第152話 顕現!深淵と虚井 暇!
前回のお話
シュレディンガーの中に隠れていた暇は、インウィデアを唆していた騒乱の神ベルムと出会う。暇を処分しようとするベルムだったが、暇の狙いは、ユキトの能力と擬神化のスキルを使って『深淵』を神格化することだった。
深淵を覗くときは深淵もまたこちらを覗いているという。では、こちらを覗いている深淵に何らかの姿があるとすれば、それはどんな姿をしているのだろうか。
『深淵』の神格化にあたって、暇には一つの確信があった。『深淵』が覗き返してくるとすれば、それは自分自身の姿をしているはずだと。
暇の考えでは、本来の『深淵』には意志も何もない。ただ、底なしに深い闇そのものだ。その『深淵』が、覗いた者を覗き返しているとすれば、それは覗いている本人が『深淵』の闇に捕らわれ、蝕まれた結果なのである。ゆえに、覗き返している『深淵』の姿は、自分自身であるべきなのだ。
この考えは暇の妄想、あるいは信念、もしくは信仰のようなものだったのかもしれない。
だが、その考えに基づいて、暇は自身の内に『深淵』を受け入れる領域を確保した。どのようにそれを為したのかは定かではないが、彼は自身の中に『深淵』に侵食させるための、もう一人の自分を作り上げたのである。それは二重人格にも似ていたが、その人格に向けて『深淵』が逆流し、闇に取り込まれ、覗き返してくる存在へと変化するはずだ。
「さぁ、この加護を通して『深淵』がボクに上がってくるぞぉ!!」
暇の狂気が場を支配している。その表情は、笑っているのか、泣いているのかの判別もつかない。
だが、虚無を現世に降ろすということが、どれほどに危険なことか。神であるベルムは、それを重々承知していた。
「そのようなことはさせぬ!!」
鬼気迫った表情のベルムはそう叫ぶと、暇に向かって力を行使する。神であるベルムの意志に従い、周囲の空間が圧縮され、暇を圧し潰そうと迫る。ギギギギッギギッと空間が軋む音が響いた。
「このまま潰れて、異空間へ消え……なにっ!」
だが、神の目的は完遂されなかった。暇に迫っていた空間の圧縮が、何らかの力で霧消してしまったのだ。
「これは……いったい!?」
ベルムの口から驚きと焦りの声が洩れる。先の空間圧縮は、低級の神であれば空間とともに破砕してしまう程の力を秘めている。暇単体では防げるはずもない攻撃だ。
「いやぁ、ちょっと遅かったね」
不穏な空気を醸し出しつつ、暇がユラリと顔を上げ、ベルムの方を向く。それと同時に、先程から髪で隠れていたその両眼が露わになった。驚いたことに、暇の左目は完全な黒色と化しており、まるで眼孔に深い穴が生じているようである。
そして――
「やぁ、ボクを喚んだのは君かい?」
暇の口からそんな言葉が紡がれる。彼の声色であり、口調でもあるが、それが暇の言葉であるはずもない。
「そうだよ。はじめまして。ボクの名は虚井 暇。もう知っているかもしれないけれど」
自分自身の問いかけに答えるかのように、暇が連続して口を開く。こちらは暇自身の言葉であろう。どうやら、彼の中に2つの人格が生じていて、同じ身体を使って言葉を交わしているようだ。
「これはこれはご丁寧に。ボクは深淵、虚無、永劫の闇、唯一の真実、それらの名で呼ばれる概念の集合体であるそれ」
「ということは、無事に現実世界に喚び出せたってことでいいのかな?」
「そうだよ。君の願い通り、ボクは君の身体を借りて顕現した。虚無の力を借り受けよう、もしくは手に入れようとする者は時々いるけれど、まさか意志を持たせようとする人間が存在しようとはね」
傍から見ていると、あたかも暇が一人で喋っているだけのように見えた。だが、それが間違いであることはベルムの表情からも察することができる。彼の表情は恐れと怯えに満ちていた。
「お、お前は何をしたか分かっているのか……!? 実界に虚無を呼び出すなど……しかも、その虚無に意志を持たせるなど……この世界が、いや全ての世界どうなるか分かっているのか!!」
声を震わせつつ、ベルムは暇を糾弾した。ベルムが危惧するのは、虚無がその意志に従って、世界を消してしまうことだ。全てをあるべき闇に還す。それが虚無の目的であるはずだとベルムは信じていたし、多くの神々も同じ見解のはずだ。
「それでボクを顕現させて、キミはどうするつもりだい?」
口角泡を飛ばしているベルムを一瞥しつつ、『深淵』は自分と身体を共有している男に向かって問いかける。
「どうするつもりって、ボクの身体を使って意志を持っているのだから、ボクの記憶も使えるんでしょ? 何をしたいかは伝わっているはずだけど」
暇はそう述べることで、己の身体を間借りしている存在への回答とする。
「くっくっくっく! 確かに! 意志の持ち合わせなんて無かったボクが、この世界に顕現するにあたっては、君の記憶や知識を流用させてもらっている。ゆえに、君が考えていることも分かっている。
まさかこんなことを考える人間がいようとはね。でも、これは是非とも直接、君の口から聞いておきたいところだね」
『深淵』が意志を持った存在は、何かが愉快で堪らないという雰囲気だ。かつてインウィデアとユキト達が戦った広間の真ん中で、暇の姿をした何かが、肩を震わせて笑っている。
「オーケー。じゃあ、言っちゃうね。 深淵よ、覗き返す者よ。虚無と呼ばれし、深き闇よ。唯一の真実にして、無常の果てにあるものよ。ボクと一緒に遊ばない?」
そこには少しの間があった。さしものベルムも呆気に取られている。まさか、虚無を神格化までしておいて、その目的が遊びに誘うことだとは予想できようはずもない。
「くっくっくっく……あっはっはっはっはっは!!
いやぁ、改めてこの耳で聞くと面白いね。普通は『虚無の力を我が手に!』とか、『このような世界、全て消してしまえ!』みたいな願いを言う場面だよ」
「だって、深淵の神様にとっては、世界を消すなんて別にどうでも良いでしょ?」
「良く分かっているね。流石に虚無であるボクを遊びに誘おうというだけのことはある」
2人の……いや、正確には一人芝居のようなやり取りなのだが、ベルムは困惑していた。『深淵』あるいは『虚無』という概念が神として顕現したにも関わらず、世界を消す意思がないというのだ。ベルムに限らず、この世界の神々、さらに他の異世界を含めた神々も、『虚無』の最終的な目的は全てを消し去ることだと考えていた。全ての生命、存在、世界はその運命から逃れようと必死に抗っているのではなかったか。
「虚無の神よ……貴殿は世界を消すつもりはないと?」
目の前の予想外のやり取りを受けて、ベルムは『虚無』の意図を確認する言葉を口にしていた。そのベルムの問いに、恐らくは暇と思われる人格が返答する。
「そりゃあ、深淵の神様にそんな『つもり』はないさ。だって、世界の全てが虚無に還るのは、自明のことだからね。存在、時間、空間は有限で、いずれ闇の中に沈んで消えることは、疑うべくもない当然の帰結だ。つまり、『深淵』が意志を持ったところで、わざわざ世界を闇に還そうなんてする必要はないんだ」
暇は力を込めて、ベルムに告げる。『深淵』からすれば、世界が消えるのは当たり前であり、疑うようなことではないと。ゆえに自身でそれを為そうとする意志などないのだと。
「例えば、人間は太陽を沈めて夜にしようと努力なんてしないでしょ? だって、放っておいても確実に夜になるんだから。それと同じさ。
大抵の存在はグラハム数くらいの時間を経れば、消えてなくなってしまうだろうし、どんな世界も、あるいは不滅のはずの神の法則だって、ふぃっしゅ数くらいの年が経てば失われる。もう決まっているんだよ」
異世界の神たるベルムには、「グラハム数」も「ふぃっしゅ数」も理解できなかったが、文脈から判断するにとてつもなく大きな数ということは推測できる。
『深淵』からすれば、生きとし生けるもの、天地を統べる神々、あらゆる時空に散らばる全ての異世界、それらがどう足掻いたところで、いずれは全てが滅ぶのであるから、自身がどうこうする意味はないということだろう。
「……キミら意識ある存在が『虚無』や『深淵』に向ける態度なんて、抗う、逃げる、諦める、無視する、受け入れる……そんなところだ。だが、この暇君は『共に遊ぶ』という選択肢を示したわけだ。実に面白い」
この『深淵』の神が、暇の提案に興味を示しているのは明白だった。遊びの中身はどうでもいいのだろう。ただ、深淵に対する付き合い方として、そのような提案をしてきたこと自体が面白くて仕方がないという様子だ。
「いいとも。君の遊びに付き合おう。世界を破壊しようが、支配しようが、好きにやるといい」
この瞬間、『深淵』の力が暇に宿った。彼は虚無を支配したわけでも、利用したわけでもない。ただ、純粋に好き勝手に遊ぶために、その遊びに誘った。そして、意志を持った『深淵』がそれを受け入れた。その結果である。
だが、過程はどうであれ、世界を消し去るに十分な力が、禍人たる虚井 暇に宿ったのだ。
「それじゃあ、まずは異世界に転移した主人公クンを消してみようかな」
口に三日月のような笑いを浮かべ、暇は静かに呟いた。
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