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五話目の最後に新しい場面を付け加えております。まずはそちらをご覧ください。
三話まとめて追加しております。3/3
応接室に戻ってきた。雉の血が流れた床の汚れは綺麗に拭き取られており、一見すれば何事もなかったかのようだ。
差し向かいで座る。この間、「こちらにどうぞ」「ああ」しかしゃべっていない。
ユリアもどう口火を切ったものかわからない。何せ、数日前に抱きしめられて「愛しているんだ」と告白した後、すぐに「また来る、絶対来るからな!」との捨て台詞を残して夕暮れの街に消えていったからである。じっくりと互いの身の上話でもしていれば距離感を掴めただろうが、それもないまま、今日まで来てしまったので、ユリアは非常に困惑するほかない。彼女自身、この数日自分の心に振り回され、また自分の口が勝手に何かしでかしやしないかとひやひやしていたのだ。
沈黙する間には膝の上に置いた教材に触れて、頭の中で今日の授業内容の段取りを復習した。騒動で少し時間が取られてしまったが、そもそも初日なので多少やることを短縮させれば問題はない。できる、はずだ。
彼女は努めて事務的に口を開く。
「ではコンラート様。この修道女ユリアが教師役を勤めさせていただきます。よろしくお願いします」
コンラートはむすっとしたまま黙りこくっている。視線はユリアの方を向くのでもなく、ユリアの足元近くを見据えたままだった。
「最初に、院長がおっしゃっていた『報酬』についてのお話をさせていただきます。まず前提として、このスキウィアス修道院は読み書きを教えることへの報酬を請求することはできません。このことは修道院会則の方でも定められています。ただ、慣習としていわゆる喜捨が『報酬』の代わりと見なされることがございます。例えば、本日持ち込まれた雉の肉なども、肉が禁じられていない日であればとても歓迎されたことでしょう。量や価値については、その方の立場や身分によって変わりますが、コンラート様はこれが適当な範囲であるだろうといったものを無理せずご提供された方が無難でしょう。事前に言っていただければ、院長へのお伺いの前にわたしにお知らせください。それではこの話はここまでとして、さっそく授業の方を……」
「ユリア」
「……はい。何の御用でございましょう」
背中から冷や汗をだらだらと流したユリアが、ひきつった笑みを浮かべる。コンラートの青い目には険があった。恐い。
「なんでそんなに他人行儀なんだよ。さっきまでは呼び捨てにしていたくせに」
「あ、えと、申し訳ありません、コンラート様」
「いや! そうじゃなくてさ、もっと……」
怒るかと思いきや、いや、怒ってはいたが、それが彼女に向けられることはなく、何かこう、もっと……と言葉をひねり出そうと、謎の手の動きをしている。
「あれだ! あれ!」
「……どれでしょうか?」
本気でわからないユリアは首を傾げた。
「む、昔みたいでいいってことだよ! ほら、先生と生徒っつったって、昔から知っている仲じゃねーわけだし、その方が、俺もやりやすい! そうしようぜ、な!」
昔みたいに、とユリアは復唱する。
「言葉を崩したほうがいいということでしょうか」
「そ、そうだよ! 頼む!」
コンラートの食いつきがものすごくいい。別に断る理由もないので、あっけなく了承した。
「それでいいなら。……『コンラート、私が教師役をやるけれど、大丈夫?』……こんな感じでいいの?」
「う、うん、いいぞ。それでこそ、俺の知るユリアだ!」
彼はあっという間に満足そうな顔をしてふんぞり返った。変なことで喜ぶ男だな、とユリアは思う。
「それはそれとしてだな。俺、お前に言っておきたいことがあって、だな……」
急に改まった口調に、ユリアは緊張した。コンラートは非常に言いにくそうにしながらも一息に、「すまん!」と叫んだ。びっくりした。椅子から転げ落ちそうだった。
「どれがどうとも言えないぐらい思い当たることが多すぎるが、俺が駄目なやつだってことぐらいは随分と思い知った! 俺を許せとは言わねえ! でも、機会をくれ! 俺、お前のことがずっと……」
ずっと、と言っているコンラートの顔がかあっと赤くなった。リンゴのようである。
「あ、あ、愛しているんだ!」
そう叫んだコンラートの口から唾が飛び、見事にユリアの頬に着地する。思わず袖でごしごしと頬をこするユリア。心臓が口から飛び出しそうだけれども、変なところで身体は冷静を保っているものである。
「ごめんなさい。今、そう言われても、正直困るわ」
コンラートの顔を見ないようにユリアは告げた。
「わたし、還俗するつもりは今のところないの。……それに、還俗したところで外聞も悪いでしょう? 還俗して、あなたと結婚なんてしたら、わたしだけじゃなくてあなたまで悪く言われてしまうわよ」
「そんなの関係ない! 悪くいうやつなんて大抵どうにかなる。……なあ、ユリア、やっぱり俺のこと、ずっと嫌いなのか? それとも他に誰かいるとか……」
自分の頬が熱くなっていることを自覚していたユリアだが、その言葉にすっと熱が冷めた。
「コンラート、馬鹿なことを言うのはやめて。今の私は修道女なの。神への奉仕に努める身が、他の誰かを考えてはいけないのよ」
自分の言葉が自身の胸に突き刺さる。……コンラートのことをずっと考えていたのは、ユリアだったというのに。
「そ、そっか。……そうだよな、修道女さまだもんな」
コンラートはうなだれた。ユリアが他の誰かのものになる心配はないものの、それはつまり、コンラートのものになることもないということだ。
けれど、ここで引いてしまっては、コンラートはもう二度とユリアと繋がりをもてないのだ。必死にすがりついていくしか仕様がない。コンラートは気を取り直す。絶対に、俺は諦めないぞ、と。
「ええ、気持ちはありがたいけれど、ごめんなさい」
「……わかった」
コンラートが殊勝に頷くのを見て、ユリアは肩透かしな気分になる。一回ぐらいは押し付けてきそうなものなのに。昔みたいに。
まあ、いいか、と気を取り直して、彼女は改めて授業に入った。
「まずは確認させてもらいたいんだけれど……コンラートはどこの言葉を習得したいの?」
「どこ、というと……どこだ?」
これはコンラートに通じなかったらしく、彼は眉間に皺を寄せながら考え込み始めた。ユリアは慌てて補足する。
「あのね、修道院で教えられる言語は、主に古帝国語、マリエンガルテン語、ハウアー語の三つあるの。古帝国語は教会の聖典で使われていて、多くの修道院で公用語になっているわ。そして、マリエンガルテン語は、古帝国語より後に出てきた言葉で、外来の学術書や哲学書に使われているの。そして、ハウアー語。わたしとコンラートが話している言語がこれ。この地域全体で話し言葉としても使われているわ。……たぶん、騎士に教えるというのなら、公文書でもよく使われるハウアー語なのだと思うのだけれど……それでいいのかしら、と思って」
コンラートは、ふうん、と相槌を打つ。
「お前は何語を教えられんだ? 俺はそれをやる」
「え、私? 私は……えーと。一応、全部、教えられるんだけれど……」
「……嘘だろ」
「嘘じゃないわ」
できるわけないだろ、と言われているようで非常に心外な思いをしているユリアである。
「写本作業するにも、ただ形の通り書き写せばいいというものじゃないもの。綴りに誤りがあれば修正を入れなくちゃいけないから、ちゃんとそういう訓練は受けているわ。それにお祈りで唱える詩編や、食事の最中にある読書だって、必ずしも同じ言語ばかりとは限らないわけだし……」
「わ、わかった。理解したから、そんなムキになるな!」
「……ムキになんて、なってないもの」
自分の数年の努力を馬鹿にされたようで苛立たしいだけだ、とユリアは心の中で言い訳した。
「よし、俺はハウアー語からやるぞ」
コンラートはどの言語をやるか決めたようである。まず妥当な線であろう。
「ハウアー語『から』、というと……ゆくゆくは三つとも全部やるつもりなの?」
「当たり前だ。その方がたっぷりと時間がかかるだろ」
「時間がかかる方がいいの?」
変なことを言うものだ、とユリアは思う。だが、ユリアにはコンラートの考えていることがさっぱりわからないままなので、そのままにしておいた。ハウアー語、と学ぶ言語が決まったところで、集めた教材の中から、二つ折りの書字板を開いて、尖筆で文字を刻む。
この書字板は木の板に薄く蝋を縫ったもので、一度文字を刻んでも蝋を均せば何度でも書き込みができるので、文字の練習にはぴったりの道具なのだ。
書字板の左側に、わかりやすく大きな文字が刻まれた。それをそのままコンラートに手渡した。
「では、最初の授業を始めましょう。最初の課題は……自分の名前を書くこと」
ユリアが書字板に刻んだ文字列は、読み書きできる者ならこう読むだろう、「コンラート」と。
最初の二三回をユリアの見ている前で書きとらせてから、次の授業の日で何も見ていなくともすらすらと書けるようにと指示する。
コンラートは、ユリアが刻んだ自分の名前を食い入るように見つめ、随分と真面目に取り組んでいるようだった。
そうこうするうちに鐘が鳴り、コンラートが帰る時間となった。
ユリアは書字板を片手に修道院を出ていくコンラートを門まで見送った。コンラートは相変わらず、「また来るからな、絶対来るからな!」とユリアに喧嘩を売っていた。求婚したいのか、喧嘩をしたいのか一体どっちなのだろうか。
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