8
階段降りたところにとびきり若い修道女がユリアを睨み付けていた。
「エレオノール、そこをどきなさい」
「……グレゴールさまと何を話していたの」
「あなたには関係のない話よ。それより、あなたが与えられた奉仕をさぼっている方が問題だわ。私が指示した詩編の書き取りは済んだ? 廊下の掃除は? 衣服の繕いは?」
エレオノールは不愉快そうに黙り込む。その顔にはありありと「やっていません」と書いてあった。
「エレオノール。どういうつもり。あなたもこの修道院の一員である以上、果たさなければならない義務があるのよ。あなたがやらなかったことで、誰かの迷惑になるということ、きちんとわかって頂戴」
「そんなの知らないわよっ!」
エレオノールが叫ぶ。聖堂中に反響する声だが、誰もやってこない。エレオノールが癇癪を起すのはいつものことだからだ。
「わたくしはこんなところに来たくなかった! なのに、勝手に連れてこられて、こんな薄汚れた仕事ばっかりしなくてはならないなんて、冗談じゃないわ。お前がわたくしの代わりに全部やればいいのよ! わたくしの指導係か何か知らないけど、わたくしに指図する資格なんて、お前にはないのよ! ああ、不愉快、わたくし、失礼するわ!」
「エレオノール、待ちなさい!」
「無礼者!」
ユリアが伸ばした手がばちん、と叩き落とされた。驚きの後、じんじんと痛みだす手。
そして頬にも、ばちん、と甲高い音が。唇の端が切れて、鉄の味が広がった。
主神を讃える聖堂の中で、なんてことを。
エレオノールにはわからないのか。たとえ元が貴族の家柄だろうと、修道院に来たらただの一修道女でしかなく、自給自足を旨とする修道院では貴族出身の修道女でも色々な労働が課され、互いに協力しあって生活をしなければならないのだと。
そしてユリアが指導係になったのも、エレオノールが持っていた帰属意識を取り払うためなのだと。
エレオノールが信仰心も何もなく、財産を分散させないための口減らしに最近修道院に入れられたばかりだと知っていてもなお、目に余る。
ユリアは震える息を吐きだした。自分を落ち着かせるように。
――院長さまにお願いして、しばらく反省室に入れてもらいましょう。
元が平民のユリアが相手だとエレオノールがつけあがるのだから、立場が上からの人間の言葉には逆らわないに違いない。ある意味わかりやすいわがまま令嬢である。
「見ていなさい! 今にここを出ていってやるんだから!」
捨て台詞を吐いて、悠々とエレオノールは聖堂を出ていった。その後ろ姿はまさに女王様である。ユリアはそっと口元を拭って、とても情けない気分になった。相手は数歳も年下だが、今この修道院で一番ユリアを振り回している修道女である。
さすがにどうにかしなければ。
一時は院長の言葉でどうにかなっても、ずっとというわけにはいかないのだ。
ユリアがそんなことを考えつつ歩いていれば、通りがかった修道女たちが気の毒そうな視線をこちらに投げていた。時折、大丈夫、と囁く者もいる。よほどひどい顔をしているのだろう。
居住区角の一室にノックして入れば、ぎょっとした顔が二つ並んでユリアを見ていた。ベッドから上半身を起こしているマルガレーテと、ベッド横の丸椅子に座る、彼女と同室のベレンガリアである。
「ユ、ユリア……? どうしたの。あっ、まさかまたエレオノールが……」
「あぁ……えっと……うん、そうね」
マルガレーテの問いにさすがに誤魔化しきれないユリアである。
「あの子、入ってからずっとあんな感じだものね。何をそんなにかりかりしているのだか。焦ったって何も変わらないでしょうにねえ」
頬に手を当て、ほうっと息をつくとどことなく艶めかしく見えるベレンガリアは呆れたようにそう言って、立ち上がった。
「じゃあね、マルガレーテ。もう少ししたらまた熱さましの薬草を持ってくるわ。あと、ユリアにも後で張り薬を渡しておくからね」
「わたしの分まで? ありがとう」
「どういたしまして。その代り、マルガレーテをしっかり看ていて」
「ええ、わかっているわ」
バタン、と扉が閉まる。ユリアがマルガレーテの方へ顔を戻すと、彼女は明らかにむくれたような顔をしていた。
「……別に、大したことないのよ。ちょっと熱があるだけで、今日も十分に奉仕できたはずだわ」
「でもマルガレーテは身体が弱いから……皆心配しているのよ」
子どもをあやすようにヴェールをかぶっていない金色の巻き髪を撫でると、マルガレーテは、わかってる、と呟いた。
「ただ……私だけベッドの上にいて、皆に迷惑をかけているのが申し訳なくて」
「マルガレーテのことは迷惑でも何でもないわよ。仲間だし、マルガレーテだって私たちを大事に思ってくれているのなら、これぐらい当然のことだもの」
ただ、と心の中で呟く。エレオノールがマルガレーテの気持ちのせめて半分なりともわかってくれれば、ユリアだってだいぶ助かるのだが。
「ユリアは優しいね」
「わたしなんて全然だわ。わたしからすれば、マルガレーテの方がずっと優しい」
ううん、とマルガレーテが首を振る。とても暗い口調だった。
「私、全然善人じゃない。私……私は、とても浅ましい……」
熱で少し潤んでいた胡桃色の瞳からぽろぽろと落ちる雫。どうやら熱のせいで少し情緒不安定になっているらしい。
「また夢を見たの」
マルガレーテは声を潜めた。
「ユリアにも以前話したでしょ。……枕元に主神が現れて、私を抱きしめて、情熱的な口づけをするの。『私を受け入れなさい。私の聖なる女よ』とおっしゃって……一緒に寝台に倒れこむ夢……。でも、今日は少しだけ変わっていて、主神と一緒にあの騎士がいて、主神は私に口づけながらこうおっしゃったわ……『そこで私たちの仲睦まじさを見せつけてやるのだよ。その男が私とそなたの仲を引き裂こうとしている』と。私……私は、とても愚かしいことに、その言葉に興奮してしまって……」
マルガレーテは泣きながら顔を覆った。
「私……変でしょう? ユリアは幻視かもしれないと言っていたけれど、こんな卑猥な夢を見るだなんて……主神への冒涜だわ。ねえ、どうしよう、ユリア。私には悪魔が憑いているのではないかしら」
「マルガレーテ、落ち着いて」
ユリアはその背中をさすり、マルガレーテの胸に下がる花弁を象ったペンダントを握らせてやりながら言う。
「あなたに悪魔は憑いていない。私から見て、どこにも悪いところなんてないから安心して。夢のことは……私にもわからないけれど。それでも、慎重に判断することだから、もう少し様子を見ましょう。私も昔の幻視者の記録も当たってみるから。ね? もしもそれでも心配なら、同室のベレンガリアにお願いして、寝ている時も看ていてもらうようにしましょうか」
「それは駄目よ」
マルガレーテはゆるゆると首を振った。
「これ以上、誰にも話したくないの……。私の夢のこと、知られるのが怖い」
「……うん。わかったわ。私も誰かに話したりしない」
ユリアは自分の胸に下がるペンダントを握りながら誓った。
十二枚の白い花弁は、主神を象徴するもので、修道女たちは皆これをペンダントとして身につけている。手元に聖典がない時、修道女はこのペンダントを信仰の寄りどころとしていた。
泣いたためか、マルガレーテはその後すぐに寝入った。その寝顔は少し息苦しそうにも見え、ユリアは自分のことのように苦しくなった。マルガレーテの額に絶えず浮かぶ汗を拭き、時々冷たく濡れたハンカチを乗せてやる。
……マルガレーテはユリアに秘密を打ち明けるのにも相当な勇気を振り絞ったはずだった。下手に話したらマルガレーテに待つ道は二つだけ。新たな幻視者として周囲から崇められるか、悪魔憑きとして一生幽閉されてしまうか。
できればマルガレーテには前者でいてほしいと思っている。……でも、ユリアには判断がつかなかった。もしも悪魔憑きだったとして、ユリア自身が告発することなんかできるはずがない。マルガレーテはユリアと同い年で、入った時期も近くて、ユリアにとても親切にしてくれたのだ。
それに、マルガレーテは身体が弱い。冬には二度三度と寝込むことが普通なぐらいで、幽閉されてしまったら、命さえ危うくなるかもしれない。
ユリアは静かな部屋で一人ため息をついた。
幻視……神から与えられる何らかのビジョンのこと