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ジャンル変更いたしました
異世界恋愛→ヒューマンドラマ
「あ! やっと戻ってきたんですか! 随分と探していたんですよ!」
城館近くの宿舎の前で、同室の同僚であるエンツィオが戻ってきたコンラートにすぐさま駆け寄り、近くの路地に連れ込んだ。
エンツィオはコンラートの四つ下だが、同時に騎士の叙爵を受けた同僚に当たる。世襲騎士の家系なのだから、二十歳前の叙爵は珍しくもない話だ。彼の顔立ちにも、そんな彼の育ちの良さがうかがわれるが、平民出身のコンラートをなぜか舎弟のように慕っている。
「おい、どうしたんだよ、エンツィオ。わざわざこんなところに連れてこなくてもいいだろ」
コンラートの手には後生大事そうに握られた書字板があった。早く帰ってさっそく練習しなければ、と気合を入れていたコンラートだが、その決意に水を差されたような気がしたのである。ちなみにコンラートにとって自身の名前を書けるように練習するのは、純粋に文字を学ぶ楽しさに目覚めたわけでも何でもない。ユリアがコンラート、と自分の名前を書いてくれた事実が重要なのである。
「コンラートくん、まずいですよ! やばいですよ! 死んじゃうかもしれません!」
しかしもちろんエンツィオがコンラートの事情を知るはずもなく。彼はやっと帰ってきた同僚に、自分の知った事実を伝えたいだけであった。
「口開いたと思ったら、よくわからんことを……。どういうことだよ」
「だから、まずいんですって! ここはしばらく僕がどうにかするんで、コンラートくんはどっか行っててください。きっと酒が抜けたら冷静になるはずなんで!」
「はあ? やだよ。俺は帰って勉強するぞ。次は四日後だからな、それまでには寝てても頭にユリアの文字が思い浮かぶぐらいに練習を……」
「何を言っているんですか。勉強? コンラートくんに続けられるとは思いません。なので、先ほどから言っている通り、さっさとどっか行っててください。……って、言っているでしょおおおおぉ」
いくら話しても埒があかないと思ったコンラートはエンツィオをどかした。エンツィオは聞き分けも良く、素直であるのがよいところなのだが、どうにも人にものを伝える能力に欠けている。
宿舎の建物に入ろうとした時、先に扉が開き、中から足元がふらついた騎士の男が出てきた。最近、城に出入りするようになった男で、確か名前はライノルトと言ったはずだ。
彼はコンラートを目にした途端、すさまじい怒りの形相で詰め寄った。
「お前か、コンラート! 俺の女房をたぶらかしやがって! 恥を知れよ、恥を!」
「はっ、誰が人妻をたぶらかすかよ、ライノルト! 人の顔を見た途端に、喧嘩売りやがるやつがいるかよ! まったく身に覚えがねえよ! そもそも俺はあんたの嫁のことなんて知らねえ!」
コンラートも相手の首元を掴み返して、怒鳴る。もはや反射的な行動だった。
「何だと、知らねえわけがないだろうよ! 昨日会って話したってロレッタが言ったんだよ! 頬を赤らめてな!」
「だから! 知らねえって言ってんだろ! 夫婦の痴話げんかに俺を巻き込むなよ。第一、ロレッタって名前の女は知らねえ……」
と、言いかけたコンラートの口が止まる。確か昨日巡回中に目の前で落ちた髪飾りを拾ってやった女がおり、尋ねてもいないのに自分の名前を名乗り、家に誘われたことがあった。ロレッタ、と名乗ったような気もするが、初対面にも関わらずひどく馴れ馴れしい態度を取られたので、随分と気味が悪かった。
「……やっぱりな」
考え込むコンラートに対し、勝ち誇ったようにライノルトが言う。
「この間男め! 騎士という身分でありながら、恥知らずにもほどがある! 私たち夫婦の名誉はひどく傷つけられた。もはやこうなっては……決闘だ!」
わっ、ちょっと待って、とエンツィオが二人の間に割って入った。
「ライノルト殿、落ち着いてください。騎士コンラートは確かに以前、あなたの奥方であるロレッタ様の夫候補だったと聞いていますが、だからと言って、二人が不貞行為に及ぶはずがありません。騎士の名誉にかけて、この僕が保障しますから、だから落ち着きましょう、深呼吸しましょう、ねっ」
エンツィオの話で、ようやくコンラートも状況を把握できた。
ライノルトは、自分の妻とコンラートが道ならぬ仲になっていると思っており、その疑惑はどうやら妻の態度とコンラートが以前断った縁談の話から来ているようである。
本人からしたら、事実無根なので巻き込まれるのは甚だ不本意であった。もしも決闘の準備のための金がかからなかったら、喜んで決闘に応じたかもしれない。その方がわかりやすく白黒つけられる。
「……エンツィオ。酔っ払いは放っておいて帰るぞ」
ほっとあからさまに息をつくエンツィオ。……だが。
「ああ、そうか、お前、金がないんだったな! 俺と違って、妻の実家からの援助が受けられないんだもんな! あはははははっ、忘れていたぞ、騎士コンラートは『持たざる者』だったよなあ! 平民は大変だなっ」
「……お前だって、昔は平民だったと聞いていたがな」
酔っ払いに何を言っても無駄ではあるが、コンラートはライノルトの手を自分の首元から引きはがして睨む。
「清廉な騎士として尊敬を集めているヴェンツェル様が愛娘のためにと選んだ婿がこのような心の狭い男だったとは残念だ。……何せ、頼る者もない『独り身』の騎士だからな、一対一の決闘には応じられないが、今度伯家で行われる馬上槍試合でなら、お相手することもあるかもな。では、素面に戻った頃にまた会おうぜ、『出世頭』殿」
「なっ……!」
飛んできた酔っ払いの拳を避けて、コンラートはさっさと宿舎に入った。拳は狙いを外れて木製の扉に当たり、ライノルトは痛みに呻く。
エンツィオはコンラートの後について入り、背後でぴしゃりと扉が閉めた。
「……どうやら、ライノルト殿は朝方に奥方と喧嘩したようですよ。何でも、奥方の方が離縁を願い出たとか。『あなたなんかと結婚するんじゃなかった。最初に話を持ってきた御方がいいって、何度も言ったのに!』と。それで、コンラートくんのことまで辿りついちゃったらしいです」
「完全にとばっちりじゃねえか。自分の嫁ぐらい自分でどうにかしろよ」
「ごもっともです。……まあ、でもコンラートくんにだって、非はあると思いますよ」
「なんでだよ」
「だって、ミンネをまだ決めていないでしょ。決めてないなら、もしかしたら自分の妻かも……なんて思ってもおかしくないでしょう?」
「ああ……騎士は愛人を一人決めて奉仕するっつー……慣習か」
いまだに騎士の慣習に馴染めていないコンラートである。
ミンネへの奉仕とは、騎士が既婚の貴婦人に対してプラトニックな無性の愛を捧げ、彼女の尊厳が傷つけられた時、彼女の名誉のために戦うというものだ。なにやら、そのプラトニックな無性の愛の証に戦うほかにも、愛の詩を歌ったりしなければならないらしい……。
エンツィオが言うには、この「貴婦人」に当たる女性は最近では範囲が広くなって、恋人、婚約者や妻、手にいれられない人妻でもアリなのだそうである。そして恋われる女性の夫たる男性は、他の男が妻に向かって愛を乞うのを、寛容に許すのがよいそうだ。意味がわからない。自分の妻に言い寄る男が嫌だ、という感覚はライノルトと大して変わらないようである。
「……俺には無理だ。愛だのなんだの素面で言えるか。軽薄すぎるだろ」
「無理だとしても、それが騎士の伝統ですし……。ちょっとは頑張りましょうよ。よく使われる定型詩ぐらいは教えますから。そうすれば宴で披露することになっても安心です。それに……他にミンネがいると知れば、ライノルト殿だって引いてくれますよ。決闘にも発展せず、万事解決です」
エンツィオの主張はコンラートにもわかる。宴で詩を披露できなければ恥をかくだろうし、ライノルトの疑念を払拭しておかなければ、後々面倒なことにもなるのだ。最悪なのは、不名誉を着せられ、決闘になることである。
騎士になって間もないコンラートには装備を一揃えさせるのに手いっぱいで、決闘になった時にその装備が摩耗し、新しい武器を買い替えなければならなくなると非常に困ったことになる。騎士の後見人を得るために老騎士の養子となったコンラートは、養父に頼るという手段はない。
ふん、と鼻を鳴らしたコンラートは部屋にある自分の寝台に座って、腕を組んだ。向かい側のベッドにはエンツィオが座る。エンツィオは寝台傍の燭台に火をつけて、コンラートの分もついでにつける。
「前々からミンネを決めるようにと色んなところから言われていたじゃないですか。もうここまで来たんですから、この機会にさっさと決めてしまいましょう。迷うようなら無難にここの女伯さまでいいじゃないですか。女伯さまもそれを認めてくださっていますし。ただ、僕とは疑似的に恋敵になっちゃいますけど」
エンツィオは女伯をミンネと決めていたのである。
「お前と恋敵になるのは勘弁してくれ」
「僕は構いませんよ。疑似ですからね。……でも、そもそもはコンラートくんがその年になってもまだ婚約者も結婚もしていないのがまず問題なんですよ。コンラートくんぐらいの年の男は大体もう妻帯して、子どももいる頃じゃないですか。それなのに、特定の相手も作らないまま……。ライノルトがコンラートくんとの縁談を聞いて、警戒心を抱いても不思議じゃあありません。あそこの夫婦、上手くいっていないようですからね。毎日のように喧嘩しているそうですよ」
「だから、俺の方に飛び火してきても困るっつーのにな。ちっ、しょうがねえ。今度の馬上槍試合までにライノルトの誤解を解くことにする。……それで、ミンネを決めたことをライノルトに知らせるにはどうすりゃいい」
「さっそく僕に頼るんですね!」
「……まあ、頼む」
エンツィオは朗らかに、いいですよ、と請け合った。喜んでいるあたり、非常に下僕根性旺盛な同僚である。
「一番いいのは、ミンネへの愛の告白に立ち会ってもらうことですね。さっそく女伯さまへの謁見を取り付けてきますか」
「待て。誰もミンネが女伯さまにするとは言っていない。第一、恐れ多すぎる」
コンラートが知る女伯は、遠目で眺めたのを除けば、騎士の叙爵で行われる刀礼の儀でのことである。造作そのものは整っていたが、感情の薄そうな、ものすごく厳しそうな婦人であった。ああいう人だから、統治者ができるんだろうなあ、と思ったもので、とてもではないが愛の告白をするような相手じゃない。
「だったら、他に当てはあるんですか」
コンラートはじっくりと熟考してから、「……ある」と答えた。
「が、ライノルトのいるところへ連れていくことはできない。他の方法はないのか」
「だったら馬上槍試合で手首や腕にわかりやすくミンネのハンカチを巻いて、ライノルトにミンネの名前を告げればいいんじゃないですか」
「それだ。今度頼んでみる」
エンツィオは目を瞬かせた。
「……本当に当てがあるんですか」
「当たり前だ、断られる可能性もあるがな」
「……男じゃないですよね?」
「女に決まってるだろ! 俺にだって好きな女ぐらいいる!」
「けど、コンラートくん、以前ぽろっと、娼婦相手でもヤれねーって……」
「忘れろ!」
忘れます、とエンツィオは大人しく口を噤んだ。コンラートはふて寝を決め込んだ。
コンラートからしたら、今日はユリアに会えたこと以外、散々な一日である。
朝張り切って雉を狩って届ければ、運悪くユリアと鉢合わせして叫ばれて、修道院長には礼儀がなっていないから、とユリア接触禁止令を申し渡され、挙句、ユリアが喜ぶだろうと思った雉肉は、ユリアの口に入らずじまいになるかもしれないと言われ、帰ってくればライノルトに絡まれる。
……他にまだ何かやらかしていないだろうな。
……いや、あったぞ。ユリアの前で修道院長に向かって噛みついた。ユリアからすれば、院長は恩人も同然、コンラートに愛想が尽きたかもしれない。
コンラートは頭を抱えた。後悔癖はまだまだ健在である。
ユリアが都合よく忘れてくれるはずがなかった。
ミンネ……直訳では「愛」。この愛はプラトニックな宮廷風恋愛を指しており、騎士の伝統の一つ。奉仕する女性を指す。ともすれば暴力的に陥りかねない騎士を道徳的に制御する手段でもある
女伯……主人公たちが住む都市の領主。名前はきっとイゾルデ