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さよならからはじまる恋。  作者: 川上桃園
さよならじゃ終わらせない。
3/29

前篇

コンラート視点の前後編

五話目まで少し修正が入っております。内容はほとんど変わっていません。

「さよなら」


 自分の手を振り払い、雑踏の中へ消えていくユリアを追いきれなかった。祭りの夜はあまりにも人が多すぎて、一度でもはぐれたら集合場所でも決めておかない限り二度と会えないほどなのだ。今晩はもう二度と会えないだろう。普段修道院にいることを考えたら、コンラートは絶好のチャンスを逃してしまった。


 人々が陽気にはしゃぎ、踊っている。暗い夜もかがり火によってまるで昼間のように明るく、まだまだ凍えそうなほどに寒い夜でも背後で大きく燃えている藁人形の熱で身体は十分に温まっていた。けれども彼は周囲から切り離されたような疎外感を感じていた。


 数年ぶりにあったユリアは何も残していかなかった。


 大人びているはずの顔を見せることもなく、一言も話すこともなく、その心のうちも明かしていかなかった。案外小さくて白い、少しかさついた手の感触も、あっという間に消えてなくなった。ただ、記憶に残るのは、仮面をつけて、外套にすっぽりと覆われたその姿だけ。


 あれはユリアだった。誰が何といおうと、ユリアだったに違いない。コンラートの顔を見て、逃げ出したのだ。そんなことをする知り合いは他にはいない。


 嫌な確信の仕方だな、とコンラートは自嘲する。せめてもう少し踊ってから明かせばよかった、そうじゃなくても、もう少し手順を考えていたらよかった。後悔は雪のように降り積もる。


 いつもそうだったのだ。この後悔癖は治りそうもない。


 コンラートは顔を上げ、人込みの中を歩く。酒の一杯や二杯ではこの苛立ちは紛らわせないのだから、楽しんでいる連中を避けてとっとと宿舎に帰ったほうがよっぽどよかった。


「お兄さん、遊んでいきません?」


 途中、胸元が大きく開いた娼婦がしだれかかってくるのを、舌打ちをして追い払う。


「他のやつに相手をしてもらえばいいだろ!」


 よほど自分が「物欲しく」見えているのかと思うと、ますます苛々してくる。遠慮なしに喚き散らしたくもなるが、わずかな理性が勝った。その女を罵ったところで、コンラートの罪悪感も後悔も消えることはない。無駄の極みだ。


 人通りの少ない夜道を歩きながら思う。


 ユリアは無事に修道院に戻れたのだろうか。


 ただでさえ、大祝祭日となれば気が大きくなるやつらが多いのだ。もしも絡まれたら、若い女の身では危ないのではないか。コンラートは遠回りになるのを重々承知で女子修道院のある方角へと向かった。


 もしもユリアが絡まれていたら助けよう。

 もしもユリアが普通に帰り道を歩いていたらそれでいい。


 ユリアが通るであろう道を辿る。あれからまっすぐ帰ったとしたら、男の足でも追いつけないだろうが、それでもよかった。ユリアが無事なら、それでいい。


 案の定、修道院近くまで来ても、ユリアの姿は見えなかった。修道院の入り口のかがり火を一瞥して、同じ道を戻ることにした。


 今度も考えた。


 もしもユリアとここで行き違ったらどうなるだろう。また、ユリアは逃げるのだろうか。

逃げられたら今度こそ捕まえようとするだろう。


 コンラートは自分の短気さを知っていた。


 それだったら。今日はせめて気づかなかったふりをしてやるのだ。逃げられるのにも見てみぬふりだ。コンラートはこの数年で強くなった。このぐらいのことで傷つきはしないのだから、それでいい。

彼はそれからも視線でユリアを探したが、結局見つからなかった。安堵と落胆のどちらも覚える。そうして……彼は自分の中で押し込めていた想いが再び溢れていくことに気づいた。


 取り返しのつかないことをした。

 力一杯殴られた。

 修道院には面会も許されなかった。


 諦めなさい、と周囲に何度言われたかしれない。コンラートも、一度はそれで納得したはずだった。でも思い出も何もかも消えてくれるわけでもなく、ふとした瞬間にはいつもユリアの視線を思いだした。

一歩離れたところで遊びながら、時々眩しげにコンラートの方を眺める視線。

あれとぶつかるたびに、コンラートは一緒に遊ぼうぜ、と誘わずにはいられなかった。


 ユリアと一緒にずっとずっと遊んでいたかった。


 視線とともに呼び起こされる感覚は、結局のところ、ユリアが特別なのだと告げてくる。


 コンラートは眠れない夜を過ごした。ユリアのことをずっとずっと考えていた。

 寝台の上で、くしゃりと顔を歪ませる。


——「さよなら」だけじゃ終わらせたくない。









「コンラートっ!」


 家から出てきた途端に横っ面を拳で思い切りぶん殴られた。コンラートは戸口で無様に尻餅をつき、反射的に湧く怒りとともに挨拶もなしに殴ってきた相手を睨みつける。


「おい! なんなんだよ、いきなり!」


 と、ここで相手が彼も知っている人物であることに気づき、目を丸くした。そこに、


「もう一ぺん歯をくいしばれや、悪ガキィ!」


 ガツン、と今度は腹を殴られた。思わずえずきそうになるが耐えた。口の中が鉄の味に変わる。コンラートは痛みをこらえながらその中年の男を見上げる。相手がもう一度振り上げた拳が力なく下ろされて、しばらく嗚咽が響いた。


「おじさん……何で泣いているんだよ」


 ユリアの父は顔を真っ赤にさせて人目をはばからず泣いていた。コンラートにはわけがわからなかった。

 どうしてユリアの父が泣いているのか、彼には何の身の覚えがなかったからである。


「コンラート……」


 ユリアの父の後ろには気丈そうに振る舞うユリアの母親がいた。彼女は夫の背中に手を伸ばしてさすりながらも、コンラートを見つめた。


 その眼は赤くなっていた。


「ユリアが……ユリアがね」


 ぼろっと涙が零れ落ちた。彼は今までユリアの母親が泣いたところを見たことがなかった。いつも亭主を叱り飛ばしている強い女性だと思っていた。だからこそ、今コンラートは居心地が悪くて仕方がない。


 自分が何かとんでもないことをしでかしてしまったのではないかという思いがじわじわと彼を苛んでいく。


 ユリアの母親が一息で言い切ってくれた。


「コンラートとの結婚は嫌だと、修道院に行ったの」


 一瞬、彼女が何を言ったのかわからなかった。修道院とはなんだっけ、と呆けて……事の重大さに頭が真っ白になる。


「ど、どうしてだ……。どうしてなんだよ、おばさん!」

「おめえのせいだ! コンラート!」


 ユリアの父親は涙混じりになりながらも噛みつくように訴えた。


「おめえがちゃんと! ちゃんとしてりゃよかったんだ! 俺たちのいないところで何いいやがったんだ、この野郎! ユリアは……ユリアは、優しい子だったんだよ! 幸せになれるはずで! 俺らは、一番娘のことを想ってくれてるって知っていたから、おめえにたくしたんだっ。おめえ、娘の将来を台無しにしやがった! 台無しにしやがったんだ。くそっ、くそおぉっ!」

「あなた! もうやめて! もうやめましょう……」


 今にもコンラートに再び殴りかかってきそうなユリアの父と、それを必死に止める母。周囲にはいつの間にか騒ぎを聞きつけた近所の住人が寄ってきていて、事の成り行きを見守っている。


「俺が、俺が馬鹿だったんだっ。もっと……もっとユリアの気持ちをちゃんと考えていれば、こんなことには……」

「あなたっ」


 悪夢のようだった。ユリアがいない。その原因は……。


「……なぁ、ユリアはもういないのか?」


 コンラートが静かに尋ねる。まるで感情すべてが抜け落ちた声だった。


「俺の、せいなのか?」


 自分の中の何かはひどく冷静で、自分に確かめるように呟いていた。そうだよ、と叫ぶユリアの父の声もひどく遠い。


 まず思ったのは、ユリアに謝りたいということだった。喧嘩したら互いにどこが悪かったか話し合って、謝る。もっと子どもだった頃、いつもそうしていたように。


 でも確か、女子修道院はなかなか男が会いにいけないところだ。……謝りにいけない。会えない。

 そのことだけがすとんと腑に落ちて、コンラートはひどく悲しくなった。






 それから彼は自分の父親にも殴られた。


「お前に悲しむ資格なんてあるか、馬鹿野郎!」


 人生で何度も受けてきた父の拳。今までで一番痛かったのをコンラートは覚えている。


「大事な女も大事にできない男に育てた覚えはない! 出てけ!」


 彼はすでに軍の方に所属して宿舎に入っていたので住む場所には困っていない。

 だがそれは、父親からの事実上の絶縁宣言だった。いつもは言いかえすぐらいのことをしていたコンラートだったが、この時は口答えすることなく諾々と従った。


 あれからコンラートは実家に帰っていない。








 一縷の希望に縋って、ユリアのいる修道院も尋ねてみると、修道院長と名乗った老婦人は本人の意向を聞いたと言って、面会の申し込みにも首を振った。


「ユリアはもう二度とあなたに会いたくないと言いました。どうか、お引き取りを」

「どうしても! どうしてもユリアに会いたいんだ、謝りたいんだ! 頼む!」

「許しません」


 彼女の返事もにべもないものだった。


「ユリアはすでに修道女になり、俗世を捨てました。となれば、彼女はこの修道院の子なのです。そしてわたくしは、彼女の意志を尊重します。それに今のあなたに会わせたところで、互いに不幸になるだけでしょう。ユリアは当修道院のよき修道女になるでしょうから心配いりません」


 ここで、修道院長はにこりと笑った。


「彼女は今、読み書きを勉強し始めたところなのですよ。とても熱心に取り組んでくれまして、教師役の者にも熱が入っているのだとか。……本人も、結婚するよりよほどいいって喜んでいましたよ」


 その言葉はコンラートの胸に突き刺さった。


 読み書きをしたいと言ったユリア。コンラートは昔それを否定した。


 ユリアに女子修道院に行ってほしくなくて。コンラートを置いて遠くに行ってほしくなくて。


 コンラートはひどい言葉を投げつけた。


 顔を真っ青にさせる彼を観察していた修道院長は、話は終わりとばかりに立ち上がった。


「あなたもまだまだ子どもです。ほかのよい道を探しなさい。ユリアは修道女なのです。もう、あなたと二度と会うことはないでしょう」


 そのまま優しくも毅然と修道院を追い出された。

 それからは修道院長にさえ面会できなくなり、コンラートはユリアと会う術も失くした。




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