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さよならからはじまる恋。  作者: 川上桃園
さよならのつづきは。
9/29

「遅れまして、申し訳ございません」


 コンラートを見送ったために、遅れて礼拝堂に入ったユリアは一瞬のうちに内部に広がった異様な雰囲気を感じ取った。


 普段は静謐を湛えた空間がざわついている。誰一人口を開いているわけでもないのだが、その代り、ユリアに向けられた好奇の目が物を言っている。


 後でしっかりと説明しなければ。


 読み書きのことは院長の許可をもらっているので、やましいことは何もない、はずである。


 気持ちを切り替えて、ユリアは自分の列に入る。隣にいた同室の友人が何か言いたげな視線を投げてきたが、そうこうするうちに晩課が始まった。


 晩課を行う礼拝堂から夕食を取る食堂へ移動するわずかな間に、ユリアは他の修道女たちに詰め寄られた。まず真っ先に突撃してきたのが、元気と気の短さに定評のあるバフィン。


「ね、皆あなたが還俗するという話でもちきりなんだけど、それって本当?」


 下からずい、とユリアに向かってその顔が近づく。圧迫感に負けたユリアは背をそらしながら、首を振る。


「今のところ、そんな予定はないわ」

「本当に? じゃあ、なぜ男といたの。修道士ならともかく、普通の男が敷地内にいるなんて変よ。商人ならわかるけれど、騎士の制服を着ていたし。……ますます変だわ」


 バフィンの追及はなかなかに厳しかった。どうやら読み書きを習う話はまだ修道女たち全員の知るところではなかったらしい。


「あの方は騎士さまで、ハウアー語の読み書きを教わるために院長さまを頼っていらしたの。それで教師役はわたしが適任だろうとおっしゃって」


 そう言えば、周囲が納得したような空気になる。ユリアはここ三年ほど新人修道女の教育に当たることもあってか、ユリアに仕事が回ってくるとしても不自然じゃないと考えたのだ。


「それはわかるけれど、なぜ女子修道院にお願いするのよ。今までそんな話を聞いたことがないわ。……女を漁りにきたつもりでもいるのかしら。世俗の女に飽きたとかで」


 バフィンが忌々しそうに舌打ちをする。彼女は商家出身なので、大人の世界を垣間見たのだろう。


「まあ、なんて不潔なこと! そんな信仰心の欠片もない男、院長さまに進言して追い出してしまいましょうよ。このままじゃ、誰かの純潔が散らされてしまうわ」


 年輩のリウトガルトが怒りだす。彼女は貴族出身で修道院からほとんど出たことがなかったのだ。

 これにリウトガルトと仲のいいアミシーとベレンガリアが賛同する。

 あれよあれよという間に、コンラートは度の越した女好きで、罰当たりにも修道女をその毒牙にかけようとする極悪人とされてしまった。


「ま、待って。あの人……コンラートは別にそこまで悪いひとなんかじゃ……」

「コンラート、ですって? あなたもうたぶらかされてしまったの? 昼間も随分と長い間見つめ合っていたけれど、まさかもう妊娠したとか言わないわよね。そんなこと、神への冒涜だわ!」

「リウトガルト、落ち着いてください。見つめ合うだけで妊娠なんてしませんし……」

「わ、わかっているわよ、それぐらいっ!」


 彼女は顔を赤くして否定するが、どうにも信用できない口振りである。


「それよりも、院長さまはどうしてそんな男に修道院への出入りを許可されたというのです! ……それも、あんな荒っぽくて、無作法な男に。修士長は何も言われなかったというの?」


 そう言いながら辺りを見回すリウトガルトだが、生憎と修士長も院長もすでにその場を去った後である。リウトガルトの疑問に答えようと、ユリアが口を出す。


「院長さまがある程度、修士長を説得していたようですよ。……納得はされていないでしょうが。あと、一つだけ申し上げても?」

「何?」

「……わたしには、あの騎士さまはしっかりと学ぼうという姿勢が見受けられました。少なくとも、修道女をどうにかしようというお気持ちはないように思います。それに、わたしたちの居住区角には近づけないのですから、もう少し様子見なさってはいかがですか」


 リウトガルトもこれ以上は無用の詮索だとわかっていたのだろうか、ゆっくりと頷きかけて……。


「え、あの、ユリア。あの騎士さまとユリアは以前からの知り合いではなかったのですか?」


 皆よりも少しだけ長くユリアとコンラートの様子を見ていたマルガレーテの言葉が、収まりかけた空気を蒸し返す。ユリアは言葉に詰まった。けれど覚悟を決める。


「た、確かに、知り合いと言えば知り合いです……幼馴染ですから。でも、それだけの話です。コンラートとしても、昔からの知り合いに教えてもらった方がやりやすいのでしょう」


 そんなことを言いながら、ユリアの心は先ほどから罪悪感でいっぱいになっている。


 ユリアに還俗の予定はない。けれど、コンラートから誘われてはいる。結婚してくれと言われた。……これのどこが、誘惑されていないと言えるのか。話せば話すほど、口が重くなっていくようだ。


 いつまで経っても収拾がつかない騒ぎ。助け船を出してくれたのは、同室の友人セプティミナだった。


「皆様、そろそろ次の鐘が鳴るころですよ。早く移動しなければ、院長さまに叱られてしまいます」


 その言葉にハッとなる面々。ぞろぞろと集団で移動する中で、ユリアは彼女に礼を言う。


「助かったわ、セプティミナ」

「ううん。皆それぞれ、言いたくない事情とかあるでしょう? お互い様よ」


 そう言って、おっとりと笑う。

 幸いにもすぐにユリアのことは忘れ去られた。夕食の席で、皆が院長の隣の席に座った、見慣れぬ修道士に気を取られたからである。


 夕食中の読書が始まる前に、院長がその男を紹介する。


「こちらはグイドット修道院の修道士、グレゴールさまです。しばらく当修道院の客人棟に滞在され、ここにある書物の研究をしていかれます。皆さま、粗相のないように」


 グイドット修道院とは山と谷に囲まれた厳しい環境にあり、非常に厳しい戒律を守っていることで知られる大修道院の名だが、誰も彼もが、そのグイドット修道院の修道士がしばらく滞在することは以前から耳にしていた。だから彼女たちが驚いたのはそのことではなかった。


「大勢の同志(とも)たちとの出会いに感謝いたします。どうか、スキウィアスに長き神のご加護がありますように」


——彼はすっと鼻筋の通った顔、切れ長の緑の眼、さらりと靡く黒々とした髪を持ち、魅惑的な声を持っていた。


 その修道士グレゴールは若く、そして世に類まれな美形だったのである。



夕食中の読書……当番制で食事中に本を朗読する修道女が必ず一人はいる。大抵何らかの詩篇であることが多い

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