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さよならからはじまる恋。  作者: 川上桃園
さよならのつづきは。
19/29

15

「……ユリア」


 同室のセプティミナがユリアの顔を覗き込んでいた。彼女はおっとりとユリアの足元を指差した。


「『神の御光』が裾を食べているわよ」

「えっ……ひっ」


 『神の御光』がもちゃもちゃとユリアの足元で布を咀嚼している。ユリアは懸命に裾を引っ張り、どうにかよだれまみれの裾を取り返すと、『神の御光』から逃げ出した。


 『神の御光』は、メエ、と啼きながら庭を追いかけてきた。


「本当に、『神の御光』はユリアが好きね。毛刈りの時も傍にいてもらった方がいいかも」

「私は嫌! 早く家畜小屋に戻して! お願い!」

「気の毒だけれど、まだ掃除中なの。散歩もさせておかないと。すぐに脱走しようとする暴れ羊だから、私たちも苦労していて。……ごめんなさいね」


 全然罪悪感がない笑顔でセプティミナは早足のままついてくる。


 庭を逃げ回るユリアに、追いかける羊、その羊を追いかけるセプティミナ。


 ユリアがどうにか羊を家畜小屋に誘導するまで終わらない。


 別に羊が嫌いというわけではないのだが、聖典の一節から適当に名を取られた『神の御光』だけはユリアに一方的に懐いてきて、隙あらばヴェールを剥がそうとしたり、顔を舐めてきたり、前足でユリアの足を踏んで、修道衣の裾を噛んでくる。大人しく草を食んでいればいいものを、ユリアの顔を見た途端に突進してくるのだから、妙に気味が悪い。


 懐かれて羨ましいわあ、とセプティミナなどはのほほんとしているのだが。今回も適当なところで口笛を吹き、羊を家畜小屋に戻してみせた。


 きりのいいところだったらしく、写本帰りのユリアとセプティミナは共に自室に戻ろうとすると、何やら居住区角が騒がしい。マルガレーテの部屋の前に修道女たちが集まっているのだ。輪の中心にいるのは院長と修士長だ。


「何があったの?」


 セプティミナの言葉におしゃべりバフィンが答えた。


「中でマルガレーテとグレゴールさまが『訓練』していたのだけれど、さっきマルガレーテがひどい悲鳴を挙げていたものだから、びっくりして皆を呼んだのよ。そうするうちに院長さまがいらっしゃって、慌てて止めに行こうとなさったのだけれど、一緒にやってきた修士長と言い争いになって」


 扉の前では修道院長と修士長が睨み合う。だが、以前よりも修士長の方が自信満々に見えるのは、ユリアの気のせいなのだろうか。


『マルガレーテさま。集中するのです。意識を高い次元に持っていくのです! ほら、見えてきませんか、あなたに手招く主神の存在を……』

『あぁ……ああああああああっ!』


 ユリアは思わず顔を歪める。……部屋の中では何が起こっていると言うの。


「もはや我慢なりません。どきなさい、修士長」


 院長が扉に向かって、毅然と足を進め、修士長がそれを止めた。


「これがマルガレーテの希望なのですから、どくわけにはいきませんわ、マティルダ。お忘れですか、私は前々からヘドウィグ修道院長のベルナルドゥスさまとは手紙のやり取りをさせてもらっており、今回のことにも大変関心を寄せられているのですよ? 中止などできません」


 修道院長の眉間に皺が寄る。


「修士長。何を勝手なことをしでかしているのですか。少しは気づきなさい! あちら側が関心を抱くのは当たり前ですよ。もしも今回のマルガレーテのことで少しでも隙を見せれば、したたかなあの方のこと、この修道院の存続が危うくなるのです! あの方からすれば、邪魔をするのに絶好の機会ではありませんか! 世間知らずも大概にしなさい!」


 修士長も負けじと言い返す。


「マティルダ! 途中からここに入ってきた余所者のあなたと違って、わたくしは幼い頃からずっとここで過ごしてきました。ここのことなら誰よりも知っていますわ。そもそもわたくしが院長になって、あちら側との交渉を進めていくはずだったのに、横から割ってきたのはマティルダではありませんか」


「賛成派のあなたをどうして院長に選ぶと思って? 前修道院長が修士長を選ばなかったのは至極もっともなこと。院長は、修道院を『守る』ための最高責任者なのに、破壊をもたらす修士長を選べるはずもありません。いつになったら、あなたに理解していただけるのでしょうね。修士長。あなたにヘドウィグ修道院の院長とのやり取りをした手紙をすべて見せていただきますよ。これは命令です」


「聞けませんわ。マティルダ。マルガレーテのことを話したら、ベルナルドゥスさまが動いてくださいましたもの。……リウトガルト。門の前に使者の方がいるかもしれませんから、お連れしてきて」


 張り切ったリウトガルトが去れば、修道院長は修士長を問い詰める。


「……修士長。あなたの理想が皆の理想ではありません。高い志を持つのは結構。でも、ここにいる皆が皆、それぞれに事情を抱えているのに、あなたは白と黒のどちらしか認めないつもりなのですね」


「修道院とは神の家ですわ、私たちが清貧を保つのは当然のことなのに、ここにいれば皆が堕落してしまいますわ。こんな町の近くではいつ男たちが忍んでくるかわかりません。今はよくても、後々のことを考えれば、わたくしたちには静かに神への奉仕に捧げられる場所が必要なのです。できるだけ人里から離れ、誘惑のない理想の地へ。聖ユリアも許してくれますわ」


 修士長とユリアの目がふいにぶつかった。ユリアの背筋に怖気が走る。ユリアを見てもらっても困る。

 修士長の言い分を聞いた修道院長は深く溜息をついた。


「矛盾していますね。殿方から離れたいという理由で新しい修道院を遠くに作りたいようですが、そのために殿方を利用するのですね」

「なっ……」


 彼女は鼻白む。


「神はおっしゃいました。『私は男でもあり、女でもある。男の前では時に彼らを率いる長となり、時に彼らの心を支える淑女ともなろう。女の前では彼女らとともに歩む友となり、彼女らを導く伴侶となろう』。……この文言には色々な解釈がされておりますが、大体において一致している部分は『男と女は平等である』ということ。もう一つ、普通に生きていく上で『男と女は互いに欠けたところを補い合う』ということです。さらにはよく知られているのは、これが私たちの修道制を支えている大きな原理になっているのです」


 修道院長の声は瞬く間に聴衆を巻き込んだ。


 この修道院で、彼女ほど多くの知識と経験を持つ修道女はいない。ユリアにとって尊敬するべき人の一人で、姉弟子にも当たる。ユリアの師匠アッタが最初にもった一番弟子、ユリアより前に図書係を務めていた人。前修道院長だったアッタの後を継いだ人。


「主神は様々な事情で孤独に沈む人々を救うために、自らを伴侶とすることをお許しくださいました。


修道士であれば、主神を妻として。修道女であれば、主神を夫として。だからこそ、私たちは『神の花嫁』と言われるのです。主神は人間のために時に男であり、女でもあったことからも、主神が両性具有だという教義が取られているようですが、これは少し余談です。


……ただ、主神は男女を区別なされなかった。男は必ずしも悪のように語られる存在ではありません。私たちは女です。力仕事などは苦手です。ですが、子を産み、育てるのは私たちに与えられた能力です。逆に男は力仕事が得意で、子を産んだりはできません。自分たちで解決できないことがあれば、男に頼ってもいいのです。その代りに、相手が困ったらこちらが助ける。


別に私は純潔の誓願を破ってもいいとは言いませんが、一部の男が女を差別するように、私たちが男を差別してはならないのです」


「素晴らしい演説だ」


 修道院長の口が閉じた途端、彼女を褒めちぎる男の声が響く。

 赤ら顔の修道士が、リウトガルトに伴われてやってきた。


「これほどの弁舌家だったとは驚きましたな、院長。我らが院長、ベルナルドゥスさまがあなたに一目置いていたのもわかるもの」

「……ヘドウィグ修道院の者ですか。何の御用でしょう」


 いやあ、はっは、と修道士は禿げ上がりかけた頭を掻く。


「ベルナルドゥス院長のご指示でしてな。修士長がここの修道女たちの三分の二の署名を集めたという報告を聞きましてな、院長選挙の立ち合いに。……おお、アデルバイト修士長。署名はどちらに?」

「リウトガルト、取ってきて頂戴」

「かしこまりました!」


 話を聞いていたユリアは驚いた。院長選挙だなんて、何のために。


 教会が成立した古帝国時代で主流だった政治体制を踏襲した院長選挙は、それぞれにいる修道士、修道女たちが自分たちで自らの長を選ぶ。選挙を行うのは、院長が引退を表明した時、死亡した時、修道女たちが今の院長はふさわしくないと署名を行った時だ。ただ、大概は前の修道院長が指名した後継者がそのまま承認されることも多い。


 けれどこの場合、今の修道院長が院長にふさわしくない、と十数人もの修道女たちが同意したというのだ。


「どうして……」


 何もかもがユリアの理解の外で進んでいく。零した呟きをセプティミナが拾って、しっと人差し指を立てた。


 気づけばマルガレーテの部屋からは音一つとして聞こえなくなっていた。それをいいことに、院長選挙の話が決められていく。


 リウトガルトが持ってきた羊皮紙の巻物の中身を確認したヘドウィグ修道院の修道士は、では、と周りを見渡す。


「今、ここにいない修道女はおられますかな?」


 修道女たちは不安げにお互いを見合う。


 一人が、厨房にいる者たちを呼んできます、と言い、ある者はエレオノールを探してきます、と言った。そこにユリアが口を挟む。


「エレオノールなら、私が。彼女の直接の責任者は私ですから」


 あらそうね、その者が言うので、ユリアは踵を返した。


「では、私も行くわ」


 ユリアの背中をセプティミナが押す。二人で歩き出した途端、セプティミナが囁いた。


「あのね。院長さまは修道女として素晴らしい人格者よ。それは皆が認めている。……けれどそれ以上に、修士長たち、幼い頃から修道院に入っていた方々の方が、修道院にいる年数が長ければ長いほど尊重されるべき、という風潮が昔からあったの。でも、院長さまは修士長よりも遥かに短い年数で、しかもここの女伯さまとの血縁があるからという理由で院長についたと思われているのよ」


「待って。さっき、前の修道院長は修道院移転の賛成派の修士長を院長にするわけにはいかなかったからって」


「……ええ。実質的な理由はそれではないかしら。でも修士長を院長にしない表向きの理由はそういうことなの」


 結構複雑なのよね、とセプティミナはからからと笑う。


「ここには貴族出身の方も多いから、どうしても派閥争いが絡みやすくなっているの。一歩線を引いていたとしてもそれでもしがらみが多いわ。今回もそれの延長にあるの。きっかけはマルガレーテね。どうしてあんなことを言いだしたのかわからないけれど……」


「……マルガレーテには妬ましいと言われてしまったわ。私一人が自由だからって。……無神経だったのね。院長さまと修士長がいつも口論をしている背後にある状況を全然わかっていなかったし、何も知らずに私は本が好きだからと図書室に籠ってばかりで」


 修道女たち皆を、純粋に仲間だと思っていた。修道院長は思慮深く、修士長は自分の理想のために努力する人で、リウトガルトは人を気遣うのがとても上手い。バフィンはおしゃべりだけれど、自分の作る野菜をこよなく愛しているし、ベレンガリアは修道院薬師として腕が立ち、薬草園の管理も行き届いている。マルガレーテは身体が弱いが、誰よりも修道院の平穏を願い、セプティミナはのんびりしたお嬢様だが、困った時にそっと手を差し伸べてくれる。エレオノールのことも怒ったり、叱ったりばかりだったけれど、ユリアにもし妹がいたらこんな感じだったのだろうかとも考えることもあった。


「ユリアは人の善意を信じているのよね」


 セプティミナはゆったりと庭を横切りながら、ユリアに微笑みかける。


「それと同時にとても努力家。自ら進んで他の修道女たちの仕事も手伝っていたわね。でもそこには何の打算もないのだと思うわ。それがユリアにとって当然のことだから。エレオノールはその無私の心に嫌気が差しているのだわ。……ふふ、まだまだ子どもなのよ。大人ともなれば、そこに救いを求めていてもおかしくないのに」


 おっとりとした微笑みが陰のあるものに変わる。


「皆はあなたの名前から聖ユリアを思い浮かべるわ。知識を司り、権力者に都合の悪い知識を持ったとして殉教した聖女。……彼女もまた、貴族出身ではなかったわ。だから、私は、マルガレーテではなく、あなたが幻視を受け取ったというのなら……そちらの方が納得できたかもしれない」

「……買いかぶり過ぎよ」


 ユリアはやっとのことでそう言った。


「美化してしまっては、本質が見えなくなってしまうわ。私は他の皆と何も変わらないもの。自分のことを考えてしまうことだってある。身不相応に持ち上げられても……。私は、ただ平凡に、静かに本を読めてさえいれば何も……」


 ふとコンラートが脳裏にちらつく。ああ、そうだ。槍試合終わったけれど、まだ顔を見ていない。無事に何事もなく、終わったのかしら。


「それに、私の信仰はいつも大きく揺れ動いている。懸命に修道院に繋ぎとめていても、別のことが浮かぶことだって、しょっちゅうよ」


「そうね。私もよ」


 話しながら庭を探していれば、案の定果樹園で果物を勝手につまみ食いしているエレオノールを見つけた。


「エレオノール!」

「わ、私は悪くないわよ!」

「そのことは後でいいわ。私たち皆に召集がかかっているの。あなたも早く来なさい」

「そうよ、エレオノール」


 セプティミナもユリアに同意すれば、エレオノールは渋々ついてきた。いつもながら、ユリアの方をまったく見ようとしないのだが、ユリアはこの際気にしないことに決めた。


 戻ると、皆がユリアたちを待っていたかのように、また話が始まる。


 グレゴールもそこに加わっていた。マルガレーテの姿は見えないから、きっと疲れて眠り込んでしまったのだろう。


「皆集まったようですね。このような場所で宣言するのも不本意ですが、あなた方からの署名はしかと確認いたしました。それは院長として私が至らなかったということ。要求通り私はその座を降りましょう。すべては後の者に託し、しばらくは謹慎いたします。それでは」


 修道院長は何の抗弁もせず、淡々と解任要求を呑み込んだ。それは一度院長としての権威に傷がつけば、もう二度と回復できないということと、解任された修道院長が院長選挙に出られないという規則に照らし合わせれば、とても合理的な判断であった。


 修道院長はたった一人で自分の部屋に引き上げていく。修道院長を追われたというのに、その堂々たる背中は微塵も孤独を感じさせなかった。


「……マティルダ」


 元修道院長は震えるような声に呼び止められ、一度だけ振り向く。灰色の瞳が、呼び止めた修士長の、微塵も己の勝利に酔っていない冷たい表情を捉えた。


「わたくしは停滞を良しとしないわ。必ず、皆を良き方向に導いてみせる。それがずっと抱いてきたわたくしの夢。マルガレーテも悪いようにはしないわ。約束する」


 マティルダの返事は一言。


「見届けましょう」


 その後、修道女たちで行われた修道院長選挙において、修士長アデルバイトの院長就任が決定され、新しい修士長はリウトガルトになる。


 国や都市でもそうであるように、修道院でも頂点が変われば、方針が変わる。


 新しい修道院長の主導で、急速にスキウィアス修道院の移転に伴う交渉が始まりつつある。そのためか、近頃、よくヘドウィグ男子修道院の者がやってくる。彼らはユリアたち、若い修道女をいやらしい目で見てくるものだから、皆が嫌っている。


 マルガレーテの「訓練」は毎日続き、彼女の絶叫が響くことも珍しくなくなってきた。彼女は明らかに憔悴の一途を辿っているように感じられてならない。ユリアの看病の頻度も上がる。



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