10
日は一日一日と過ぎていく。
コンラートが身近な動物や植物、果物の名前をどうにか書けるようになり、木々の緑が芽吹き始め、春の陽気を含んだ風を肌で感じられるようになった頃、コンラートの参加する騎馬槍試合の朝がやってきた。
早朝の息は白い。ユリアは朝の祈祷を少しだけ抜け、修道院の第一の門までやってきた。戦う騎士のために祈りを捧げるためである。これはミンネだからというわけでもなく、戦争前には聖職者に祈ってもらうのが騎士の慣習であるらしい。どうせなら教会の司祭さまにでもお願いすればいいのに、彼はユリアでいいと言い張った。
修道院長はもはや諦めたように溜息をつくばかりであった。
ユリアは跪き、頭を垂れるコンラートに勝利を祈願する詩編の文句を滔々と述べ、もってきた杯から軽く水を撒く。修道女にも許されている略式の勝利祈願である。
「ありがとう」
甲冑姿のコンラートは礼を述べて立ち上がった。ガシャ、と金属が擦れた音が響く。コンラートの金髪はすべて胴体まで繋がる帷子に覆われ、その固い表情は、本当に騎士らしく見えた。
「……無理言ってよかった」
ふっと微笑む。ユリアは内心、ひどく落ち着かない気持ちになる。相手はあのコンラートだというのに。
「怪我には気をつけて」
騎馬槍試合は子供の頃の喧嘩とはまるで違う。よくけが人も死人も出る。勝利すれば、相手の武器や馬など武装全部を手に入れるが、敗北すれば全部失う。
コンラートが身を置いているのは、そういう世界なのだ。
「まあな。……では行ってくる」
まるで何のことでもないように軽く手を挙げて去るコンラート。その手首にはユリアが渡したハンカチが結ばれている。彼は近くの木に待たせていた馬に乗り、あっという間に見えなくなった。
ユリアは門の内に入った。
「ごめんなさい、マルガレーテ。私のために見張り役だなんて」
修道院長から様子見するように言われていたマルガレーテは首を振る。
「ここのところずっと寝込んでいたもの、少しでも外に出られて嬉しいわ」
そう言いつつも、コンラートが消えた方向を気にしている。
「ねえ……ユリア。どうするの」
ふいにマルガレーテが尋ねた。
「この状態は……よくないわ。こんなこと間違っている。だってユリアは修道女よ。……不毛だわ。ユリアはここを出ていかないわよね?」
「……ええ」
ユリアだってわかっている。ここしばらく同僚たちが自分を見つめる時の複雑そうな視線の意味を。エレオノールなどは明らかに外部の男であるコンラートに色目を使っているようで、ユリアがコンラートといるとちらちらと視界に入ってくる。
コンラートはこのスキウィアス女子修道院に波紋を広げている。修道士でもなく、ユリア個人を目当てに通ってきているからだ。
悪影響だと思われても仕方がない。コンラートに「そういうこと」を期待されているのだから、ユリアは突き放すべきなのだ。ただ、彼女はまだコンラートが泣きながら「愛しているんだ」と告げた日に囚われている。主神に毎日祈ったところで変わらない。マルガレーテの問いに沈黙を挟んだのも、そういうわけだった。他の誰にも知られたくなかった。
「マルガレーテの方はどう。……夢のこと」
「相変わらずたまに見るの。ユリア、私はやっぱり悪魔憑きなのかしら」
マルガレーテは暗い顔で俯く。
「結論を出すのはまだ早いわ。でも図書室の本をあれこれ調べているのだけれど……限界が見えつつある」
マルガレーテが心配で色々な聖女の記録を読んでみたけれど、多彩すぎてどういうものが条件なのかわからない。教皇庁がまさか誤った判断をしているとは考えたくないが、図書室の蔵書をすでにほとんど調べ終えてしまった今、他の誰かに判断を仰ぐ段階に至っているのかもしれなかった。
「グレゴールさまに相談してみましょうよ」
滞在している修道士の名前が口に上がり、ユリアは慌てて止めた。
「あの方は外部の方だから……こういう、慎重に扱うべきことを相談するのにはまずいわ。それよりは院長さまに話すのが先……」
「院長さまに話すと本当に大事になってしまうわ。それにグレゴールさまは色々と修道院のお仕事も手伝ってくださるし……ほら、この間も屋根の補修を自ら進んでかって出ておられたでしょう。きっといい方だわ」
「確かにいい方ではあるけれど」
物腰は柔らかで、話しやすいということで、グレゴールは常にこの修道院の人気者だった。図書室に出入りするときは、やや熱意が入りこみすぎているようだが、そこも好感をもって受け入れられている。同じ男性でもコンラートとは天と地との差だ。
「それに、あの方の記憶力はすごいわ。ユリアが入ってきた時も、すぐに聖典を暗記してしまってすごいと思っていたけれど、あんな方もいるものなのね。ああいう方なら、ユリアの知る本以外の知識も旺盛だと思うの。きっと親身に相談に乗ってくださるわ」
当事者のマルガレーテがそこまで言うならば、とユリアは納得した。ユリアも、グレゴールと話しているとその見識の深さに常々驚かされている。そんな彼が味方になってくれればとても心強い。
そこで、ユリアとマルガレーテはグレゴールに事情を話すことにした。
どんな結果を招くか知らないで。