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後日談……というかもはや続編
この五話目まで少し修正が入っております。この話だと、最後の部分に新しい場面が付け加わっています。
場の雰囲気に流されることがある。
身近な誰かが楽しそうにしていたらユリアも楽しい。たとえそこが場末の酒場で彼女が一滴の酒を飲んでいなくても、皆がそこで笑顔であれば彼女はそれで満足する。自分では気おくれしてしまうから、ちょっと遠くから見つめているだろうけれども。
身近な誰かが悲しそうにしていたらユリアも悲しくなってくる。しばらくは近くをおろおろとしながらも、どうして悲しい顔をしているのか尋ねてしまうだろう。困っていたら助けてあげたいと思うし、それが自分にできることなら、多少のことはしてしまうだろう。
神様の教えにもあった。『隣人には善き手を差し伸べなさい。隣人の汚れた手にも、誠実と慈悲の手を差し伸べなさい』。
ユリアがコンラートに赦しを与えることは、何もおかしなことではない。……修道女としては。
過去がどんなものであれ、赦した方が模範的だと言えるだろう。
ただ、あの時のやり取りを修道院長に話していた時、ふと疑問が湧いてきた。何かがおかしいと。その答えは次の修道院長の発言で明らかになる。
「それで、彼の謝罪は受けたのですね?」
「………あ」
呆けた呟きを漏らしたユリアは思わず口を覆った。口が開いていれば修道院長に叱られるからであったが、それを眺めている修道院長は額に手を当てて、なんてこと、と独り言をこぼした。
「彼はあなたに謝罪をしたいという名目で面会を申し込んできたのですよ。ならば彼と何を話していたのですか」
ユリアは口ごもった。俯いた彼女の顔が見る見る間に赤く染まっていく。
「……結婚してくれ、と」
本当はそれ以外にも、傍目から見れば無体も色々働かれていたけれども、口にすることが憚られて何も言えない。なされるがままにされていたのは、修道女としての失態である。
なるほど、そうですか、と修道院長は頷き、改まったように彼女の名を呼んだ。
「あの方もあの方ですが、あなたもあなたですよ。言っている意味、わかりますね」
「……はい」
「あなたがどのような返事をしたのか、今は問わないことにしましょう。もし仮にあなたが彼と結婚しようと本当に決意を固めていたら、わたくしも止められません。ですが、あなたが彼に同情したというだけで決意したというのなら考え直しなさいと諭します。今のあなた方には、時間も言葉も足りていないでしょうから」
「……はい」
「まあよろしいでしょう。幸いなことに、彼はしばらくこの修道院へ読み書きを習いたいのだとか。あなたの知人であることを抜きにしても、当修道院の中でもっとも教師役にふさわしいのはあなたです。教え、教えられる中で色々と感じることもあるでしょう。身の振り方もよくよく考えておくことですよ」
「わかりました、院長。ご教示いただきありがとうございました」
修道院長が修道院の大回廊を歩いていくのを眺めていたユリアは途中で抜けていた写本の作業に戻った。羽ペンにインクを付け、羊皮紙に一文字目を書こうとして、ふと止まる。
……場の雰囲気に流された、ということだろうか。
よくよく考えてみれば、コンラートの言動は昔と全然変わっていなかったように思える。強いて変わったところを上げれば、身体が成長したことと、立派な服をまとっていたこと、声も低くなっていたこと……そして、ユリアに愛だの結婚だのを求めるようになってきたこと。
——愛しているんだ。
この言葉が、ユリアの理性も根こそぎ奪っていったに違いない。
あれはユリアの知るコンラートだったら絶対に言わなかった。だからこそ動揺して……結婚してもいいかもね、などと前向きな返事が出来たのだと思った。その時は、そう、それでもいいか、と本当に考えてしまった。
ユリアはそんな自分を恐ろしく思った。
本気で嫌だと感じていた相手だったのに、手のひらを返して、結婚してもいい、なんて。あれは修道女としてではなくて、確かにユリア自身の言葉だった。
自分の心がわからなくなる。ユリアはこの修道院に骨を埋める覚悟だったはずなのに。
コンラートの真っ青な宝石のような眼が視界にちらついた気がして、手元がぶるりと震える。あっと思った時には遅かった。まっさらな羊皮紙に黒い染みがつく。今までこんな馬鹿な失敗はしてこなかったのに。
溜息をつきながら、ナイフでその部分を削った。羊皮紙自体はそこだけ薄くなってしまったが、元々高価なものなのでそう簡単に新しいものを用意できない。
……何だか今になってコンラートのことばかり考えている自分が嫌になってきた。
今になってあれは何かの夢か、コンラートが年甲斐もなくからかってきたのかも、と思えてくる。だとしたら大真面目に受け答えした自分を見て、コンラートは笑い者にしているのだろうか。その情景がありありと思い浮かんできて……そしてまたコンラートのことでぐるぐると思い悩む。
結局、全然午後の奉仕がはかどらないままだった。
晩課の祈りは一際熱心に祈った。隣席の友人に肩を叩かれるまで終わっていることに気づかなかったほどである。友人は何の悩みもなさそうにおっとりと微笑む。
「ユリア、あなた何をそんなに祈っていたの。今日は何か特別なことでも?」
何も聞かされていない友人に、ユリアは笑って首を振る。
「いえ。……ただ、自分の浅ましさと向き合っていたの」
「どういうこと?」
「自分でもよくわかっていなくて。だから主神にお伺いを立てていたのよ。どうかお許しくださいって」
ユリアはしっかりと組んでいた両手を離して、椅子から立ち上がった。その際に、主祭壇に安置された主神の像を一瞥した。『彼』の表情はいつも何の憂いもないように見える。ユリアが心から縋ったところでびくともしないだろう。だからこそユリアは安心して寄りかかることができたのだ。
少なくとも、コンラートよりも何倍も信じられる。
神は理不尽な試練に遭わせることはあっても、ユリアの心は裏切らないのだから。
修道女は俗に『神の花嫁』とも言われている。そして、彼女が父親以外でもっとも愛している『男』は、神であった。
視たこともなく、存在を感じたこともない相手だったけれども、心のよりどころになる点において『彼』にまさる男はいない。
ユリアはこの女子修道院では素行も良く敬虔な修道女である。
つまり、彼女は忠実な『神の花嫁』でもあるのだ。
祈りを終えたユリアは少しだけ頭がすっきりした心地で礼拝堂を出た。
コンラートのことを考えていたら、何も手につかなくなってしまうところだった。
しばらくは神への奉仕に勤しもうと決める。頭の中を神の言葉で一杯にしておけば、これ以上思い悩むこ
とはない。
愛、結婚、コンラート。特にこの三つを禁句として心を刻む。
問題はそのコンラートに読み書きを教えることだったが、実際の場に立つまでは何も考えないこととした。他の修道女に教えることもあるので、要領はわかっている。教材となりそうな書物だけは手元に置いておくこととして、ユリアはつかの間の平穏を過ごすつもりだった。
結果として、失敗だった。
最初の講義日。ユリアは教室代わりに使われることになった応接室のソファーに浅く腰掛けて、相手が来るのを待っていた。膝の上で握られた手はじっとりと汗を掻いている。処刑台に上る罪人のように、心臓がどきどきとしていた。これから声も出さなくてはならないのに、喉はすでにカラカラに乾ききっているが、水差しに手を伸ばそうとかそんなことを考える余裕もなかった。
やっぱり無理かもしれない。
寝不足のユリアは弱気なことを考えた。
コンラートの行動が読めなくて怖いのである。
そう言えば、昔からそうだった。いつもユリアに意地悪なことばかり言っていたくせに、ふらっと家にやってきて、綺麗だからやると一方的に押し付けられた花のこととか。素直にありがとうと言えば、馬鹿野郎、と怒鳴られたものだ。ユリアは『野郎』じゃないと思ったけれども、あまりに強い口調だったものだから、案の定それでびいびい泣き、互いの両親が駆けつけて終わったが。
近頃、寝ながらでも繰り返して思いだす記憶をどうにか頭から追い払っていると、午後の奉仕の開始を告げる鐘が響いた。
それと同時に、応接室の扉が二度三度とノックされた。はい、とユリアが近くに寄って、扉を開け放つと、何か黒いものと目が合った。黒いものは丸く、濁った黄色の白目の中に浮いている。生きていたら瑞々しい生気を放っていただろう雉の眼が、ユリアの茶色の眼を覗き込んでいる。とうに死んでいるというのに、ユリアを恨めしそうに見ながら……。
ユリアは死んだ鳥や魚の眼が苦手だった。その瞳の奥には深淵がある。料理を作る時にはその眼を見ないようにしながら、すぐに頭を落とすことにしているぐらいだ。だから実際にまじまじと「覗き込まれる」ことはそうなかった。
そう。仕方がなかったのだ。錯乱状態に陥ったユリアが反射的に叫び声を上げながら死んだ雉をはたき落とし、雉が床の上にべちゃっと落ちたことも。
「お、おい……」
不完全な血抜きのせいで跳ねた血が、ユリアの修道衣はおろか、雉を持っていたコンラートのズボンも汚してしまったことも。
すべてはしかるべくして起きた出来事なのである。
後日談はこんな感じで進んでいきます。ニッチな方向に進まないでもないですが、恋愛ものという芯はぶれないです。なお、宗教はキリスト教っぽいですが、作者のねつ造込みの別物です。