第183話 深層!心の奥に潜む者!
前回のお話
7つの世界を統べる神キュラスメヒンツァは、自身の世界に侵入した暇に瀕死の重傷を負わせ、その深層心理に侵入したのだった。そこには学校の教室の風景が広がっていた。
「があああああ、目が!!!目が!!!!」
「きゃーーーーー!!」
「おい!先生呼べ!!」
男子生徒が苦痛に呻き、周囲から悲鳴があがる中、暇は静かに本の続きを楽しんでいた。血液に塗れた指はぶらりと床に向けて下げたまま、片手で器用にページを押さえている。
「おい!! てめぇ、何したか分かってんだろうな!!!」
もちろん、傍観する者だけではない。仲間を傷つけられたことで、激昂した別の男子生徒が暇に掴みかかった。だが、胸倉を掴まれた暇は、視線は本に向けたまま、下げていた手をその男子生徒の眼球へと伸ばす。
「!?」
先程の凄惨な光景が脳裡に浮かび、男子生徒は慌てて暇から距離を取った。この素早い判断のおかげで2人目の犠牲者は出なかったものの、暇が本気で自身の目を潰しにきたことに恐怖を覚えたのか、男子生徒は青い顔をして暇に視線を送る。
傍観者たる女神は、その様子を見て、目を細めた。
「ふむ。このような行為、我が知る人間種の社会ではそれなりの罪に問われるところであるが、この男の世界でも同様であろうな。
……とすれば、この男、自身の生がいかようになろうと興味がないということか」
キュラスメヒンツァは、人間種の掟は世界が異なっても大きく違うまいと予想する。
眼球を欠損させるような怪我は、その世界の魔法レベルや医療レベルにもよるが、回復が難しい分類に入るはずだ。そのような怪我を相手に与えたとなれば、それなりのペナルティがあるのは間違いない。それを何ら気負うことなく簡単に実行したとなると、ペナルティを気にしていないか、ペナルティを撥ね退けられる強者か、感情の歯止めが効かない危険人物かのいずれかだろう。
だが、この記憶の中の暇は、この時点では普通の人間のようだ。治安を維持する公権力の類に逆らえるほどの力を有している様子はない。
更に言えば、暇は淡々としており、感情の歯止めが効かなかったようにも見えなかった。そもそも、感情を抑えられずにすぐさま相手を害するような人間であれば、この年齢に達する前に隔離されているはずだ。ということは、少なくとも暇はこの学び舎に入る年齢までは、普通の皮を被る程度のことは出来ていたということになる。それなのに、長年被ってきたそれをあっさり脱ぎ捨てることに躊躇いが見られない。
キュラスメヒンツァが、暇は自身の生に興味がないと断じたのはそのような点からだった。
「なにがあった!!!」
やがて、暇が本を読み終わったとほぼ同時に、教師と思われる大人らが大慌てで教室に駆け付けた。彼らは状況を確認すると、怪我を負った男子生徒を運び出し、続いて暇を教室から連れ出そうとする。抵抗するかと思われた暇だったが、本を読み終わっていたためか、机の上に本を置くと、教師に連れられて素直に教室から出て行った。
暇が教室から出たと同時に学び舎を再現していた空間から全ての人影がスッと消える。
「ふむ、この場の記憶は以上か。
で、これがこやつの読んでいた本……文字は読めぬが、この挿絵……ふむ、これは艶物語の類かの。つくづく食えぬ男であるな」
どうやら、この場所に浮かびあがる記憶はここまでのようだ。記憶の主である暇が教室から連れ出されたことで、この場所の記憶はここで途切れることになる。精神世界には、このような記憶の断片が散らばっているのだった。
なお、この事件の後、暇は家庭裁判所へ送致される前に姿を消している。密室から忽然と姿を消したこともあり、新聞などでも話題になったようだが、まさか異世界へ転移したとは誰も思わなかっただろう。
「では、次へ向かうとするかの」
キュラスメヒンツァが教室のドアをガラリと開けると、そこには下へ向かう階段があった。精神世界は深層へ向かって、下へ下へと続くのだ。
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「ここが最下層か……」
キュラスメヒンツァが辿り着いたのは、暗い部屋だった。その中央には少年が――恐らくはまだ幼い暇であろうが――膝を抱えて座っていた。顔を伏せており、その表情は伺い知れない。
「これまでとは少し様子が違うが、こやつがまだ幼き頃の記憶か?」
キュラスメヒンツァがこの階層に降りてくるまでに見てきた暇の記憶は、統一感の無い荒唐無稽なものが多かった。異世界で商売を始めたり、異世界を滅ぼしたり、病魔に侵された幼子を助けたかと思えば、子を持つ親を拷問して我が子を殺すように強要したり、ほのぼのした記憶から、陰惨な記憶まで多種多様だ。
「普通の人間であれば、もっと統一感のある記憶で構成されておるものだがの」
だが、ひとつ言えることは、暇なる男は、自身の保身を全く考えない人物であるということだ。キュラスメヒンツァは不死の呪いによるものかと考えていたが、どうやらそれ以前からのものらしい。それは他人の人生だけでなく、自分の人生にすら何も期待していないところから来ているのだろうと推測される。
実際、例の不死となる呪いがかかる以前から、暇は異世界で何度も無茶な行動を取っていた。
「どの記憶も死んでも構わないと考えているゆえの行動であったな。こやつが死ななかったのは、単に運が良かっただけ……もしくは、今のこやつが因果を捻じ曲げたかのどちらかよな」
キュラスメヒンツァを含め、因果を操作するほどに力を持つ存在であれば、過去に介入する事ができる。不死の呪いを受ける前の暇が運良く死ななかったことも、現在の暇が過去の因果に介入したためである可能性はあった。そう考えないと不自然なほどに、彼は運良く生き延びているのだ。逆に言えば、それだけ無茶な行動を繰り返していたということでもある。
「この男の力なら確かに多少の因果を操作できるやもしれぬ。だが、我の前に現れたのは不運というもの。我の力には遠く及ばぬ」
キュラスメヒンツァから見ても、暇の力はそれなりのものだ。小さな世界の創造神よりも強いかもしれない。その力は世界の理に干渉することが可能なレベルであり、人間のそれではない。それゆえに、いささか調子に乗り過ぎたのだろうと女神は考えていた。
だが、キュラスメヒンツァが気になっているのは、ここまでの階層において、それほどの力を得た際の記憶は出現しなかったことだ。
「普通は、強大な力を得た際の記憶は強固なイメージとして、深層心理のどこかに存在するもの。
最も深い階層に、その時の記憶と心理があるかと思うたが……幼き頃の記憶とはな。
……少年よ、顔を上げい」
キュラスメヒンツァは暗い部屋の真ん中までゆったりと進み、目の前で蹲る少年にそう命じた。
キュラスメヒンツァのこれまでの経験から言うと、最深層にある幼い姿は、心理的なトラウマを抱えた、心の最も脆い部分であることが多い。
(我に刃向ったこやつの心傷を抉ってやるのも悪くない)
女神はニイッと口を歪め、サディスティックな笑みを浮かべた。
「お姉ちゃん、誰?」
少年が顔を伏せたままで問いかける。
「我はキュラスメヒンツァ。少年、お前は何を泣いておる?」
「きゅあすめ……きゅらふめ…… ううん、泣いてないよ」
女神の名を正しく呼ぶことをあきらめ、泣いているという指摘を否定した少年は、ゆっくりと顔を上げる。
「でも、なんで世界は悲しいの?」
「ほぅ、そのようなことで泣いていたのか?」
「泣いてないよ」
確かに少年の眼には涙は浮かんでいない。だが、その目は紅くなっている。
「世界が悲しいのは人間が愚かだからだ。矮小な中にも階級を作り、他者を虐げる」
「階級? やっぱり人間は平等じゃないの?」
少年は無表情のままで神に問いかける。
「平等? ああ、一部の世界の人間にはそのようなことを言う者もおるな。だが、生まれながらに金持ちもおれば、貧民もいる。知能すらもある程度は親から伝わるのだぞ。人間が平等なわけがなかろう」
「やっぱりそうなんだ。じゃあ、悲しい人は運が悪かったんだね」
納得した表情で、しかし寂しそうに少年は呟く。
「運が悪い? ふむ、そうとも言えるかもしれんな。生まれ、境遇、環境……様々な要因によって人間の目に映る世界は、悲しみに染まるものだ。
だが、少年よ。我の前では人間など皆平等だぞ」
内心では、人間など同様に無価値だと呟きながら、優しい口調で女神は語りかける。
「お姉さんの世界?」
「ああ、全ての世界は我のものだ。世界のことは我が決める。悲しみで満たすのも良し。喜びで満たすのも良し」
キュラスメヒンツァはそう述べるとゆっくりと暇に手を差し出した。
「さぁ、この手を取り、我が世界に来い。そうすれば、お前も楽になれるぞ」
この精神世界で相手を取り込むことは、その人間の精神を屈服させることになる。このまま、心を許した精神を嬲り殺しにすることも可能だ。
そんなキュラスメヒンツァの心情も知らず、暇少年はキュラスメヒンツァの手に自らの手を重ねた。
「我を受け入れたか」
キュラスメヒンツァは嗜虐的な光をその目に宿し、そう呟いた。だが、少年はその目を真っ直ぐに見つめ、こう述べた。
「でも、お姉さんはボクを消そうとしてるでしょ?」
「……!?」
少年の言葉にキュラスメヒンツァは不審な表情を浮かべる。確かに暇と戦い、彼を瀕死に追い込んだ女神ではあるが、その表層の記憶がこの深層に届いているはずはない。それでは、なぜ少年がそのようなことを言うのか。
「残念だけど、ボクの遊び相手はまだボクと遊びたいそうだから」
キュラスメヒンツァの手を握る少年の姿がぐにゃりと変形し、背丈が伸び、一回り大きな姿へと変じていく。
「貴様……意識が……」
キュラスメヒンツァの手の先には、先ほど現実世界で瀕死に追い込んだ男が立っていた。
「いやぁ、ボクだけならどうしようもなかったんだけどね。ボクの遊び相手がさぁ」
「遊び相手……だと?」
現実世界で瀕死に追い込んだ男は……いや、瀕死に追い込んだ男ではなかった。その左眼が真っ黒に塗り潰されている。深く暗い瞳だ。そこから、ゆっくりと黒く虚ろな何かが暇の全身へと広がっていく。
「お前は……いったい」
キュラスメヒンツァにも何が起こっているかは分からなかった。ただ、暇の奥底に潜んでいた『何か』が、その身体に乗り移っているように見える。
(いや、これは……乗り移っているというよりは……何らかの力がこの男の形をなぞっているのか?)
当然の話だが、虚無そのものは意志をもたない。暇が虚無に意志を持たせることに成功したのは、自身の身体を虚無で再構成させたためである。神経細胞の代替として虚無で構成された脳が、仮想的に虚無の人格を宿したのだ。一度生まれたその意志は、暇の遊び相手として、普段は暇の中に潜んでいる。それが表に出てきたのだ。
「やぁ、初めまして。深淵だよ。虚無だよ。永劫の闇だよ」
「……こういうことだったか」
目の前に立つ、暇であって暇でない存在の間の抜けた自己紹介を聞いて、キュラスメヒンツァはようやく状況を把握した。暇という男は虚無そのものを宿していたのだ。
「相手にとって不足なし。我とて7つの世界を統べる神ぞ! 世界を飲みこまんとす……
パチン
キュラスメヒンツァが言葉にできたのはここまでだった。
ドサリと音を立てて、上半身を失った女神が倒れる。もちろん、見た目では上半身が失われているに過ぎないが、実際にはもっと高次元な概念で彼女の存在が削り取られていた。その存在を保てなくなる程度に。
こうして、あっけなく、簡単に、運悪く、7つの世界を統べる存在は消えた。
「あー、運が悪かったね。キュラ……キュラ……えーと、キュラなんとかさん」
「そのようだね。
さて、どうする暇君? いろんな世界で遊んだし、そろそろあの世界に戻るかい?」
「確かに、そろそろ頃合いかな」
その場に立つ1人の男は、同じ口を使って、そんな会話を交わしたのだった。
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