑えられず、歩行者に構わずゲーゲー吐いた。だがなにか硬いものが喉の奥にへばりついていて吐き出せない。思い切って手を突っ込んで引っ張りだした。一気に引っ張り出したせいで喉が傷ついたのかヒリヒリと痛んだ。

 男は肺が軋む程に息を荒げつつも吐き出したものを見た。それは”辞職願”と書かれた一枚の白封筒であり、男は気を失って目の前が真っ暗になった。


 私の生活はこれでいいのだろうか、などという疑問は十年以上前に捨てた気がしたのに、ふと私の心に湧き上がっては心臓をマッチで炙られているような焦燥を感じることが度々あった。

 結局捨てきれていないのだ。

 入社して数年目の頃、まだ私は青かった。自分にはもっと力がある、立派で堂々とした大人になれる、と思っていた。しかし、細々としたミスが続き、それがなかなか直らなかった。もっと頑張れば、もっと必死になればきっとできる。そう歯を食いしばって自分に言い聞かせてきたが、結局私はなにも分かってはいなかったのだ。

 あるとき、「理想を捨てろ!」と上司に怒鳴られ、私は泣いた。私の目指したい”大人の姿”など、”社会”は求めていなかったのだ。私が追っていたのは狂人の見る夢想の世界となんら変わりはなかったのだ。それから自らの仕事を淡々と消化することが全てになった。ぼーっとする時間が増え、怒られる前より考えることが難しくなったが、考えないほうが楽だった。休み時間は呆然と抜け殻のようにタバコをふかし、仕事が始まれば馬車馬のように打たれるまま働いた。

 時折、明かりの無い住宅街や田園地帯に惹かれてフラフラと歩くようになった。火が消えてしまった町が自分の体にとても馴染む気がした。

 それでも十年以上仕事を続けた。同じ仕事の繰り返しでも長く続けると「よく頑張ったな」と自分を慰めることができた。

 そんな折だった。

 不況だ。給料の五分の一以上も吸い上げられる税金に、あらゆる生活層の人間の消費は一向に増えなかった。

 しかも消費者に買わせるために価格を下げても利益が少なく、利益を得られない大多数のサラリーマンが給料を引かれ、さらに消費が落ち込んだ。それに合わせてさらに価格を下げるが利益は更に少なくなる…。いわゆるデフレスパイラルが私の企業を直撃した。

 社長以下幹部は大幅な人員削減を決定した。リストラの名簿が秘密裏に作られたと噂に聞いた。

 実は人には工場機械なんかよりもよっぽど金がかかる。機械は一台何千万円かで人間何人分かの作業をこなし続けることができるが、人間は一人ずつ年収となる何百万円を毎年払わねばならない。十年単位で先を考える企業家にとって労働者は必要不可欠な存在でありながら、莫大な負担にもなりえた。

 私は負担と判断された。部長に肩を叩かれ、会議室に呼ばれた。

 私は会社をクビになった。自主退職、という形をとってはいたが、本質を見れば私は追い出されたわけだ。家族のことを想い、辞めたいとは考えていなかったのだから。

 まだ若い時分から私には妻がいた。優しいが、少し頼りのない女だった。だが、あまり賢くないその妻を私は愛していた。

 妻にこのことは言えなかった…。


 急に目の前に灰色の砂利と星の無い濃藍の夜空が現れた。いや逆だ。目を覚ましたから見えるようになっただけだ。男は相変わらず山道に居た。男は起き上がって、また歩き出した。

 会社を辞めされられ、それから私はどうしたのだろうか。

 思い出そうとすると身震いがして、息が苦しくなった。喉が詰まりそうだった。

 男はまた考えることを止めて歩くことだけに没頭した。

 山の頂上はもうすぐだった。男は、ますます増える人達の冴えない背中と重い足取りに、彼らもまた自分と同じような苦しみを抱えているのだと思った。しかし、その人々と相通じるものを感じても、なぜか連帯感などではなく無性に哀しい気持ちになるのだった。


 男は険しくなる斜面を必死に登った。過去を思い出そうとするだけだと辛かったが、登ることに全身全霊をつぎ込んでいる方がかえって過去の場面を思い出すことが出来た。

 足を踏み出す。脳裏に妻の心配そうな顔が浮かぶ。これは私の元気がないのを気にして質問を浴びせかけてきた時のことだ。どんな質問にも「なんでもない」「大丈夫」と曖昧な返事しかできなかった。その度に妻の顔に刻まれた心配が更に深まるのを見て胸が痛くなった。

 体を引き上げる。子供の顔が浮かんだ。まだ小学生の息子は、すこし変わったことを言う子供だったが、親思いの優しい子供だった。あの心の中さえ見透かしてしまいそうな透き通った瞳は妻によく似ていた。あの子はどうしているだろうか。いまは笑顔でいるのだろうか。

 私は何をしてしまったのだ。

 私がしてしまったこと。

 それは。


 男は斜面を登り切って頂上に立った。ここまで握りしめてきた縄を見た。

 記憶が、戻りつつあった。

 …この縄は見覚えがある。そのはずだ。私がこの縄を買い、使ったのだ。いったい何に?

 …ああ、ああ!思い出した!そうだ!そうだとも!私は死のうとしたんだ!今ならはっきり分かる。私は自殺したはずだった!富士の樹海のどこか奥、だれにも見つからないような場所で。そしてこれは、そのために用意した縄だった…。

 火口から昇る灰色の煙が、暗い夜空の遙かな上空でバケツに垂らした絵の具のように溶けて消えていく。煙が目に染みた。いつの間にか流していた涙は煙だけのせいでは無かった。男は空を見上げたまま膝から崩れ落ちた。


 富士の頂上はエレベストなどに見るような険峻な頂ではなく、火口とその縁が平らだった。平らな部分に人だかりができていた。

 しかし人だかりがあるのと対象的に辺りは静かだった。砂利を踏みしめる音も衣擦れの音も無いことに気がついた。

 眼が覚めてからずっとそうだ。ここは何かがおかしかった。

 男は前に進み出た。富士は私を頂上まで呼んで何をさせたかったのか。その答えが火口に在る気がした。

 火口は灼熱の溶岩を湛え赤々としていた。溶岩までずいぶん高さがあるのに、肌がジリジリ焼けるほどの熱気が男の顔を包みこんで、思わず後ずさった。


 ここに来た。来たが、どうすればいいのだ。男は呆然として黙々と昇り続ける灰煙を見上げていた。

 突如、星明りもない空から一筋の光が差し込んだ。金色の光は闇を裂き、火口に針のように突き立って伸びていた。光はどんどん太くなった。光が太くなる毎に周囲の人々が白く染まっていった。光は美しかった。そして温かかった。私という全存在が抱きしめられ、在ることを許されていた。きつく強張ってしまった心が解かされていく感触があった。

 膨張が止まったとき、それはまさに”光の大木”と形容すべきものになっていた。

 その大木から、それと同じくらいに眩しく輝いた人型のものが現れた。光そのものが人の姿をして現れた”光の化身”の如く思われた。

「我は導きなり」

 脳髄の奥に直接響き渡るような声が聞こえた。聞き覚えがあった。この声は富士に誘われた時の声と同じだ。

 声は続けた。

「富士は聖なる山。その火は清めの火。霊峰富士の火口にくだれ。さすれば悪しきは焼かれ罪は許される。清浄になった魂は、天の国へ迎えられる」、と。

 男は歩を進めた。呆然とした気持ちのまま、街灯に吸い寄せられる蛾のように光に向かった。

 そして火口の縁に近づいていく。光の化身はもう目の前だった。男は手を伸ばした。

 声が響いた。「後、五十年」

 ふっと足元の感触が無くなった。途端、男は火口へ続く斜面を転がり落ちていた。体に大小様々な石礫がぶつかり、シャツが裂け靴が脱げた。その勢いは止まらないどころかますます速くなる。

 男の眼いっぱいに燃え滾るような赤色が広がった。止まらない勢いのまま溶岩の中へ落ちた。


 数千度に解けた岩は一瞬で服を炭化させ、その奥にある肉を焼き尽くし骨を焦がした。

 男は叫んだ。彼が一生で一度も出さなかったほどの叫びは火口の斜面を反響し、頂上を震わした。

 だが、それも一瞬だった。

 白く濁った眼球は何も見ることができなかった。が、その脳裏には自宅で泣き崩れる妻と子供の姿が映っていた。


 富士の業火が身を包み、男は燃え尽きた。僅かに残った灰が立ち上る蒸気に乗って、果てもないような暗闇の空へと舞い上がり、散った。


 目を覚ましたのは暗闇の中だった。うつ伏せになっていた鼻は地面に半ば突っ込んでいたせいでむせ返るような濃い湿った土の匂いを思いっきり嗅いでしまった。

 差し込んだ月明かりを頼りに男は立ち上がった。

 此処はどこだろう。男の意識ははっきりしないし、体の中が痛いほどに熱い。

 熱でもあるのだろか。

 突然瞼に何かが当たってとっさに目を閉じた。それはすぐに自分の汗だと分かったが、拭った服の袖がひたひたになって驚いた。それだけじゃない。全身ぐっしょり汗をかいていた。まるでサウナの後のようだった。

 男には状況が分からなかった。なぜここに私はいるのだろうか。白濁した意識はどうしても過去を思い出させてくれない。

 ここはどこだろう。

 ただ、歩き出さなくてはいけない気がした。

 男は森の闇の中を慎重に、木の葉を踏みしだいて歩き出した。

 その遥か向こうに、巨大な火の山が煙を上げて佇んでいる。暗い迷いの森を見下ろしているーー。



 この世の命が自然に死ぬまでの時間を「寿命」と言う。

 神がこの世の全てを創ったならば、”その生命がどれだけの時間この世に生きていいか”を神が定めたものが「寿命」であると考えられる。

 神は苦しみの中で学ばせ、信じるものに救いの手を差し出す。東洋の思想にあるように命は死後も存在し生まれ変わるとすれば、失敗も挫折も全ては永遠の転生の中でより幸福な存在になるための計画の一部でしかない。

 しかし、”己の命を勝手で捨てること”、つまり「自殺」は、そんな神の意図を邪魔する罪に他ならない。それは神が差し出した救いの手をはたき落とす行為。

 それは少なからず救いになる場面もあろう。

 しかし、まだ「寿命」が残されているのに命を断ってしまったならば、その寿命の尽きるまでの時間、延々と死の苦しみを味わい続けるというのは、ごく自然な罰だと考えられないだろうか。

富士山がモチーフなのは、富士の火口で焼かれた不老不死になれる蓬莱の薬のエピソードと、不老不死=生まれ変わる魂のイメージを重ねたところから。


彼のモチーフは私です。こうなりたくないなぁと思って書きました。

彼には後何十年か頑張ってもらいましょう。

そしたらちゃんと天国に帰れるはず。

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