13
コンラートを宥めてから帰した後、ユリアはすぐさま修道院長に喜捨の報告をし、財務を預かる修道次長に金貨の袋を渡した。それから早足でマルガレーテの部屋に向かう。
ノッカーを鳴らすと、ベレンガリアが顔を出した。
「入って」
「ええ、ありがとう。……マルガレーテの様子は?」
「よく眠っているわ。最近のことで色々と疲れていたのでしょうね。薬を飲ませたから、起きたら机にある果物を食べさせてあげて。私は薬が無くなりかけているから、また調合しにいくわ。それまでお願い」
「わかったわ。私にできることがあったら何でも言って。ベレンガリアに教えてもらったおかげで、少しの薬草ならわかるようになったから」
「とっくにこれ以上ないぐらいにやってもらっているわよ。看護を代わってもらうこともそうけれど、マリエンガルテン語ができない私の代わりに医学書を訳してくれているから、とても助かっているわ」
古帝国語と地元のハウアー語はともかく、マリエンガルテン語に不自由しない修道女は少ない。ユリアが図書係になれた一因でもあった。
マリエンガルテン語で書かれた医学書をその場でユリアが訳し、ベレンガリアがそれを聞き取り、実践する。ユリアはその実践の過程も直接目に見てきたから、初歩的な薬なら彼女も調合することができるようになったのだ。
「ではまた後で」
「あ、ちょっと待って」
ベレンガリアが出ていこうとするのを留め、ユリアはありがとう、と付け加えた。
「あら、どうしたの?」
「傷にいい軟膏を作るのを手伝ってくれたでしょ」
「あぁ、あれ」
ベレンガリアはふふっと笑う。その仕草にも色気が滲む。
「騎士さまにお渡しできた?」
「ええ、帰り際に」
ぐずぐずとして帰る気がまったくなかったコンラートだが、ユリアが軟膏を渡すと飛ぶように帰っていったのだ。やっぱり上機嫌だった。
――ありがたく使わせてもらうぞ!
――その方がいいわ。試合で馬から落ちたというし、あちらこちらに傷があるのでしょう? 騎士は身体を健康にしておかなくちゃ。
――そうだな。じゃあ、また今度な!
「今度」と言われて、ユリアははたと気づいた。どうしよう。しばらく来ないでと言ったのに、耳に入ってないかも。
しかし時はすでに遅し。コンラートは帰ってしまっていた。
「槍試合は危ないからとそれなりに心配で作って、結果喜んでくれたのはいいけれど。……コンラートと話していると、どうにも話が通じていない気が……」
「あら、そういう時もあるものよ? 男と女との間には深くて暗い川が流れているの。隅々まで理解するなんて無理よ」
寡婦のベレンガリアは、頑張りなさい、と背中を軽く叩いて部屋から出た。
ユリアはマルガレーテのベッド脇の丸椅子に座り、その寝顔を観察する。クマが濃く、顔色は青白い。少し面差しがやつれている。時折、苦しそうに呻いており、悪夢を見ているのだったら起こした方がいいのかしら、と考えた。
……マルガレーテの秘密を打ち明けてから、目まぐるしく周囲が変わっていった。マルガレーテは今までよりも大きな部屋を与えられ、特別扱いをされるようになった。代わりに、彼女は広い一人部屋で、たくさんの尋問に答えならなかった。そのためか、近頃の彼女は体調を崩しやすくなった。そのたびにユリアの心には疑問が浮かぶ。このまま行ったところで、マルガレーテのためになるのだろうか。
あぁ、駄目だ。考えてはいけない。きりがなくなる。後悔したって戻れないのだから、あとは日々祈りを捧げるしかない。
胸から下がるペンダントを握りしめ、早口で詩編の文句を口ずさむ。
主神よ、私たちを導いてください。助けてください。
ここにはあなたの仔羊がいます。
手を差し伸べてください。憐れんでください。
修道女マルガレーテに慈悲を。
――そして、今の状況が少しでも遅くコンラートに伝わりますように。
ユリアの軟膏をとても嬉しそうに受け取っていたコンラートは、近頃殺伐とした空気にあった修道院の中では春の一番風だった。コンラートが大きな怪我もなく、試合を終えられたのは素直に嬉しい。ユリアは楽しそうな人の顔を見るのは好きだ。
ユリアの頬が緩みかけたその時、再びノッカーが鳴らされる。
「どなた?」
扉を開けたユリアを、修道士グレゴールが感情の見えない瞳で見下ろしていた。
「ありがとうございます、修道女ユリア。……いつもの儀式を行わせていただきます。……外に出てもらっても?」
ユリアの顔が音を立てて固まっていく。
「……はい。扉の外で待機していてもよろしいでしょうか」
「おすすめしません」
グレゴールは肩をすくめるが、ユリアは頑として扉の傍から離れないつもりだった。
扉に張り付いた彼女は震えながら、両手を組む。
『マルガレーテさま。起きていただきたい。「訓練」の時間です……。ええ、どうぞ。「いつもの」です……。これのおかげで神との交信ができるのですから。……これもすべて、あなたさまのため。あなたが聖マルガレーテとなるために必要なこと』
扉向こうの声の後、ややあってから、「いやあああああぁ!」と、マルガレーテの絶叫が聞こえてくる。ユリアは衝動的に扉を叩いた。
「おやめください、グレゴールさま! 今日のマルガレーテは体調が悪いのです!」
扉は開かない。彼はいつの間にか内側から丈夫な閂をしていたのだ。
『入ってこないでいただきたい! 交信の場に他人が入ると穢れが入ります。彼女は今、仕上がりつつあるのですよ。彼女が神の啓示を受け取れる完全な幻視者になれば、修道院にとってこれほどの財はありません! すべては順調! 私の知る記録通りに進行していますよ……はは……ははは』
グレゴールの笑いに戦慄が走ったが、ユリアにはもうどうすることもできない。一介の修道女が修道院の決定に口を出すことなど許されない。修道院長でさえあれこれ手を尽くしても何もできなかった。それどころか院長の地位を追われ、ユリアと同じ平修道女になり、今は謹慎中である。
コンラートを槍試合に送り出してから、たった十日の間にこんなことが起こるなんて。
「今」を大きな岩が坂道を転がりだし、町や村に被害を与える最後の結末まで勢いをつけていく最中だとしたら、最初に岩を転がそうと思って実行してしまった者こそ、罪に問われるべきなのだ。
ユリアだ。ユリアがもっとマルガレーテを止めていればよかった。
一瞬でも忘れてはならなかったのに、コンラートとのやり取りで自分の罪悪感を少しでも薄めようとする
なんて、マルガレーテに申し訳が立たなかった。
もう何度も流した涙が頬を伝い、床に蹲った彼女に気づく者は誰もいなかった。