後編
五話目まで少し修正が入っております。この話では最後の描写が少し変わっています。
修道院に戻ったユリアは、自室で幾度も寝返りを打った。眠れない。
どうしてコンラートがあそこにいたのか。
どうしてユリアとわかったのか。
どうしてユリアと踊ったのか。
どうしてユリアを……引き留めたのか。
久々の幼馴染……しかも下手すれば結婚するはずだった相手との再会は、穏やかだったはずのユリアの心をかき乱すには十分すぎるほどだった。
ユリアは幸せだった。なのに、コンラートが入り込んできた。
そのことが不愉快でたまらない。胸がむずむずとする。
それに第一……コンラートはもう結婚していたはずだ。いい縁談が来ている、と以前、両親が手紙の中で嘆いていたのを読んだ覚えがある。
けれどもそれが何だと言う話だ。もう流れた縁談は戻らないのに。
そもそも修道院は俗世から切り離されたところで、ユリアも修道院に入ってから片手で数えるほどしか外に出たことがない。ここにいる限り、これからの生活は何も変わらない。……そのはずだ。
ユリアはもうそれ以上は何も考えようとはせず、最近読んだ楽しい本のことを思い浮かべながら眠りに落ちようと考えた。成功した。
数日後、修道院長に呼び出された。彼女が修道院に入った時も親切に世話をしてくれた人徳ある修道院長は、申し訳なさそうにこう切り出した。
「ユリア。あなた、還俗する気はありませんか?」
ユリアはえ? と思わず相手に聞き返してしまった。二度言われてようやく理解すると、不思議そうに首を傾げる。
「院長さま。どうして急にそんなことを?」
「あなたがまだまだ結婚できるぐらいの若いお嬢さんだからですよ。たしかにこの女子修道院は、身に沿わぬ縁談や結婚相手から逃げる最後の砦ではありますが、同時にもう一度、俗世での幸せを掴むために送り出すための場所でもあるのですよ」
ユリアには修道院長が自分のことを心配しているのだとわかっていた。
街から逃げてきた女性たちを匿うスキウィアス修道院。けれどユリアのように修道女にまでなってしまう女性はほとんどいない。何年かかけて嫌な男との縁を切った後、女性たちは再び世俗へと戻っていくのが常である。元々いる修道女たちは夫を亡くした寡婦であったり、貴族や裕福な商人の娘も多く、そうでないユリアは特殊だった。幸いなことに、皆の信仰心が篤いせいか、出自で蔑まれたりすることもなく、かえって親切にされているのだ。ユリアはすぐに首を振った。
「いえ、わたしは結婚する気なんてありません。この修道院が性に合っているのです。追い出すようなこと、言わないでください」
「追い出すなどと……ユリア、わたくしはそんなつもりでは言ったわけではないのですよ」
わかっています、とユリアは微笑む。
ユリアの答えに院長は何かに困った表情で、少し何事かを考えている様子だった。
「ただ、家の事情がある他の子と違い、あなたは平民の子ですから、結婚に対するしがらみも少ないでしょう? 主神は一人でいなければならない者、神への愛に目覚めた者にはわが身を伴侶とすることを宣言されておりますから、私たちのような修道女や修道士が大勢います。……でも、若い時は短いもので、主神は結婚にも寛容であらせられます。他の形で神への愛を証明することもできるのではないですか?」
「確かに、一度も考えなかった、というと嘘になります。修道院に入る前、どんな人がわたしの伴侶となるのだろう、と夢見たこともありましたが……最初の縁談で、十分に現実を思い知らされました。わたしは結婚したところで、今より幸せになれるとは到底思えないのです」
溜息をつきたくなるのをこらえながら、そっと院長の反応を見れば、彼女もユリアと同じような表情をしている。相手を困らせたくないけれど、それでも自分の考えを述べたいという顔だ。院長は突然、こんな提案をしてきた。
「そうしたらね、ユリア。実は文字を習いたいという方がいるのですが、当修道院の中で一番教えるのが上手いという評判があるあなたに託してもよいでしょうか。何でも最近叙爵された騎士さまなのだけれど、文字を読めることで騎士としての箔を付けたいそうで」
「文字が読めない、ということは平民の出ということですか?」
「ええ、そうです」
ユリアが意外に思ったのは、平民の出の騎士だからということではない。平民出身の騎士はすでに騎士となっている者と養子縁組しなければならないものの、それなりの人数がいると聞いていた。しかし、元々教育されていたならいざ知らず、叙爵されてから読み書きを習いだす騎士はなかなか聞かない。騎士は文盲でも問題ないからだ。彼らにとって、読み書きはあくまでも余技なのだ。
「……それは、女子修道院に頼まずともよいのでは? 先生を個人で雇うことも可能ですし、街中にはしっかりとした男性のいる、別の修道院などもあるのではないですか」
「そうですね。その辺りの事情はよくわかりませんが……実は」
言いにくそうにしている院長を見たユリアはぴんと来た。おそらくそれなりの喜捨があるのだろう。だから細かい事情にも目をつぶる。
どんな清廉な修道院と言っても運営するのが人間である以上、金銭はあるに越したことはない。スキウィアス女子修道院は自給自足を旨としているが、それでも限界はある。世俗から完全に遮断して生きていけるわけではない。困った旅人が来れば泊めるし、写字生が来たなら写字室と図書室を解放し、菜園で取れ過ぎた野菜やハーブ、蜂蜜などは売ってお金に換えることもある。
事情を察したユリアは、もうそれ以上何もいうことなく、快諾することにした。
教えるのが一番うまいからユリアに白羽の矢が立ったのだ。自分の力が買われたということはありがたいことに違いない。そう前向きにとらえることにした。
ただ、一つ心配なのは、相手が男性ということである。わざわざ女子修道院まで来て習う意味がわからない。
赤ん坊で亡くなった弟以外、姉妹ばかりの中で育ったユリアは、父親の他にしっかり話せる男性がいなかった。コンラートのせいで植え付けられた男性への苦手意識は今も彼女に影を落としていた。
よい方だったらいいのだけれど。
そういう一筋の希望にすがりついた。
そして、希望は裏切られる。
新しい自分の生徒が来ると聞いて、呼ばれてきた応接室。ソファーにゆったりと座っていた栗色の髪に青色の瞳の男が立ちあがる。彼は立ちすくむユリアに機嫌よさそうに手を上げた。
「元気そうで何よりだな、ユリア」
「どう、して……」
開け放たれた扉から中に入ることもできなかった。本当は、ものすごく逃げたい。でも、修道院のためには相手をしなくてはならない。そんな矛盾した気持ちが、彼女をその場に立ち止まらせている。
「お前、この間の祭りにいただろ?」
ユリアはありったけの勇気をかきあつめて、ぎこちない笑みを浮かべた。その背中にはびっしょりと汗をかいている。どくどくという心臓の音が聞こえてきた。
「ま、さか。わたしは、その日、ずっと修道院にいたわ。見間違いよ」
「嘘だ」
軍靴を鳴らしたコンラートがユリアの目の前にやってくる。襟が立てられ、伯家の紋章が縫い付けられた騎士の青い制服。腰から下げられた剣。ユリアの顔は胸の辺りの高さしかない。彼女はあまりにも違う体格に委縮し、後ずさりしようとした。
「俺がユリアを見間違うはずがないだろ。……待てよ」
コンラートの手がユリアの細い手首を掴む。そこには今度こそ逃がさないという明確な意志が感じられた。コンラートがユリアの身体を引き寄せ、同時にバタン、ともう片方の手で扉が閉められた。
まるで、死刑宣告のような音だ。
ちゃんと、あの夜、逃げきれたと思ったのに。……逃げきれなかった?
「祭りの夜に、一緒に踊った。相手は俺だ。忘れたとは言わせないぞ、ユリア」
強い語調で問い詰められ、鋭い眼光が彼女にそそがれた。二人の距離はほとんどないに等しい。
ユリアは震えながら懸命に首を振る。自分は何も知らない、全部は気のせいだ、と。
相手はますますいきりたった。
「お前はどうしていつもそうなんだよ! いつもいつも俺から逃げる! 俺との結婚がそんなに嫌だったのか!」
嫌に決まっていた。
「しまいには修道院にはいっちまって、俺の面会希望を全部はねつけて! 俺とは一生関わらないつもりだったのかよ! ふざけんなよ!」
関わらないつもりだった。大真面目だった。
「なんなんだよ、お前は! そんなに「本」を読みたかったのかよ、俺よりも! 俺との将来よりもさ! ずっと追いかけているこっちの身にもなってくれよ! 苦しいんだよ、辛いんだよ!」
その言葉に、伏せていた顔を上げる。
コンラートはしかめっ面のまま、ぼろぼろと泣いていた。
「もう何度も忘れようと思ったかしれねえ! 昔からいつも俺のことなんか素通りで、別のもんばっか見ててさ、こっちもいやんなるんだよ! おとなしく他の女と結婚すりゃあいいのによ! 結局、諦めが悪く想い続けて! むなしいったらありゃしねえ! 俺が馬鹿みてえじゃねえか!」
がばっと抱き付かれる。そのままぎゅうぎゅうと気が遠くなるほどに身体を締め付けられた。はずみで、髪覆いが落ち、首元で切られた髪が露わになる。
あ……と小さく声を漏らしたユリアだったが、拾うことは許されなかった。
「なあ、昔から一緒にいたんだ、ちょっとは気づいてくれよ! 修道院に入っちまって、面会まで拒絶されたら、俺には何の手も打てねえんだぞ! どんだけ悔しかったかしれねえのに、お前はひょこひょこと祭りにやってくるし! どんなにうれしかったか……」
言っていることがむちゃくちゃである。
ユリアにはもう何が何だかわからなかった。嵐のような抱擁を受け続け、翻弄されっぱなしだ。苦しさにあえぐ。
「ね、ねえ、コンラート……どうして泣いているの」
「お前のせいだよ、馬鹿っ」
ユリアの短い髪を手ぐしですきつつ、その服の肩口には次々と熱いものが落ちていく。
ややあってから、コンラートはユリアの身体から少し離れ、彼女を見つめた。
「愛しているんだ」
その言葉がユリアの胸に矢のように突き刺さり、声にならないほどの衝撃となって伝わった。
「俺と結婚してくれ。頼む」
そう言って跪く。まるで愛を乞う騎士のように……いや、そのものの光景だった。
ユリアは非常に焦った。
「だ、だって、縁談の時、あんなにも私のことが嫌だって……」
「そんなことはない! そりゃあ、口が悪かったせいもあるが、俺は喜んでいたんだよ。そうじゃなきゃ、親父に頭を下げて縁談を用意してもらった意味ねえだろ! 気づけ!」
大きな声で叱責されたユリアは、へにゃりと眉をゆがめた。
やっぱり、コンラートは怖い。
今にも泣きだしそうになるユリアに慌てたのはコンラートの方だった。
「わ、泣くなよ、ユリア! 俺がいじめているみたいじゃねーか!」
「……いじめっ子」
「そんなわけねーだろ!」
「……少なくとも、私にとっては、そうだったんだもの」
むしろ、ユリアはコンラートにいじめられた覚えしかない。一朝一夕で認識が変わるわけでもなかった。
今度はコンラートが落ち込む番だった。
「……俺と結婚するの、嫌か?」
目を赤く腫らしたままユリアを見上げるコンラートは、昔のいじめっ子の面影が欠片もなく、ただただ一人の男として相手の心を得ようとしているように見えた。
まるでコンラートが別人のようだ。
「お願いだ、ユリア。俺には女を口説く言葉は何も思いつかん。どうやったら、『本』好きのお前を振り向かせられるのかわかんねえ。でもさ、今のお前は……前よりもきれいになったと思う」
悔しいことに、とコンラートは付け加えた。
「院長さまに聞いた。お前、好きなことをやらせてもらったんだろ。お前をそんなに夢中にさせるものが他にあるなんて嫌だとも思うが……俺は、昔みたいにお前を否定したりしない。だから、ほだされて俺のところに嫁に来いよ。今度こそちゃんと大事にするからさぁ……」
あまりにも必死だった。必死すぎて……気持ちが伝わり過ぎて、ユリアの眼にも涙が浮かぶ。
コンラートはユリアの手を両手で包み込み、祈るように額に押し付けている。
唸るように、好きだ、結婚してくれ、と繰り返しながら。
昔のことでコンラートを恐れていた自分が馬鹿らしく思えてくる。ここまでされてしまえば、ユリアだって何も思わないわけではないのだ。
すべてのプライドをかなぐり捨てた憐れな男に何かしてあげたい。
何年もの間積み重ねてきた思い出が別の感情を持って押し寄せてくる。
反則だと思った。今ごろになってそんなことを言うなんて。けれども許さない、というよりも早く、その口は彼女の意に反して別の言葉を紡ぐ。
「そうね。……そういうのもいいかもしれないわね」
貞節を守らなければならない修道女ユリアは、そうやってかすかに別の未来を夢見る。その一瞬、彼女は確かに自分が修道女であることを忘れた、ただのユリアだった。
ありがとうございました。