第151話 発動!深淵を覗き込む者!
前回のお話
クレアールはサブシアでカレーを食べました。
インウィデアが滅び去り、ユキト達が立ち去った迷宮群落の最奥にある広間。今や、その空間は深い静寂の底に沈んでいた。戦闘中の爆音、轟音が嘘のようである。
だが、広間のそこかしこには床材や壁材の破片が散らばっており、先刻の戦いの記憶を残していた。破壊されずに残った魔道具と思しき灯火が、音もなく淡い光を放ち、広間内を仄かに照らしている。
広間の最奥には、相変わらず大きく開いた岩の門が聳え立っているが、クレアールの出現時に門の奥から流入していた光の洪水も、今は止まっている。神界に繋がっているらしい門の奥には、墨を流したような暗闇が続いていた。
クレアールにより神格を与えられた門の神も、今はその姿を隠しており、この場所は今後何十年も変化がないのではないかと思わせる雰囲気がある。
だが、その時……
シュワワワ
微かに何かが泡立つような音がして、広間の床にジワリと黒い染みのようなものが浮かび上がった。影のようにも見えるが、その位置に影を作るような物体も光源もない。拳大の影はゆっくりとその面積を広げていく。
やがて、その影らしき何かが人間程度の大きさにまで広がると、中からヌルリと人間の腕が生えてきた。さらにもう1本の腕が突き出し、続いて頭部、そして上半身と、影の中から1人の人間が姿を現す。
「ありがとう、シュレディンガー。礼を言うよ。おかげで無事にシジョウ君たちの目から逃れられた」
「礼を述べられる必要はない。かつて貴様と交わした1度だけ姿を隠す手伝いをするという約定を果たしただけだ」
影から姿を見せた男――虚井 暇は、その影に向かって礼を述べた。その礼の言葉に応じると同時に、影だったものがヌーッと変形して、一匹の黒猫へと姿を変じる。
二次元の染みから三次元の黒猫へと変じたことで、シュレディンガーの背後には本物の影が出現していた。
「さてさて、インウィデアさんも消えちゃったねぇ。この世界の創造神がシジョウ君の知り合いだとは、コネの力は恐ろしいもんだ」
「創造神が本気で探査していたならば、我の内部にいたとて隠れきれるものではなかっただろう。暇、貴様は運が良かったな」
暇と呼ばれた男は、両腕を左右に広げ、肩をすくめつつ、インウィデアが倒れた場所を眺めている。その場所には、もはや何も残っていない。
「そうだねぇ。確かに色々と運が良かった。
シジョウ君もボクが死んだかどうかは疑ってたみたいだけど、すんなりと先に進んでくれたしね。確かに今時『本当は滅びを望んでいたキャラ』なんて流行らないもんなぁ。
まぁ、君の中に潜んでいたおかげで、ボクが欲しかった材料は揃った。ようやく、ボクのやりたかったことが実現可能になったよ」
「貴様が『やりたいこと』とは珍しいな。碌な事でなさそうなことは確かだが」
暇の顔を見上げたシュレディンガーは冷たい目をしたままで、そう言い放つ。
シュレディンガーが虚井 暇と行動を共にするようになって長いが、この男の成すことは、およそ倫理や道徳とは無縁のことばかりであることをシュレディンガーは良く知っていた。暇の『やりたいこと』が、世界平和や人々の幸福などとはかけ離れたものであろうことは容易に想像がつく。
「んっ!?」
ここで急にシュレディンガーがその顔を『門』へと向けた。両耳をしっかと門の奥へと向けると、ジッと様子を伺っている。門の奥に何かを感知したようだ。
「門の奥から何か来る。インウィデアを遥かに超える力……恐らくはこの世界の何らかの神だ」
シュレディンガーはそれだけ述べると、ズブズブと沈むようにして、再び床の中へと姿を隠した。
暇をその場に放置したままで自分だけ隠れるという、見方によっては冷たい行動だが、この1人と1匹の関係では良くあることだ。彼らは仲間でも同志でもないのである。
一方の暇も、さっさと姿を消したシュレディンガーを気にする風もなく、ゆっくりと門の方へと向き直った。
シュレディンガーの種族が持つ感知能力は、彼らの持つ空間遮断能力ほどではないが、かなり高い部類に入る。感知能力という点では、暇の能力は普通の冒険者程度。暇に感知できなくとも、シュレディンガーがそう言うのであれば、『何か』が門の奥からやって来ているのは間違いないだろう。
コツコツコツ……
やがて、硬質な靴音が門の奥の暗闇から響いてきた。神経質そうな規則正しいリズムで、暇のいる場所へと近づいて来る。
「うん、足があるってことは幽霊ではなさそうだね」
続けて、暗闇の中に浮かび上がったのは初老の男性の姿だった。その身体には、高位の神官が身につけるような法衣を纏っている。グレーの眉に眼光鋭い鷹のような目、白髪が4割ほど混じった髪を後ろに撫でつけた、厳つい顔をした男性だ。
その初老の男性は門を抜け、そのまま暇の方へと向かってきた。
「こんばんは。どちら様ですか?」
臆する事などどこかに落としてきたと言わんばかりに、暇は『門』から姿を現した初老の男に話しかける。『門』から姿を現したということは神の類であろうことは想像に難くない。
「……」
だが、初老の男は暇を一瞥することもなく、彼の挨拶を無視したまま、インウィデアが消滅した場所まで歩みを進め、その場でようやく足を止めた。
「……どうやら、インウィデアは失敗したようだな」
インウィデアの消えた床を見つめながら、初老の男が呟く。一見したところ無表情ではあったが、その目の光は明らかに苛立ちを示していた。
「あ。ひょっとして、インウィデアの上司だった神様かな? 門が開いたから様子を見に来たってわけか」
暇は思いついたことを軽い口調で口に出した。特に根拠もない言葉であったが、その言葉を受け、ようやく初老の男が暇へと視線を移す。
「ほぅ、これまた随分と強力な不滅の呪いを纏った人間がいたものだな。お前がインウィデアを滅ぼした……というわけではなさそうだが」
「ボクは暇だよ。虚井 暇。おじさんは?」
まるで居酒屋で隣の客に話かけるように気軽に名を尋ねる暇の言動に対して、男はその目を細めることで、その不敬を指摘した。
「私は、騒乱の神ベルム。
人間風情があまり調子に乗らぬことだ。その不滅の呪いを解くのはやっかいそうだが、呪いをそのままにお前をこの地に封印するなど容易いことだぞ」
騒乱の神ベルムと名乗った男は、重厚な声で暇にそのような警告を発した。その表情には、人間を見下すような傲慢さとその人間から軽く扱われたことによる不機嫌さが宿っている。残念ながら、スルー力は高くなさそうだ。
『まろうど』である暇は知る由もないが、このベルムという神格はこの世界において良く知られた神の一柱であり、戦争や内乱などを司っている神だ。
かつてはこの神の加護を受けることができれば、戦争での勝利間違いなしと言われており、どの陣営も競って祈りや生贄を捧げていた存在だ。ベルムがどの陣営に加護を与えるかは、正義や倫理といったものよりも、ベルムへの信仰や供物を重視していると言われていたことも大きい。戦争を始めるようなヤツらは正義や倫理とは無縁の者が多いのだ。
「ふむ、騒乱の神様か。もう肩書からして不穏だよねぇ。
やっぱり、インウィデアさんの上司……いや、インウィデアを操っていた神様?」
暇の発言に、ベルムは初めて笑みを見せた。笑みと言っても、片側の口角を上げただけのニヤリとした笑みである。
「ほう……良く分かったな。クレアール様もお気づきではないはずだぞ」
「インウィデアさんには誰かと連絡を取り合っていた様子も、誰かから指示を受けていた感じもなかったからね。多分、インウィデアさんは自分だけの意志で動いていたと思うんだよ。
でも、おっさんはインウィデアさんの失敗を残念がっている。となると、1000年前にインウィデアさんを唆して、神々に弓を引かせた張本人……いや、張本神ってところでしょ」
暇の指摘を受けて、今度こそベルムは笑い声を上げた。
「はっはっは! 人間にしてはなかなか良い推理だ。
まぁ、クレアール様の目指す世界に賛同する神ばかりではないということだ。クレアール様の創られる世界は平和過ぎる。世界の本能はもっと戦いを求めているのだ」
そう述べると、ベルムは片手を掲げ、真っ直ぐに暇に向ける。
「残念だが、そこまで気づいている者を見逃すわけにはいかぬ。私とて直接クレアール様に弓を引くつもりはないのでな」
ボッ!!!
ベルムの手に紫色の炎が宿った。紫の炎は、キュルキュルと炎に似つかわしくない甲高い音を上げている。
「おっとっと、ちょっと待ってよ。ボクをどうにかするのは、ボクが今からやることを見届けてからでも遅くないと思うけどな。ギャラリーは多い方がいいからね」
ベルムが攻撃を仕掛けようとしていることを察知した暇は、慌てて攻撃を待つように頼み込む。何かを始めるつもりらしい。ベルムも暇が何をするつもりなのか、興味を惹かれた様子である。
「ほう、この期に及んで何をしようというのだ? お前の運命は変わらぬぞ」
「恐らく、神様でも簡単に見られない珍しいものが見られると思うよ。ボクを殺すなり、封じるのはその後にして欲しいね。尤も、それが終わった後にボクをどうにかできれば……だけど」
暇は自信たっぷりにベルムに告げる。その『何か』を行うことで、ベルムが暇に手を出すことができなくなると言うのだ。これは神へ向けた挑発であった。
「ふ、人間ごときに何ができる」
ベルムはそう言うと、顎をしゃくることで暇に行動を促した。その『なにか』をやってみるが良いということだろう。その動きを受けて、暇はスゥと目を細める。
「じゃ、遠慮なく」
その瞬間、常にわざとらしい笑みを纏っていた暇の表情から、笑いが完全に消え去った。いつになく真面目な表情だ。退避した空間内から、この場のやり取りを眺めていたシュレディンガーにしても、暇がこのような表情をする場面を見た覚えがなかった。
「始めよう……この世界で見つけた力を使って、ボクがやりたかったことを」
暇はそのまま静かに目を閉じると、両手を胸の前で合わせ、静かに息を吐き出す。
「ふぅぅぅ……発動! 三枚の御札! 加護を付与する能力よ! 今この時のみ、その力 この身に借り受けん!!」
暇は自身の能力、『三枚の御札』を発動する。この三枚の御札は、暇がこの異世界に入界する際に得た能力であり、彼が一度見た能力やスキルを使用可能とするものだ。ただし、使えるのは3回だけという制限つきの能力である。
この能力を用いた暇は、コピーする能力にユキトの『加護を付与する能力』を指定したのである。
「加護を付与する能力……何か加護を喚ぶつもりか?」
訝しむベルムを余所に、暇は身体の奥深くに何か熱いものが湧きだしてくる感覚を覚えた。その力の奔流はすぐに身体全身に行き渡る。暇の身体に一時的にユキトの能力が宿ったのだ。
更に『三枚の御札』の利点の一つは、コピーした能力の使い方や特性をその瞬間に理解できることだ。暇は、すぐに加護を生成する行動に移る。
「我が故郷にて、厭われ、恐れられ、遠ざけられし、永遠の闇よ。
時間の終焉。
全ての運命の終着点。
熱的死の果て。
唯一の真実。
限りない虚無。
諦めの根源。
絶対なる否定。
死に至る病。
全てが還るべき完全。
覗き返してくるもの。
数多の名で呼ばれ、あらゆる世界で信じられ、恐れられし『それ』よ」
「……お、お前は何の加護を得ようとしている!! それはまさか!?」
加護のモチーフとするもののイメージを固めるべく、暇はその対象へと儀式めいた呼び掛けを行う。だが、その様子を冷ややかに見つめていたベルムが、突然に焦りを見せた。
「やめろ!」
「……無限の深淵! その加護を我に与えよ!!」
暇は締めの言葉を大声で唱え、アメコミの忍者のように胸の前で素早く印を結ぶと、ユキトの能力により加護の付与を実行した。付与の対象は自分自身、加護のモチーフは『深淵』だ。
深淵。それは虚無とも呼ばれる存在、いや、非存在だ。あらゆる物語や文学、哲学にその概念は繰り返し登場し、人々を絶望させてきた。某RPGでもたびたび強大な力のモチーフとして使われている。避けられぬ生物の死を、さらに万物へと拡張させた概念であり、仏教的な無常観や厭世観の根源を成す。
暇は、その深淵の力をモチーフとした加護を生成したのだ。
だがこれは、虚構の存在、非実存の存在を加護にするという規則からは、何ら外れていない。地球において、虚無を、絶望を、深淵をその目で確認したものはおらず、その一方でほぼ全ての人々が本能的に『知っている』概念だ。
もちろん、加護は付与する対象を選ぶ。普通の人間であれば、この加護を身に宿すには不適格であっただろう。だが、ここで加護が付与される対象は普通の人間でなく、虚井 暇だった。
深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ――有名なニーチェの『善悪の彼岸』にある言葉だ。
永い時間を過ごす間、暇は思索の中で何度も深淵を覗き込み、そして覗き返されていた。そして、いつしか彼は深淵を現実に引っ張り出すことを考えるようになったのだ。
こうして、底知れぬ力を秘めた『深淵の加護』が虚井 暇の元に付与された。
「来た……来たぞ……深淵の力が」
珍しく興奮を隠していない暇だが、感情の高ぶりとは裏腹に、その呟きは静かだった。一方で、焦りを見せていたベルムが汗を拭いつつ、口を開く。
「虚無の力か……正直、驚いたぞ。それは人間ごときが持つべき力ではない。
……だが、それは虚無そのものではない。所詮は加護だ。人間が扱う仮初の虚無では、神である私を脅かすことはできぬ」
「そうだね。確かに加護のままでは大した力にはならない」
暇はあっさりとベルムの言葉を肯定してみせた。
「虚無と呼ばれるものをモチーフにとった加護。本物の虚無を参考にしたものだけど、虚無そのものではない。
でも、ボクがやりたかったことは、この先にある。ボクが欲しいのは加護じゃないんだ。最後の1回を発動! 三枚の御札、擬神化のスキル!」
暇が発動したのは、クレアールが使っていた『擬神化』のスキルだ。概念やモノを対象として、神格化するスキルである。これで、三枚の御札は使い切ったわけだ。
「……まさか!?」
今度こそベルムの表情が青ざめた。それとは対照的に、暇の口がニイッと三日月を形作る。
「そう! この加護を媒体として、『深淵』を擬神化して、この現実に呼び出すのさ。
さぁ、加護の力を介して、深き闇の底へと我が力が伝わらんことを! 深淵よ! 神格を成し、我が前に姿を現せ!!」
もしも暇がユキトの能力を行使せずに、直接 自身の中にある深淵や虚無という概念に向けて擬神化のスキルを使っても、恐らくは成功しなかっただろう。その深淵は、所詮は暇個人が思い描く深淵であるからだ。
だが、ユキトの能力で付与した加護を通じた先にあるのは、多くの人々の共通概念として、恐れられ、厭まれ、忌避されてきた『底知れぬ虚無』のイメージそのものだった。
それは、全ての異世界の背後に共通に存在しているであろう、絶対的な法則。全てのものはいつか滅びるという概念。創造神のスキルが、その法則、概念に対して、仮初の意志を与え、神格化する。
神格が与えられた虚無。神となった深淵。深く、暗く、揺るぎない何かが形を成していく。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
ブクマや評価も大変感謝です。ありがとうございました。励みとなります。