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スキウィアス女子修道院には二重の門があった。一つ目の門は外界と内部を隔てるもので、その内側には菜園や薬草園、果樹園などが並び、出入りの商人たちや巡礼者、遍歴の修道士などを泊める客人棟、ユリアがコンラートに文字を教えている応接室もここにある。
二つ目の門は修道院における宗教空間を区切るためのもの。この内部に入るが、スキウィアス女子修道院の本来の絶対的禁域に当たる。図書室を含んだ儀式を行う聖堂と、そこに附属する礼拝堂、修道女たちの居住区角、食堂などが建ち、それぞれが回廊で繋がっている。
しかし、絶対的な禁域と言っても、修道女たちしか入れない、ということを意味しない。禁域は、俗世と隔てるもの。同じく世を捨てた同志と見なされる修道士はその限りでない。夜には禁域に入れないよう客人棟には鍵がかけられるが、昼間は修道院長の許しを得て、禁域に立ち入れる。そうしなければ、聖堂や礼拝堂に祈りを捧げられないからだ。
「なるほど。これは素晴らしい図書室だ」
グレゴールが図書室にあるいくつもの本棚を早足で巡る。
「とてもこのスキウィアスだけの写本ではあるまい。この規模の女子修道院にしては恐ろしいほどの充実具合だ……。しかも聖典ばかりだけでなく、古帝国の神話や学問、哲学の著述、現代の吟遊詩人たちの恋愛詩集まで! ああ、なんと素晴らしい! この図書室には小さいながらも完成された知の迷宮が詰まっている!」
両腕を上げ、大仰な仕草で喜びを露わにするグレゴール。採光のために取り付けた窓ガラスから入る光が彼の白皙の美貌を照らし、きらきらと……輝いている。彼が動いたせいで舞い上がった埃のせいでもあるが。
「は、はあ……」
ユリアは口をぽかっと開けながら、人形のように頷いた。グレゴールについていけないのである。
正直、ユリアはグレゴールのことを適度な社交性はあるものの、寡黙で物静かな修道士だと思っていたのだ。現に、夕食後や各祈祷の後に、他の修道女たちと穏やかに話しているのを見る限り、まさか図書室に案内した途端に興奮気味に図書室を見て回り、喜びに身体を震わせ叫ぶような人とは思うまい。
「修道女ユリア! ここの蔵書は誰が揃えたのですか! ぜひとも後学のためにお聞きしたい!」
緑の眼がしっかりとユリアを捉えたのを見て、彼女は部屋の入口に佇んだまま答えた。
「わたしが知る限り、最初にここの図書室を整えたのはスキウィアス女子修道院を作られた聖女、聖ユリアだとお聞きしております。ここで所蔵されている『聖ユリア伝』は聖ユリアの業績を称えたものですが、それによると、聖ユリアは世界の知識や真理に関心をお持ちだったらしく、学問や書物の貴賤無く、あらゆるところからの書物を収集と写本製作を指示されました。歴代の修道院長もそれに倣ったのだとか」
「なるほど。それは興味深い。聖ユリアは知識を得た女性たちの守護聖人となっていますからね。あなたの名もそこから名づけられたのですね」
急に矛先が向けられた。……話しかけられても困るのだが。
「いえ。わたしの名は母方の祖母からもらったもので、聖ユリアとは偶然にも同じ名でした。ですが、この名のおかげでわたしは修道女になれましたので、聖ユリアが導いてくださったものと考えております」
ユリアが十三歳の時。物騒な街中をどうにか通り抜け、街外れの女子修道院についたのはほとんど夜明けだった。主神を讃えるお祈りの声が絶え間なく続く中、ユリアは門扉を叩いたのだ。
――ごめんください。
――まあ、どなた?
――わ、わたし……修道女になりたいんです!
――……はあ?
十三歳。ユリアは世間知らずな少女だった。母と同じくお針子になる修行はしていたものの、一人で外に出るのも嫌がるほど内気だった。多くの修道女の出自が裕福な家柄であり、修道院に入るにも喜捨を積まなければならないことも知らなかったのだ。
最初、ユリアは嫌な縁談から逃げ出して、修道院に助けを求めに来た少女として保護された。それ以上でも以下でもなかった。
――ユリア、あなたはどうして修道女になりたいのですか。
初めは小娘の世迷言だと取られていたに違いない。誰もまともに相手にしてくれなかった。だが、一人だけ、ユリアの言葉に耳を傾け、尋ねた人がいた。
彼女は夢中で答えた。
――本を読みたい、とずっと、ずっと思っていたんです! あの、キラキラした本を!
――まあ。
その人はうっすらと笑った。
――あなたが見たのは、きっと教会で保管されているとびきり豪華に作られた典礼書の類でしょうかね。……教会の権力を俗人に見せびらかすためのものですよ。
よいしょ、と彼女は杖をついて丸椅子から難儀そうに立ち上がりかけ……杖をもたない手をユリアに差し出した。
――歩くのが辛いから、少し手を貸してくれるかしら。
――は、はい!
ユリアは枯れ木のような手をしっかりと握り、背中のほうまで腕を回して、老女を支えた。そのまま、老女の言われるままに修道院の奥へ奥へと進んでいく。気づけば、第二の門も通り過ぎてしまった。聖堂にも入ってしまい、その壁際からひっそりと続く階段を登り、その先の扉も開く。
広がるのは幾つもの大きな本棚。巻物が収められているものもあれば、鎖で繋がれた大型の本から修道女たちが持つ小型の祈祷書まで。千を超えるのではないかと思うほどの本がユリアを見下ろしていた。
ここに座らせておくれ、と老女は読書台前の椅子を指差し、それが終われば今度は、何番目の本棚の右から何番目の本を取っておくれ、とユリアに指示する。
言われた通り出したものは、革の表紙がすりきれた手のひらほどの大きさの本だった。もちろん、何が書いてあるのかよくわからない。
老女は適当に本の頁を開き、その一節を朗読してから彼女に言った。
――本の価値は、見た目だけで決まるものじゃないの。本当に、きらきらと輝いているのは、外見じゃなくて、そこに書かれた知識。知識こそが、何よりの財産になるのだから。修道院はこの知識を守り伝え、そして作り出す場所なのですよ。『ユリア』。あなたはこの本の一節を聞いて、どう感じました? きらきらを、感じられましたか?
――はい! わたしは……ちゃんとその本を読んで、何が書いてあるのかを知りたい。八歳のあの日から、ずっとずっと……そう願っていました。
――今から読み書きを習うのは大変ですよ。まして筆写係となれば、ここにいる修道女たちの誰よりもきれいに、そして早く文字を書けなければなりません。多くの経験と知識が必要です。……それでも?
――それでも……やりたい。修道女さま、わたし、どうしても修道女になりたい! どうすればいいですか、教えてください!
老女は視線を本へと移し、その表面を撫ぜる。皺の多いその横顔の内で、彼女は何を考えているのだろうか。
――聖ユリアがこの修道院を設立して三百年、それまでここに『ユリア』という名の修道女が在籍したことはいなかった。不思議なことにね。けれど、『聖ユリア』と同じ名を持つあなたが聖ユリアの守護する知恵を求めてやってきました。これもまた、一つの縁でしょうかね。
――あの、それって……。
――ユリア。どうしても修道女になりたいというのなら、どんな努力も惜しまないというのなら。……この年寄りの最後の弟子となりなさい。あなたに私のすべてを叩きこみましょう、聖ユリアと同じ名を持つただのユリア。
その人こそ、ユリアの前の図書係であり、ユリアの師匠でもあった修道女アッタ。
彼女が聖女の名を持ち出して周囲を説得してくれなければ、今のユリアはなかった。
「この隣室が写字室となっていますが、グレゴールさまは使用されますか。一応、二つあるうちの一つは空け、数枚ですが写本用の羊皮紙や羽ペンなどを準備しておきましたが……」
「いや、結構。必要ない」
「なら、自室の方ですね。後ほど準備させていただきます」
今まで来た写字生の中にも、夜にも作業したいから、と自室での写本を希望した者がいたのだ。しかし、それにもグレゴールは首を振る。
「すまないが、写字室などの準備はいりませんよ。必要ないのです」
「ですが……研究のためとはいえ、写本もされるのでは? グイドット修道院長の手紙からはそのように伺っていますが……」
「写本はしますよ。そのために各地の修道院図書室を回っているのですから」
グレゴールはおかしそうに笑い、自分の頭をとんとん、と叩く。
「写すのは、羊皮紙ではなく、ここ、です。よく言うでしょう。『人の頭にこそ、世界の真理が眠っている。頭脳こそが、本以上の知の迷宮である』と」
古代の哲学者の言葉を引用するグレゴール。彼は云う。――私の頭には万の書物がすべてそのまま入っている。
ユリアは信じられない気持ちで相手を見つめた。
「だから、こちらで昼間に読書だけさせていただくつもりです。特に何も必要ないのですよ。……では、さっそく本を読ませてもらっても?」
「え? ええ……どうぞ。わたしは用事がありますのでしばらく失礼しますね。何か御用でしたら、一階の聖堂などには誰か人がいるでしょうから、そちらの方からお呼びください」
いそいそと読書台に向かうグレゴールを残して図書室の扉を閉め、どこかぼうっとしながらも階段を降りる。