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「どうだ!」
コンラートは来た早々、何も見ないまま書字板に自慢げに自分の名前を書いて、ユリアに突きつけた。ふん、と鼻息も荒そうである。
「これぐらいは楽勝だ。すぐに覚えられる!」
ユリアはぱちぱちと目を瞬かせながら両手で受け取り、改めて書字板の綴りをチェックした。どこにも間違いはない。
「ええ、合っているわ。コンラート」
ユリアは今まで自分が教えてきた生徒たちと同じようににっこりと笑った。
「よくできました」
「お、おうよ……」
途端に赤く染まった頬をかくコンラート。照れる要素がどこにあるのかわからない。
「さ、さあ! 次だ、さっさと次に移ろうぜ!」
椅子にどっかり座ったコンラートが急かすままに、次の内容に移る。今日やるのは、文字の種類についてだった。
さっそくユリアは大きめの羊皮紙の巻物を出して広げた。
「これがハウアー語の文字表ね。でも古帝国語もマリエンガルテン語もほとんど似たような文字を使っているわ。と、いうのも、ハウアー語もマリエンガルテン語の二つが、古帝国語から別れた言葉だと言われているからなの。だからこの文字表を覚えれば、三つの言語どれにも役に立つと思う」
「ふうん」
コンラートはしっかりとユリアの言葉に耳を傾けている。
「それで、コンラートの名前は、これと……これ、これ、とこれ。この文字を使っているの」
ユリアが文字をなぞれば、コンラートの視線も合わせて動く。顔は真剣そのものだ。
その様子を見て、ユリアは何だかおかしくなった。まさか、ユリアがあのコンラートに物を教え、コンラートもそれを大人しく聞く日が来るなんて、昔のユリアなら思いもしなかっただろう。……いや、今でも少し思っている。もしも彼がしおらしくすることもなく、今もユリアに意地悪なままだったら、ユリアに「愛しているんだ」と言ってもとことん嫌い抜けたのだろうに。
でもコンラートは昔と変わってしまった。身体だけでなく、立場も、心も。束の間、ユリアは自分の知らないコンラートの数年間に思いを馳せた。
「ユリア?」
彼が彼女の名前を呼び、顔を上げたところ、コンラートの手がユリアの方に向かったまま空中で停止していた。
「……接触、厳禁だった、な。すまん」
気まずそうにテーブルに下ろす。いえ、いいのよ、と言いかけたユリアは思い切って聞いてみた。
「……院長さまがおっしゃったことは守るのね」
コンラートは両親にもよく反抗したのだ。怒りのあまり家出するとか。もれなくユリアも一緒に連れ出されたが。
「まぁ、それは……院長さまには恩があるからな。それに……今の俺がまだ騎士らしくないっつーのもわかる」
「そうなの。……でも久しぶりにあなたに会って、まさかコンラートが騎士になっていると聞いた時は驚いた」
「うん……まぁ、それは。まぐれだ、まぐれ。俺は大したことをしちゃいねー」
てっきり詳しいことを話して自慢してくるかと思いきや、そんなこともなかった。……どうにもコンラートに関するユリアの予想は外れてばかりである。
ふうん、と相槌を打っていると、コンラートは言い訳するように、
「秋にあったカッセとの小競り合いで、運よく敵方の偉いやつを捕虜にしたんだよ……」
カッセとはユリアたちのいる都市とは一つ飛ばしの位置にある小さな都市であり、何年も前から小規模な武力衝突を繰り返し起こしていると聞く。そこの領主はこの都市を統べる女伯とは遠戚にあり、前々から自分の継承権を主張しているのだとか。
きっとコンラートが言う「敵方の偉いやつ」はその中でも領主の側近や軍事司令官といったレベルの人なのだろう。
「すごいね、コンラート」
ユリアが素直に感心すると、「ま、まあな!」とコンラートは胸を張った。
「あくまで偶然だがな、運も実力の内だってこった。ユリアも困ったことがあったら、俺に言えよ!」
考えた挙句、ユリアは答えた。
「気持ちは嬉しいけれど……今のところは、そんなにないわね」
修道女が騎士の武力に頼ることなんて、そうそうないのである。
コンラートはあからさまにがっかりした表情を見せたが、どうにか自分を立て直した。そうだ、この雑談のついでに自分の要件を口にしておこう。
「ユリア!」
突然の大声にユリアはびくりと肩を震わせた。いきなりなんだというのだろう。
コンラートは一息で言い切った。
「一生のお願いだ! 俺のミンネになってくれ!」
目を丸くするユリア。
「ミンネ? ミンネというと……何だったかしら」
考え込めど、答えは出ない。騎士の慣習としてのミンネはユリアも知っている。むしろ読むのは大好物の部類だった。が、ユリアの中では、騎士とコンラートが上手く繋がってないゆえに、コンラートとミンネが繋がっていると思ってなかったのだ。
「なんつーか、騎士が尽くす相手をミンネっていうんだけどよ、俺は結婚もしていないし、恋人もいないから……あー、そのー、なんだ。ちょっと今面倒なことになっていて、ミンネをさっさと決めちわないといけなくてな? ……ユリアしか当てがねーし」
コンラートはぼそぼそっと付け加える。なお、ユリアは必死に耳を傾けたが、最後の部分はどうしても聞き取れなかった。なので理解できたところだけを頭に入れて、ようやくミンネが騎士の慣習にある「ミンネ」と繋がった。
「愛人と言えば、わたしも本で読んだことがあるわ。たった一人の女性に騎士が精いっぱいの愛情と尊敬を捧げる物語がこの修道院の図書室にあるの。コンラートもあんな感じになるの?」
何だか大変そう、とユリアは心の中で付け加えた。気安い幼馴染だから、という理由だけで今のような態度だったらまだいいが、普段からあの口調だったとしたら騎士の中でも浮いていないかしら、と余計な気まで回してしまった。……いや、なんだかんだと目下の者には慕われやすかったのだから、どうにかなっていると信じたい。
「な、なるぞ。俺にかかれば愛の詩の一つや二つぐらい……」
「へえ、どんなものがあるの? 聞いてみたい」
大口を叩いたコンラートは引くに引けなくなった。
「か……」
「か?」
「か、川にいるカエルのような女、その身体はたくましい……と、跳ぶ距離はすげえ」
「……」
「う、馬のようにぶっとい足で蹴って……その糞は肥料となって役に立つ」
「……」
「……ヒヒーン!」
最後はやけっぱちで馬の鳴き声を披露するコンラート。
ユリアはものすごく申し訳ない気持ちになった。すごく頑張って自作の詩をひねり出そうとしたのだろうが、壊滅的な出来栄えである。
「……ごめんなさい。私の知る恋愛詩は少し古いものだから、新しいものを知っていれば聞きたいな、というぐらいの気持ちだったの……本当に悪気はなくて」
そう言えば、コンラートが「愕然」そのものの表情になった。まさかユリアが恋愛詩そのものを知っているとは思っていなかったのだろう。ユリアは思わず緩みそうになる口元を覆う。
「ええっと……よければ、だけど。わたし、できるだけ協力する。わたしは修道女だから表だってミンネになることはできないけれど、そのフリぐらいならできるもの。何か必要なものはある?」
コンラートは複雑そうな顔のまま、後頭部ががしがしと掻いた。羞恥心と嬉しさで頭の中はてんやわんやである。
「……ハンカチが欲しい。できれば刺繍入りの」
「刺繍入り? ……自分の名前が入っているぐらいのものしか」
「それでいいから」
ユリアが自分のハンカチに刺繍が入っているか調べようと取り出したら。貸せっ、とばかりにコンラートにひったくられた。目にもとまらぬ早業である。コンラートはなぜかそれを腕に巻き、しげしげと眺めた。
「……うん、こんなものか。悪いが、ユリア。これもらっていいか?」
「えっ? ええ、まあ……。でも、できれば後で返してほしいのだけれど」
「新しいやつ買ってやるから」
「駄目よ。修道女のハンカチは支給品なの。一人だけいいものを持っているのは規則違反だわ」
コンラートは不満そうに唇を尖らせたが、やがて了承した。
「槍試合の時に身につけるから、だいぶ汚れるかもしれないぞ」
「それでもいいわ」
ユリアが納得すれば、彼はいそいそとユリアのハンカチをポケットに仕舞いこんだ。
よし、と晴れ晴れした顔で授業に戻る。
その様子を見ていたユリアは、やる気に水を差すような真似はしたくなかったので、あることをコンラートに告げるのはやめよう、と決めた。
彼が持ってきた雉肉のことである。あれは早々に傷んでしまい、半分が修道院で保護されている女性たちの口に入り、もう半分が破棄され、ユリアを含めた修道女たちには一口も食べられなかったのだ。どうやらユリアの好物だからと持ってきてくれたのだろうに、申し訳ないことをしてしまった。
その申し訳なさも含めて、ユリアはミンネのフリを了承したのであった。
途中から、コンラートは非常に静かだった。帰る間際に、彼は自分の唇の端を指し、ユリアに問うた。
「……ユリア。お前、喧嘩中なのか。口元、怪我しているぞ」
「そうね……喧嘩中かも」
彼女はエレオノールを思い浮かべる。エレオノールの方は喧嘩とも思っていないだろうが。
「……わたしの喧嘩なの」
「ならいい。……絶対勝てよ」
コンラートは人の喧嘩には絶対手を出さない。誰かが助けを求めない限りは。